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>■第6章【奴隷制度よりヤバい学校制度】
>もちろん、挑戦に失敗や苦悩は付き物です。 >学ぶことは基本的に辛いことです。 >難しいことに悩み、長く継続しないと結果は目に見えない。 >決して、失敗や苦悩から逃れる方法があるとは言ってません。
そうですね。’学問に王道なし’ ですね。There is no royal road to learning.
>ただ、全員が全員、一律の科目を勉強させられるそういった制度がおかしいのではないかということです。
そうですね。個人の個性を重視した教育になっていないですね。金太郎飴のよう顔をした人間の育成ですね。
>スポーツだって野球、サッカー、テニス、柔道、ラグビー、色んな競技があります。 >みんなが、ラグビーに打ち込まなくてはならないなんてことはない。 >各々が望むスポーツをやれば良いのです。
そうですね。それぞれがそれぞれの選手権を目指せばよいのですね。
>同様に、みんながみんな、物理を勉強しなければならないとか、古典を勉強しなければならないとか、おかしいですよね。
そうですね。わが国は序列社会で成りたつ国であります。そして、勉強は序列社会を維持するために運営されています。人間序列を定めるためには ‘みんながみんな’ でなくてはならない。国を挙げての序列である叙勲のようなものでしょう。次元の違った人たちを同一の水準で判定するのが狙いです。
>今の学校制度はそういうことを平気でしています。 >多くの大人たちも、この時代の変化に気づかず、子供たちに有名大学に進むことを望みます。
偏差値は同次元の比較都合の良い仕組みですね。序列社会は容易に崩れませんね。その原因は我々の使用言語の中にある。心ここにあらざれば、視れども見えず。
日本語には、階称 (言葉遣い) というものがあります。この ’上と見るか・下と見るか’ の世俗的な判断が疎かであると日常の日本語会話にも差し支えるほど重要なものであります。
人々はあちこちと人間序列の尺度を求めていますが、戦後は偏差値などが都合の良い資料なっています。どうして序列判断が日本人にとってそれほど重要であるかというと、’人を見損なってはいけない’ からであります。カミの上下を間違えたりすると、恐ろしい祟り (仕返し) を受けることになるからであります。ですから、世俗的な序列判断を間違えることのない、礼儀正しい日本人になる必要があるのです。その代わり、序列なき場所においては礼儀なしの状態 (無礼講) となります。
>子供たちの為だと思い込んで、子供たちの時間を奪ってしまっているのです。
両親は、序列制度に適合させるための時間を自分たちの子供たちに与えているのですね。
>1日の大半を学校で過ごし、帰ってからも課題をやる。 >「めんどくせぇ」とボヤきながらも学校に行き、「将来ぜってぇ使わねぇし」と言いながらも仕方なく課題に取り組む。>自分の時間を過ごしている状態とは、程遠いです。
そうですね。
>他人の人生を生きていしまっています。>その時点で、奴隷と一緒です。
奴隷は人間の形をした家畜ですからね。わが国では、奴隷は社畜と呼ばれているのかな。
>「そんな事ないだろ」「学生は勉強させてもらってるんだ。むしろ恵まれている」と言う方もいると思います。 >実際に、僕自身そうやって自分に言い聞かせながら、授業にのぞみ、大学受験の勉強をしていました。
考えは人様々ですからね。
>しかし、そこが1番厄介な点です。 >この点で、奴隷より悲惨な状態です。 >「自分が奴隷だと認識出来ていない奴隷」なのです。 >めんどい、だるい、嫌だ、も思いながら学校生活を送ることは、決して(現代において)恵まれた状態とは言えません。
そうですね。 昔通りに ’不自由を常と思えば不足なし’ になっていますね。
>しかし、遠い過去と比較して「自分たちは恵まれている!」と思い込み、思考停止するのです。
日本人には世界観 (非現実) がない。各種の世界を考察する習慣がない。だから、来るべき次の世界を想定する力もありません。
>あまりにも多くの人が、学校に行くことは当たり前だ、という幻想を信じ続けているのです。
‘人の振り見て我がふり直せ’ ですね。我々は、ご唱和の世界に生きています。
‘周りの影響を受けずに、真に独立した考えができる知識人がいない。’( グレゴリー・クラーク)
>覚えておいて欲しいことがあります。 >自分に優しくしてくれる人と、自分にとって有益な人は必ずしも同一人物ではない。
そうですね。’良薬 口に苦し’ ですね。
>学校に毎日行かなくてもいいんです。 >学校がめんどくさい、そんなことで悩む時間は勿体ない! >すぐに実践に移しましょう。 >つまり、学校から解放されるのです。
そうですね。我々は、ピノキオになることですね。
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