> 先ほどの話ではありませんが、今の日本の状況をみても「原発なんて絶対悪だ!」と主張する人たちと、「いや、まずは電力が足りないんだから動かそうぜ!」と主張する人たちの間で水掛け論になっています。
双方に ‘あるべき姿’ (things as they should be) が想定されていませんね。この状態ではお互いに説得力が発揮されませんね。
>お互いがお互いをバカだ、チョンだとけなしあっているのです。
>じゃあ、何故そんなどうしようもないことになっているのかと言えば、 『お互いが共通のものにしている』という意識を持たずに批判しあうからです。
そうですね。日本人には世界観がない。我々の遠い未来に行き着く先を想定していない。
>それはもはや、本当のコミュニケーションではないんですよ。>それでは何も進展しませんし、まさに平行線とはこのことです。
そうですね。’問答無用・切り捨て御免’ の精神ですね。
>そういう不毛な様相を呈しているのが今の日本の現状であり、逆を言えば今回話したような凄く当たり前のことを抑えてさえいればもう少しマシになるんじゃないのかなぁ、と思う今日この頃でした。
我々日本人は日本語と英語の両言語を良く学び、時制の重要性を深く認識する必要がありますね。さすれば、対話・議論も可能になるでしょう。
> 最後に 民主主義は最悪の政治といえる。 >これまで試みられてきた、民主主義以外の全ての政治体制を除けば、だが。 > 言い換えれば、「他と比べて民主主義は最もマシな政体である」とも言えます。
‘民主主義は最悪の政治形態らしい。ただし、これまでに試されたすべての形態を別にすればの話であるが’。(チャーチル)
> 先述した通り、コミュニケーションが起こる政治形態というのは民主主義以外にはありません。
そうですね。上意下達ばかりの独裁政治では困りますからね。
>そして、それをより良いものにするためには、我々一人ひとりの賢明さに掛かっているのです。
そうですね。我々日本人は、無哲学・能天気ではいられません。
日本人には意思がない。意思は未来時制の文章内容であるが、日本語の文法には時制というものがないので、日本人には意思がない。
意思のあるところに方法 (仕方) がある。日本人には意思がない。仕方がないので無為無策でいる。優柔不断・意志薄弱に見える。生きる力が不足している。困った時には他力本願・神頼み。
' やってみせ、言って聞かせて、させてみせ、ほめてやらねば、人は動かず' 山本五十六 (やまもと いそろく)
>まずは、自分のことをしっかりと理解し、相手のことも知ろうと努力する。 >要するに、コミュニケーションの語義である『共通のものにする』という感覚を大切にしたいなぁという風に思います。
そうですね。
自由とは、意思の自由の事である。だが、日本人には意思がない。そして、恣意がある。恣意の自由は何処の国でも認められていない。’自由のはき違え’ となる。だから、我々は、昔からの ’不自由を常と思えば不足なし’ のままでいる。
欧米人は個人の哲学と意思により行動を説明する。日本人には、哲学と意思がないので、人の行為を ‘建前と本音’ を使って説明する。建前は (口実・言い訳・言い逃れ) である。本音は、(私意・我儘・身勝手) である。だから、現実の中に行為がうずもれて低俗な感じは避けられない。意思は未来時制の文章内容になるので意味があるが、恣意はバラバラの単語 (片言・小言・独り言) のままで存在するので意味がない。
司馬遼太郎は、<十六の話>に納められた「なによりも国語」の中で、片言隻句でない文章の重要性を強調しています。
「国語力を養う基本は、いかなる場合でも、『文章にして語れ』ということである。水、といえば水をもってきてもらえるような言語環境 (つまり単語のやりとりだけで意思が通じ合う環境) では、国語力は育たない。、、、、、、ながいセンテンスをきっちり言えるようにならなければ、大人になって、ひとの話もきけず、なにをいっているのかもわからず、そのために生涯のつまずきをすることも多い。」
日本人には、恣意疎通 (阿吽の呼吸・つうかあの仲) があって、意思疎通 (相互理解) がない。恣意 (腹) の探り合い (談合) があって、意見の交換 (議論・対話) がない。恣意決定 (盲目の判断) があって、意思決定 (理性判断) がない。だから、日本人の責任者は説明責任が取れない。日本人は未来時制の内容を持たないので、我々の未来は一寸先が闇である。危険が一杯である。お変わりのないことが何よりなことである。
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