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正解  

2021-11-05 17:38:44 | 文化

>372081        「正解」を求めてしまうのは「正解がある教育」を受けてきたから  >紀伊谷高那 ( 36 会社員 )   21/11/05 AM02 【印刷用へ】   

>「正解」を求めてしまうのは「正解がある教育」を受けてきたから~Z世代の姿を通して考える、「大人たち」と「社会の構造」~  >(リンク)より転載   

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>(前略) >■正解を求めてしまうのは、正解がある教育を受けてきたから  >伊藤:ただ感じるのは、そういう人たちってわりと「学校の勉強ができます」というタイプじゃないんですよ。 >でも「なにかやってやるぜ」という気持ちがあるんですよね。  

 

野心家ですね。   

 

>これはわりと反比例しているなと感じるわけです。>「学校の勉強をちゃんとやる」ことと、「社会で活躍する」ことは、必ずしも一致していないよね、ということは感じています。 

 

社会は実社会ですからね。   

 

>それからやっぱり、そういう学生たちであっても正解を求めようとしちゃうというところがあって。 >「正解なんかないよ」と半年言い続けてようやくわかってきてくれたんだけど、どんな人でも正解を求めちゃうところはあるよねということですよね。 

 

現実には正解が一つだけありますね。  

 

>その中でやればものすごく成長できるという「自信」を、半年かけてようやく感じてきているところなんです。>Z世代だから」というよりも、社会の構造とか、シニアがやってきたことの影響を今の学生たちが受けているところがあると思っています。  

 

現実 (事実) の世界には正解がただ一つある。非現実 (考え)の世界には、正解が無数にある。矛盾を含んでいない文章内容は、全て正解を表している。日本人には現実があって非現実がない。だから、テストも唯一の正解を求めることになる。  

 

>だからZ世代そのものにフォーカスすると同時に、社会の構造とか、「大人たち」をちゃんと考えることがすごく大事かなと思います。 >(中略) >能條桃子氏(以下、能條):そうですね、今の話を聞いて特に「わかるな」という点が2つあって、1個は「正解を求めてしまう」というところです。 >私自身もそうだなと思うんですけど、特に留学中に「なんで自分はこんなに正解を求めてしまっているんだろう」と苦しくなるくらい考える環境にいたので、今アントレプレナーシップ学部にいらっしゃる1年生と同じような気持ちになっていたのかもしれないです。[企業家: entrepreneurship]   

 

フランク・ギブニー氏の著書 <人は城、人は石垣> には、以下のような指摘があります。

日本語は英語のように、キチンとしたアリストテレス的文法に閉じこめられていない。言語として、日本語は「いま、ここ」に根ざしている。判断より気分に興味をもつ。意味より感受性に関心がある。英語を使うのは絶えず理論的な価値判断を行なう言語を使っていることであり、英語が価値判断を行わせる。一方、日本語は論理的、法的ないし哲学的判断を敬遠する。たとえば、日本語には to be に当る適当な動詞がない。”being とか reality のような概念は明治時代、漢字から人工的につくらねばならなかった。「概念」 (concept) でさえ人工的につくらねばならなかった。 (引用終り)     

 

>いくら「正解はない」と言われても、十何年も「正解がある教育」を受けてきて、それによって自分の自信だったり、評価や価値を決められてきたから、それを求めてしまう。  

 

そうですね。個人主義のない世界でしたね。現実だけの世界は正解が一つある子供の世界ですね。       

 

>頭では違うとわかっていたとしても、そういう部分があるんだろうなと思うし、それは今までの日本の教育の特徴といえば特徴なのかもしれないです。  

 

そうですね。わが国教育は、いわゆる物知りを作る教育ですね。思考を停止して暗記力に頼る教育ですね。だから卒業生は創造力のない受け売りの専門家になります。   

イザヤ・ベンダサンは、自著<ユダヤ人と日本人>の中で、我が国の評論家に関して下の段落のように述べています。

評論家といわれる人びとが、日本ほど多い国は、まずあるまい。本職評論家はもとより、大学教授から落語家まで (失礼! 落語家から大学教授までかも知れない) 、いわゆる評論的活動をしている人びとの総数を考えれば、まさに「浜の真砂」である。もちろん英米にも評論家はいる。しかし英語圏という、実に広大で多種多様の文化を包含するさまざまな読者層を対象としていることを考えるとき、日本語圏のみを対象として、これだけ多くの人が、一本のペンで二本の箸を動かすどころか、高級車まで動かしていることは、やはり非常に特異な現象であって、日本を考える場合、見逃しえない一面である。 (引用終り)  

 

>■寮という「小さな社会」では、テストの点数が取れても意味がない     

>能條:一方で、だからといって変わらないのかというとそうではないですよね。

>人間慣れだと思うので、そういう日本の正解を求める教育環境にいなくなると、だんだん忘れてくるところはもちろんあるんだろうなぁと思ったのが1つです。  

 

言語は伝達の手段であるばかりでなく、思考の重要な手段でもあります。ですから我々の考えの疎かな所は日本語のせいであることもあります。   

非現実 (考え) の内容は、英語の時制のある文章により表される。非現実の内容はそれぞれに独立した三世界 (過去・現在・未来) の内容として表される。その内容は世界観と言われている。これらの三世界は時制により構文が異なるので、同次元で語ることができない。それで独立した三世界になっている。この規則を the sequence of tenses (時制の一致) と呼ぶ。日本人の初学者が英論文を書くときに難渋する規則である。 

世界観は、人生の始まりにおいては白紙の状態である。人生経験を積むにしたがって、各人がその内容を自分自身で埋めて行く。自己の 'あるべき姿' (things as they should be) もこの中にある。来るべき世界の内容を語ることは、時代を先取りすることである。

自己のその内容 (非現実) を基準にとって現実 (things as they are) の内容を批判 (縦並びの比較) すれば、批判精神 (critical thinking) の持ち主になれる。批判精神のない人の文章は、ただ現実の内容の垂れ流しになる。全ての事柄は他人事になる。これは子供のようなものである。日本人も英米人も子供の時には非現実 (考え) の内容というものがない。だから ‘話を告げる’ (to tell a story) ということは、’作り話をする’ とか ‘嘘を吐く’ という風に受け取られて悪い子供とされている。この判定がわが国では一生涯続く。

日本語の文法には時制がない。だから、日本人には世界観がない。そして、日本人には批判精神がない。残念ながらマッカーサ元帥の '日本人12歳説' を否定できる人はいない。  

意見は比較の問題である。現実の内容と非現実の内容があれば批判精神が発揮できる。英米人の意見はこれである。これは縦並びの比較ということができる。建設的である。進歩が期待できる。希望が持てる。現実の内容だけであれば、その比較は '現実' '現実' の上下判断 (横並びの比較) になり、'どっちもどっちだ' がある。無力感に苛まれる。この種の比較は復讐に復讐を重ねる民族同士の争いの原動力にもなっていて進歩が期待できない。

非現実の内容は人様々である。非現実の内容がなければあるのは現実だけで、その正解は一つである。日本人がともすれば異口同音の内容を語るのはこのためである。    

わが国のマスコミも現実の内容をただ垂れ流す。個人の価値判断が抜け落ちている。現実の正解はただ一つであるから、どんぐりの背比べで個性がない。それで、日本人は個人主義が何であるかを理解することが難しい。本人にも相手にも何を考えているのかわからない。だから、誰からも信頼されない。世界観に基づく協力者が得られないので社会に貢献する度合いが限られる。  

イザヤ・ベンダサンは、自著 <日本人とユダヤ人> の中で ‘自らの立場’ について以下のように述べています。   

何処の国の新聞でも、一つの立場がある。立場があるというのは公正な報道をしないということではない。そうではなくて、ある一つの事態を眺めかつ報道している自分の位置を明確にしている、ということである。 読者は、報道された内容と報道者の位置の双方を知って、書かれた記事に各々の判断を下す、ということである。 ・・・・日本の新聞も、自らの立場となると、不偏不党とか公正とかいうだけで、対象を見ている自分の位置を一向に明確に打ち出さない。これは非常に奇妙に見える。 物を見て報道している以上、見ている自分の位置というものが絶対にあるし、第一、その立場が明確でない新聞などが出せるはずもなければ読まれるはずもない。・・・・・ (引用終り)    

 

>あともう1個が、「全寮制」がすごくいいなぁって思っています。>私も留学中、全寮制の学校に通っていたんですけど、やっぱり学校が小さな社会なんですよね。 >その小さな社会の中では、テストの点数が取れても何も意味がなくて、むしろ人としておもしろいとかのほうが大事なんですよね。>例えばルールが上手くいかなかった時に何かみんなで作るとか、そういう民主的な過程で「この100人でどう上手くやるのか」というところが、私も学びになりました。  

 

学生の自治組織ですね。    

 

>ただスキルを学ぶのが学校なんじゃなくて、小さな社会の中でどう立ち振る舞えばいいのかってところまで含めて学ぶのが学校なんですよね。 >しかもそうすると、育ってきた環境がこんなにも違うんだって気づけるんです。  

 

そうですね。考えは人人により違いますからね。   

 

>同じ学校に来ているから、まあまあ似たような性質とか思考を持っているはずなのに、それでも違うんだってことを知って、学びになったり気付きになったりしているんだろうなぁと思っています。 >そういう意味で、全寮制はすごくいいなぁって思いますね。  

 

大統領の子弟でも全寮制の学校に入りますね。天皇の子弟はどうでしょうかね。   

 

>(中略) >■社会構造全体が「縦」から「横」へシフトしている   >(中略) >荻野:この前羊一さんとお話させてもらっていて印象に残った言葉があって、「もう大学生の彼女たち彼らたちは縦じゃなくて横なんだよねー」っておっしゃったんです。>本当にそうだなと思って、僕たち40代、50代、60代世代って、もう縦の関係性が当たり前というか、縦だからまずは先輩には挨拶しなきゃいけないとか、身に染みているじゃないですか。   

 

そうですね。身に染みていますね。日本語には階称 (言葉遣い: hierarchy) というものがある。だから日本語を発想する場合には、‘上と見るか・下と見るか’ の世俗的な判断が欠かせない。上下判断 (序列判断) には、通常、勝負の成績が用いられる。近年では偏差値なども都合の良い資料として利用されている。わが国が学歴社会であるというのも、実は序列社会の言い換えに過ぎない。だから、わが国の学歴社会は学問の発展には何ら貢献していない。   

日本人の礼儀作法も、序列作法に基づいている。だから、序列社会の外に出たら序列なきところに礼儀なしになる。礼儀正しい日本人になる為には、世俗的な序列順位を心得ている必要がある。'人を見損なってはいけない' という想いが強迫観念の域に達していて、人々は堅ぐるしい日常生活を送っている。こうした観念は天皇制・家元制度・やくざの一家の構造にまでつながっている。

日本人は序列の存在を知れば、それが一も二も無く貴いものであると信ずる共通の序列メンタリティを有している。その程度は序列信仰の域に達している。日本人の尊敬は、序列社会の序列順位の単なる表現に過ぎないため、個人的精神的には意味がない。下々の衆は上々の衆の祟り (仕返し) を恐れて神妙にしている。上々が無哲学・能天気である事については、下々にとって何ら気になることではない。だから、日本人の尊敬には浅薄さが付きまとう。   

我が民族の序列メンタリティは国がひっくり返った後にも変わりませんでしたね。新憲法の前文には、 ‘・・・・・国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思う。’ と高らかに宣言しています。地位とは国際社会の序列順位の事で、国際問題に関する問答には関心を持たずにひたすら順位の向上を待ち続ける奇異な民族の代表として存在します。序列メンタリティが邪魔になって問答ができないのか、問答ができないために序列メンタリティから離れられないのか。英語の習得力が不十分なためか。   

 

>でも、能條さんのような20代の世代は、そういったものがだんだんなくなってきていて、僕の母校の部活とかも本当に横というか、フラットというか、そんな感じになってきているんだなって思うんです。 >伊藤:これは本当に大事で、先に整理しておくとすべてのことがクリアになるんだけど、社会構造全体が縦から横になってきていると思うんですよね。

 

そして、天皇制も家元制度も老舗もやくざも無くなりますかね。   

 

>■新しいものが生まれる、世代を超えた「フラットな関係性」   >伊藤:「縦」が何かというと、高度経済成長期とか、物がだんだん便利になっていく世界においては、製品を作って大量生産することが必要だった時代だったんです。 >だから洗濯機がなかった時代やクーラーがなかった時代は、それを大量生産してみんなが持つという時代でした。 >そうすると、そこにおいて必要とされる社会って「縦」だったわけですよね。>ヒエラルキーの中の世界だったんです。   

 

義理が廃ればこの世は闇だという考え方ですね。

日本人の政治家にも、政治哲学がない人が多い。だから、我々の未来社会の有様を相手に言って聞かせる術がない。それは非現実 (考え) の内容を盛り込むための構文が日本語に存在しないからである。序列人間は人間の序列を作っていて、上位の者 (先輩) と下位の者 (後輩) の間に自分を差し挟むことにより自分たちの存在を確認し合っている。だから、自己の所属する序列に並々ならぬ帰属意識を持っていて義理 (序列関係から生じる義務) を果たすことに懸命になる。無哲学と序列メンタリティの相乗作用により派閥政治は無くならない。この種の仕事にやりがいを感じているのは周囲の序列仲間が自分たちの序列に対する貢献度を評価するからである。これにより自己の順位は上昇する可能性がある。それが日本人の人生における楽しみである。だが、正一位を得ることはむずかしい。 

 

>今はもう物もサービスも行きわたっている。 >行きわたっている中での縦社会も当然あっていいんだけど、シニアだろうがZ世代だろうが、みんなフラットに横になっている。  

 

表向きはそうですね。しかし、裏に回ればどうなっているのかな。   

 

>むしろ「君はどうやって考える?」って分け隔てなく会話ができて、そこに新しいアイディアがあって、新しいものが生まれてくるんですよね。  

 

思考を停止している人がアイディアを出すのは難しい。   

 

>だから「横の社会」って呼んでいるんですけど、やっぱり経済とか社会とか、政治もそういうことになっていると思うんです。 >すべてが縦から横になってきているし、なんなきゃいけないってすごく感じますよね。 >自民党がリベラルっぽくなっているのも、そういうことだと思うんですよね。  

 

そうですね。商法には身分制度はありませんね。    

 

>今までみたいに保守とリベラルとか、右派左派とかって話じゃなくて、社会全体がもうリベラルというか、それが大前提になってきている気がしますね。 >荻野:そうじゃないといけないですよね。 >これだけ時代がうねりをもって変わっているということは、今までのようにトップが正しい答えを持っていて、それを実行するという縦の構図が成り立たないし、そこに気付いていかなきゃいけない時代なのかなって思うんですね。 

 

そうですね。恣意の人間の上位下達は困りますね。我々日本人は先の大戦から学ばなくてはいけませんね。思考停止ではいられません。     

 <日本はなぜ敗れるのか・敗因21か条> を著した山本七平の指摘する事例からも、大和民族自滅の過程は見て取れます。その一例を以下に掲げます。

私が戦った相手、アメリカ軍は、常に方法を変えてきた。あの手がだめならこれ、この手がだめならあれ、と。 、、、、、あれが日本軍なら、五十万をおくってだめなら百万を送り、百万を送ってだめなら二百万をおくる。そして極限まで来て自滅するとき「やるだけのことはやった、思い残すことはない」と言うのであろう。 、、、、、 これらの言葉の中には「あらゆる方法を探求し、可能な方法論のすべてを試みた」という意味はない。ただある一方法を一方向に、極限まで繰り返し、その繰り返しのための損害の量と、その損害を克服するため投じつづけた量と、それを投ずるために払った犠牲に自己満足し、それで力を出しきったとして自己を正当化しているということだけであろう。(引用終り)     

 

>(後略)