> 現在は、慶応SFCに入っていた女性が一人なのだが、一年でたくさんのすばらしい仕事を残し、フジテレビのプライムニュースにも取り上げられるような結果を残してくれている。 >それは経営者として、シンプルにとてもうれしい事実だ。 [SFC: 湘南藤沢キャンパス ]
仕事と学問が両立すれば良いですね。企業実習生のようなものか。金稼ぎが自身の学習に直結していますね。
> 僕らができることはまだまだ小さいが、このような意見と実働を通して、少しずつ啓蒙していきたいと思う。
日本人には現実しかありませんからね。実社会に出て実働をする以外に有意義な生活は考えられませんね。その他はすべて時間の空費になるでしょう。
>そしていつの日か、一流企業において「高卒採用」や「学生社員」が当たり前になるような社会にしていきたいと強く願う。
私の知人は日本の一流企業に勤めながら南アに在住しています。南アの大学院に入学したのですが、’大学院には試験を受けるときだけに行けばよい’ と言っていましたね。学業の成果に照準を合わせた高等教育でしょうね。
> 大学に入ったのだけどそこに意義を感じとれなかったり、くだらない飲み会やサークルに馴染めなかったり、インプットよりもアウトプットに挑戦したいと思うような学生がいたらぜひ連絡をください。 >大学だけが正しいわけじゃありません。 >一緒にたくさんの楽しい仕事をしていきましょう。
そうですね。我が民族の無哲学・能天気の状態が近々解消されることはないようですね。
[現実と非現実] 見ることのできる現実の内容は本当の事である。見ることのできない現実の内容は嘘である。誰しも嘘つきにはなりたくない。だから、出鱈目は言わない。
日本人には、非現実がない。だから、自分の非現実 (考え) は語らない。これが、日本人の思考停止の原因である。結果として無哲学・能天気の人間となる。
現実の内容は頭の外にある。だから、見ることが可能である。見ればわかる。 Seeing is believing. 楽ちんである。正解はただ一つである。
非現実 (考え) の内容は頭の中にある。だから、見ることができない。それは、ただの話である。その内容を知るには文法に基づいて文章の内容を理解しなくてはならない。これは、骨の折れる仕事である。だから、通常、日本人は理解をしない。忖度 (推察) で代用して済ませている。
理解と忖度は似て非なるものであるから注意が必要である。忖度 (推察) は聞き手の勝手な解釈であるから、話し手には何の責任もない。たとえ両者の間に齟齬が存在しても議論にもならない。現実直視になっていないことを忖度の主に指摘しても、'だって、私は本当にそう思ったのだから仕方がないではないか' と懸命に反発するので取りつく島がない。かくして、日本人の対話は成立しない。歌詠みのようなもの。孤高の人になる。
カレル・ヴァン・ウォルフレン氏 (Karel van Wolferen) は、<日本/権力構造の謎・上> (The Enigma of Japanese Power) の<”ジャパン・プロブレム”>の中で下記の段落のように述べています。(p.54)
、、、、、日本の社会でいう “現実” (リアリティ) とは、客観的に観察した結果としての実際の事実というより、心情的なイメージに合わせて構築された、そうあるべき “リアリィティ” だからである。そしていうまでもなく、望ましいと想定されるイメージは、そのときその人の属するグループの利益と一致することが多い。 、、、、、
西洋では、現実はそうやすやすと管理されたり、意のままに作り変えられたり、相談で決められたりするものとは、考えられていない。つまり、こうあるべきだという任意の考えによって左右されるものとは考えられていない。事実、西洋の哲学または西洋の常識の基礎は、人間にはつきものの自己欺瞞をおさえるには、妄想や幻想を入り込ませないようつねづねよく注意することだと教えている。ギリシャ文明以来、西洋の知の発達の歴史を貫いてつねに強調されてきた戒めが一つあるとすれば、それは、「矛盾を育むなかれ」ということである。この戒めは、論理、数学、科学の根本法則である。(引用終り)
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