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おおたとしまさ氏  

2021-11-24 21:47:47 | 文化

>中学受験「いい大学へ行くため」の考えが危ない訳 >歯止めがきかない中学受験過熱の背景 >次ページ » >おおたとしまさ : 育児・教育ジャーナリスト  >著者フォロー >2021/11/17 12:00

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>受験生の負担は3割から5割増し  >中学受験が過熱している。 >特に最難関校を狙う受験生の負荷は年々増している。 >ある大手塾講師は「6年生の内容が、この数年で3割増しから5割増しになっている」といまの状況を危惧する。 >なぜそこまでして最難関校を目指さなければならないのか。  

 

我が国では難関の出身者が訳も無く尊敬されていますからね。    

 

>拙著『なぜ中学受験するのか?』でも詳しく解説しているが、背景には、東大合格者数ランキング上位校の顔ぶれに男子私立中高一貫校が多いことから、東大に合格するようなノウハウが、これらの学校の中だけに門外不出で蓄積されているのではないかという早とちりもあるようだ。 >しかしこれは、歴史的経緯の結果でしかない。 >東大の合格者数は毎年約3000人。 >3000脚の椅子取りゲームに例えられる。

>どこかの学校が合格者を増やせばどこかの学校が減らす。 

 

ゼロサム・ゲイムですね。  

 

>これが大規模に起きたのが、1967年の都立高校による学校群制度導入だった。 >1960年代までは、日比谷高校をはじめとする都立高校が東大合格者数ランキング上位を寡占していた。 >東大合格者が一部の都立名門校にあまりに偏るのを解消する目的で、都立高校の入試に学校群制度が導入された。 >受験生が選択できるのは複数の学校で構成される「学校群」までで、仮に入試に合格しても、その学校群の中のどの学校に割り振られるかがわからないしくみにしてしまったのだ。 >たとえば日比谷高校は三田高校と九段高校と同じ学校群になった。 >その学校群の入試に合格しても、日比谷高校に入れる確率は3分の1しかない。 >それを嫌って、特に学力上位層が、都立高校を避け私立中高一貫校を選ぶようになったのだ。

 

それは処世術 (損得勘定) の問題ですね。教育の努力が学問につながらないところが問題ですね。問題の根本原因を考えることなく小手先の対応に終始するところが日本人の情けないところですね。          

 

>効果はてきめん。 >1970年代半ばにはトップ10から都立高校の名前が消えた。 >代わりに浮上したのが私立中高一貫校だった。 >先の大学入試改革しかり、いわゆる「ゆとり教育」の右往左往しかり、良かれと思って打った施策が見事に裏目に出ることがある。 >施策の利点ばかりを強調し、副作用を抑える策を講じていないからだ。

 

日本人社会の序列順位の競争が根底にあるからですね。この原因除去が肝心なところですね。       

 

>東京都の学校群制度は1982年に廃止されたが、一度できてしまった流れは変えられなかった。 >1990年代には私立高校からの東大合格者総数が公立高校のそれを追い抜き、みるみる差を広げていった。 >「大学進学には私立のほうが有利」という印象が世に広まったのも、このころからである。 >東大は昔からお金持ちが通う大学だった  >東大生の出身家庭の年収の高さが話題になることがときどきある。 >そこから「私立に行くお金があるから東大に合格できるのだ」と解釈される言説も見かける。 >しかしこれも結論を急ぎすぎである。 >教育社会学者の苅谷剛彦氏は『大衆教育社会のゆくえ』(中公新書)で、数々のエビデンスを示しながら、「私立の6年制一貫校の普及によって、東大入学の階層的な閉鎖性がはじめて作り出されたというわけではないのである。 >私立高校が優勢になる以前から、専門・管理職の子弟たちは、日比谷や西などの公立高校を経由して、やはり東大にたくさん入学していた」ことを明らかにしている。 >私立が人気になるずっと前から、もともと東大という大学は、「上層ノンマニュアル(医師、弁護士、大学教授などの専門職や、大企業、官公庁の管理職、および中小企業の経営者など)」と呼ばれる特定階層の子弟が集まりやすい大学だったのだ。 >東大合格者に男子校出身者が多い理由も単純だ。 >もともと東大合格者に占める女子比率は異常に低い。 >2021年に初めて2割を超えたという程度。 >これが社会に根強いジェンダー・バイアス(無意識の性差別)によるものであると考えられる。 

 

人間の序列は同次元の比較によるものでなければ公平性が保てない。だから、男組・女組となる事が多い。男女七歳にして席を同じゅうせずか。スポーツ競技で男子と女子は別の比較なっている。  

 

>だから女子校のトップ10入りは、1994年の桜蔭が初めてだったし、以後も桜蔭以外の女子校は一度もトップ10に入っていない。 >一方で、前述の通り、1960年代半ばまでは都立高校が上位を寡占していた。 >実際の合格者の大半は男子ではあったが、形式上、これらはすべて共学校である。 >そのままであれば男子校が有利とはいわれなかったはずだが、学校群制度によって都立共学校がランキング上位から姿を消した。 >都立共学校が勝手に沈んでいったあと、ふるいの上の砂利のような形で残ったのが、男子中高一貫校だったというだけの話である。 >難関大学の合格者の多くが一部の有名私立中高一貫校出身者で占められてしまうことも問題だが、むしろ私が根本的に問題だと思うのは、このような有名私立中高一貫校の生徒たちの進路に多様性が乏しいことだ。>これは日本式エリートの呪縛といえる。

 

同次元序列の励行によるエリートの呪縛ですね。

 

>「腐っても東大」「腐っても旧帝大」の悪循環  >毎年3月中旬に、東大合格者数ランキングを速報する週刊誌は売れる。 >東大に対するただならぬ国民感情の表れと見ていいだろう。

 

日本人は煮ても焼いても序列人間ですからね。    

 

>明治につくられた日本の学校制度は、全国で唯一の大学であった原初の「東大」に、全国から選りすぐりの秀才を集めるネットワークとして構築された。 >現在では全国に約700の大学があるが、なかでも東大には特別な感情を抱いてしまうDNAのようなものを私たちがもっているのはそのためだ。

 

英国の教育専門誌のタイムズ・ハイヤー・エデュケーション (THE) 2022年版によれば東大は35位でした。世界ジェンダー・ギャップ報告書によれは、日本のGGI (Gender Gap Index) は156か国中120位でした。大学の国際的ランクの低さと女子の社会進出の低さはわが国の後進性DNAを表していますね。    

 

>美しい花はほかにもたくさんあるのに、なぜか桜に特別な感情を抱いてしまうのと、どこか似ている。

 

それは日本人の帰属意識によるものですね。序列を見れば尊さを感じるようなものでね。

 

>春になるとつい東大合格者数ランキングを見てしまうのは、文字通りの風物詩なのである。 >さらにそれを教育行政が実の部分で維持してしまう。 >大学運営のために国が支出する予算は、国立大学86校に対して年間約11000億円であるのに、私立大学615校に対してはたったの約3000億円だ。>国立大学の中でも、いわゆる旧帝国大学と呼ばれる名門大学に配分が偏る。

 

官尊民卑ですね。我が国とは対照的に米国には国立大学はありませんね。   

 

>「腐っても東大」「腐っても旧帝大」と言わんばかりの社会的バイアスが、中高生の進路選択にいまだ強い影響力をもっている。

 

そうですね。日本人の序列思考は信仰の域に達して頭の奥にまで焼き付いていますね。   

 

>人生を不幸にする「受験エリートの落とし穴」 >“いい学校“を目指すのは人生の選択肢を増やすためだと言うひともいるが、私はあまり賛同できない。 >“いい学校“に行けば、たしかに就ける職業の種類が増えたり、就活の書類選考で有利になったりはするかもしれない。>しかしそのために努力を重ねて“いい学校”に入ったとすると、それによって増えた選択肢の差分からしか人生を選べなくなることがある。>無限にあったはずの人生の選択肢をむしろ減らしてしまう。

 

そうですね。個性・専門性を生かすことのない人生になりますね。    

 

>私はこれを「受験エリートの落とし穴」と呼ぶ。 >中学受験だけでなく、地方の高校受験や大学受験でも見られる。 >選択肢が少ないぶん、地方のほうがシビアな面もある。 >この理屈で中学受験を始めると、望みの学校に合格できたとしても、「せっかく□□中学校・高等学校に来たのだから、できれば東大・京大、最低でも早慶くらいには進学しなければ」という呪縛に囚われる。

 

俄然話が小さくなりますね。   

 

>自分の選択未満の選択肢を選んだひとたちのことを、無意識で自分未満だと見下す視点をもってしまう危険すらある。 >そんな貧しい人生観を身につけてしまったら、たとえ経済的にどんなに成功したとしても、豊かな人生など送れるはずがない。

 

そうですね。   

日本語には階称 (言葉遣い: hierarchy) というものがある。だから日本語を発想する場合には、‘上と見るか・下と見るか’ の世俗的な判断が欠かせない。上下判断 (序列判断) には、通常、勝負の成績が用いられる。近年では偏差値なども都合の良い資料として利用されている。だから難関出身者たちが社会で幅を利かせている。わが国が学歴社会であるというのも、実は序列社会の言い換えに過ぎない。だから、わが国の学歴社会は学問の発展には何ら貢献していないことを知っている必要がある。      

日本人の礼儀作法も、序列作法に基づいている。だから、序列社会の外に出たら序列なきところに礼儀なしになる。礼儀正しい日本人になる為には、世俗的な序列順位を心得ている必要がある。'人を見損なってはいけない' という想いが強迫観念の域に達していて、人々は堅ぐるしい日常生活を送っている。こうした観念は天皇制・家元制度・やくざの一家の構造にまでつながっている。

日本人は序列の存在を知れば、それが一も二も無く貴いものであると信ずる共通の序列メンタリティを有している。その程度は序列信仰の域に達している。日本人の尊敬は、序列社会の序列順位の単なる表現に過ぎないため、個人的精神的には意味がない。下々の衆は上々の衆の祟り (仕返し) を恐れて神妙にしている。上々が無哲学・能天気である事については、下々にとって何ら気になることではない。だから、日本人の尊敬には浅薄さが付きまとう。   

日本人の政治家にも、政治哲学がない人が多い。だから、我々の未来社会の有様を相手に言って聞かせる術がない。それは非現実 (考え) の内容を盛り込むための構文が日本語に存在しないからである。序列人間は人間の序列を作っていて、上位の者 (先輩) と下位の者 (後輩) の間に自分を差し挟むことにより自分たちの存在を確認し合っている。だから、自己の所属する序列に並々ならぬ帰属意識を持っていて義理 (序列関係から生じる義務) を果たすことに懸命になる。そして、この種の仕事にやりがいを感じている。無哲学と序列メンタリティの相乗作用により派閥政治は無くならない。周囲の序列仲間が自分たちの序列に対する貢献度を評価する。これにより自己の順位は上昇する可能性がある。それが日本人の人生における楽しみである。だが正一位の獲得は難しい。    

我が民族の序列メンタリティは国がひっくり返った後にも変わりませんでしたね。新憲法の前文には、 ‘・・・・・国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思う。’ と高らかに宣言しています。地位とは国際社会の序列順位の事で、国際問題に関する問答には関心を持たずにひたすら順位の向上を待ち続ける奇異な民族の代表として存在します。序列メンタリティが邪魔になって問答ができないのか、問答ができないために序列メンタリティから離れられないのか。英語の習得力が不十分なためか。  

 

>迷ったら「なぜ中学受験するのか?」を考える  >ますます勢いを増す中学受験の大きなうねりの中で、「本当にこれでいいのだろうか?」と疑問をもつご家庭は少なくない。 >私も、「中学受験のメリットとデメリットは何か?」と聞かれることは多い。 >申し訳ないが、私の答えはいつも、にべもない。 >「中学受験の何をメリットと感じるか、何をデメリットと感じるかにそのひとの教育観、幸福観、人生観などの価値観が表れる」である。 

 

 国民が思考を停止している国にはどのような特徴があるでしょうかね。

'どのような状況にも普遍的に通用する真理や法則、基本概念や倫理がありうるという考え方が、日本にはほとんど存在しない。' (カレル・ヴァン・ウォルフレン)    

周りの影響を受けずに、真に独立した考えができる知識人がいない。 ( グレゴリー・クラーク)

'日本人は政治にそれほど関心がないのに政府に依存し、国からの発言を待っている。'  (ウスビ・サコ)   

 

>結婚のメリットとデメリットを尋ねられても一般論としては答えようがないのと同じだ。 >ただし少なくとも私の考えでは、中学受験をするのは、“いい学校”に行って“勝ち組”になるためではない。 >一部の“勝ち組”だけでなく、誰にとっても得られるものがある。 >それが何なのかを問い続けることが大切だ。

 

そうですね。     

言語は伝達の手段であるばかりでなく、思考の重要な手段でもあります。ですから我々の考えの疎かな所は日本語のせいであることもあります。   

非現実 (考え) の内容は、英語の時制のある文章により表される。非現実の内容はそれぞれに独立した三世界 (過去・現在・未来) の内容として表される。その内容は世界観 (world view) と言われている。これらの三世界は時制により構文が異なるので、同次元で語ることができない。それで独立した三世界になっている。この規則を the sequence of tenses (時制の一致) と呼ぶ。日本人の初学者が英論文を書くときに難渋する規則である。 

世界観は、人生の始まりにおいては白紙の状態である。人生経験を積むにしたがって、各人がその内容を自分自身で埋めて行く。自己の 'あるべき姿' (things as they should be) もこの中にある。来るべき世界の内容を語ることは、時代を先取りすることである。

自己のその内容 (非現実) を基準にとって現実 (things as they are) の内容を批判 (縦並びの比較) すれば、批判精神 (critical thinking) の持ち主になれる。批判精神のない人の文章は、ただ現実の内容の垂れ流しになる。全ての事柄は他人事になる。これは子供のようなものである。日本人も英米人も子供の時には非現実 (考え) の内容というものがない。だから ‘話を告げる’ (to tell a story) ということは、’作り話をする’ とか ‘嘘を吐く’ という風に受け取られて悪い子供とされている。この判定がわが国では一生涯続く。

日本語の文法には時制がない。だから、日本人には世界観がない。そして、日本人には批判精神がない。残念ながらマッカーサ元帥の '日本人12歳説' を否定できる人はいない。  

意見は比較の問題である。現実の内容と非現実の内容があれば批判精神が発揮できる。英米人の意見はこれである。これは縦並びの比較ということができる。建設的である。進歩が期待できる。希望が持てる。現実の内容だけであれば、その比較は '現実' '現実' の上下判断 (横並びの比較) になり、'どっちもどっちだ' がある。無力感に苛まれる。この種の比較は復讐に復讐を重ねる民族同士の争いの原動力にもなっていて進歩が期待できない。

非現実の内容は人様々である。非現実の内容がなければあるのは現実だけで、その正解は一つである。日本人がともすれば異口同音の内容を語るのはこのためである。    

わが国のマスコミも現実の内容をただ垂れ流す。個人の価値判断が抜け落ちている。現実の正解はただ一つであるから、どんぐりの背比べで個性がない。それで、日本人は個人主義が何であるかを理解することが難しい。本人にも相手にも何を考えているのかわからない。だから、誰からも信頼されない。世界観に基づく協力者が得られないので社会に貢献する度合いが限られる。  

イザヤ・ベンダサンは、自著 <日本人とユダヤ人> の中で ‘自らの立場’ について以下のように述べています。   

何処の国の新聞でも、一つの立場がある。立場があるというのは公正な報道をしないということではない。そうではなくて、ある一つの事態を眺めかつ報道している自分の位置を明確にしている、ということである。 読者は、報道された内容と報道者の位置の双方を知って、書かれた記事に各々の判断を下す、ということである。 ・・・・日本の新聞も、自らの立場となると、不偏不党とか公正とかいうだけで、対象を見ている自分の位置を一向に明確に打ち出さない。これは非常に奇妙に見える。 物を見て報道している以上、見ている自分の位置というものが絶対にあるし、第一、その立場が明確でない新聞などが出せるはずもなければ読まれるはずもない。・・・・・ (引用終り)    

 

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>中学受験に関する相談を受けていると、「なぜ中学受験するのか?」に立ち戻ることで解決の方針が見えてくる場合が少なくない。>逆に言えば、なぜ中学受験することにしたのかを忘れてしまうから、あるいはそもそもその問いを突き詰めて考えていなかったからこそ、中学受験の大きなうねりにのみ込まれてしまうのだ。>いくら「なぜ中学受験するのか?」を考えても、偏差値を上げる方法やお得な進路がわかるわけではない。  

 

そうですね。手段の目的化が起こると毎日の励みが苦痛でたまりませんね。   

 

>でも、できるだけ高い視点から中学受験の意義をとらえ胸に刻み込んでおけば、不安にさいなまれたときにも慌てずに、自分たち親子にとっての本質的な優先順位を思い出し、ちまたの中学受験本をいくら読んでも見つけられない、自分たちだけの解決策を見いだすことができるようになるはずだ。>結果として、子どもの最高のパフォーマンスが引き出される可能性はある。 

 

各人に哲学は必要である。Everyone needs a philosophy.   

 

>教育に関する選択に、正解はない。 >つまり、不正解もない。 >大切なのは、自分の選択の意味を正しく理解することだ。   

 

そうですね。すべての考えは文章になる。文章にならないものは考えではない。

矛盾を含まない文章は、全て正しい考えを示している。だから、正解は一つではない。考えは人様々である。だから、正解は幾らでもある。      

 

 

 

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