>公開日 2017-05-23 >言えないのは、考えていないから。 >「言葉にできない」に逃げない、言語化トレーニング >コラム 思考法・発想法 スキルアップ・仕事 小川桜子
>自分の感情を適切に表現できる言葉を見つけられなくて、とりあえず安易な言葉で済ませてしまったことはありませんか? >極端な例では、綺麗な景色を見て「やばい」、美味しいものを食べて「やばい」、仕事が忙しくて「やばい」、というようなものです。>しかし、さまざまな状況で生まれたさまざまな感情は、決して同じ言葉だけでまかなえるものではありません。>自分の感情をうまく表現できないと、言いたいことがあるのにまとまらない、もやもやした気持ちを言葉にできない、どうしてむしゃくしゃしているのかわからない……という風にうっぷんを抱えてしまうのではないでしょうか。
そうですね。そういうことはありますね。
>その悩みは「言語化」のトレーニングで改善できるはずです。
そう簡単にゆく良いのですがね。
>さっそくご紹介しましょう。>言葉にできないのはなぜ? 言語化とは >「言語化」とは、その名の通り自分の頭の中にある考えを言葉にすること。>アウトプットとも言いますね。>案外この「言語化」ができていない人は多いようです。>「言語化」ができないと、対話する相手の言葉になんとなく不満を覚えてもはっきりと言い返せなかったり、感動してもうまく言葉にできなかったり、どうしてイライラしているのか言葉を用いて明確にできなかったりといった状況に陥ってしまいます。
そうですね。日下公人氏は、<よく考えてみると、日本の未来はこうなります。> の中で、日本人に関するW.チャーチルの感想を以下のごとく紹介しています。
日本人は無理な要求をしても怒らず、反論もしない。笑みを浮かべて要求を呑んでくれる。しかし、これでは困る。反論する相手をねじ伏せてこそ政治家としての点数があがるのに、それができない。
それでもう一度無理難題を要求すると、またこれも呑んでくれる。すると議会は、今まで以上の要求をしろと言う。無理を承知で要求してみると、今度は笑みを浮かべていた日本人が全く別人の顔になって、「これほどこちらが譲歩しているのに、そんなことを言うとは、あなたは話のわからない人だ。ここに至っては、刺し違えるしかない」と言って突っかかってくる。
英国はその後マレー半島沖で戦艦プリンスオブウェールズとレパルスを日本軍に撃沈され、シンガポールを失った。日本にこれほどの力があったなら、もっと早く発言して欲しかった。日本人は外交を知らない。(引用終り)
>では、頭の中にあるイメージを言葉にできないのはなぜなのでしょう。>その理由は、端的に言ってしまうと「考えていない」から。>思考が整理できていないまま、考えることを放棄してしまっているのです。
そうですね。全ての考えは文章になる。文章にならないものは考えではない。
>例えば難しい議題について話し合っているうちに、だんだんと自分の考えがまとまってきたり、観た映画のレビューを書いているうちに、自分の感想がはっきりとわかってきたりした経験はありませんか? >他の人に勉強を教えているうちに、自分の理解度も深まったという経験をした方もいるかもしれません。 >つまりアウトプットは、思考の整理につながるのです。
そうですね。英米の高等教育は (卒業) 論文・(修士) 論文・(博士) 論文ですね。教育の最初から最後まで論文ですね。
>脳科学者として著名な茂木健一郎氏は、アウトプットに関して次のように述べています。 >脳にとっては、言語も一つの運動です。 >とにかく一度出力しないことには、自分が本当に考えていることや、潜在的な可能性も見えてきません。
そうですね。司馬遼太郎は、<十六の話>に納められた「なによりも国語」の中で、片言隻句でない文章の重要性を強調しています。
「国語力を養う基本は、いかなる場合でも、『文章にして語れ』ということである。水、といえば水をもってきてもらえるような言語環境 (つまり単語のやりとりだけで意思が通じ合う環境) では、国語力は育たない。、、、、、、ながいセンテンスをきっちり言えるようにならなければ、大人になって、ひとの話もきけず、なにをいっているのかもわからず、そのために生涯のつまずきをすることも多い。」
>情報のインプットとともに、アウトプットも恒常的に行わないことには、その考えが真に自分のものとなることはないのです。
そうですね。丸暗記と受け売りを専門とする人間だけでは人類の進歩はありませんね。
「読書は、他人にものを考えてもらうことである。本を読む我々は、他人の考えた過程を反復的にたどるにすぎない。」アルトゥル・ショーペンハウエル
イザヤ・ベンダサンは、自著<ユダヤ人と日本人>の中で、我が国の評論家に関して下の段落のように述べています。
評論家といわれる人びとが、日本ほど多い国は、まずあるまい。本職評論家はもとより、大学教授から落語家まで (失礼! 落語家から大学教授までかも知れない) 、いわゆる評論的活動をしている人びとの総数を考えれば、まさに「浜の真砂」である。もちろん英米にも評論家はいる。しかし英語圏という、実に広大で多種多様の文化を包含するさまざまな読者層を対象としていることを考えるとき、日本語圏のみを対象として、これだけ多くの人が、一本のペンで二本の箸を動かすどころか、高級車まで動かしていることは、やはり非常に特異な現象であって、日本を考える場合、見逃しえない一面である。 (引用終り)
>(引用元:起業tv|【アウトプットとは?】アウトプットの意味とポイントを簡単に解説!) >では、「言語化」を習慣付けるには何をしたら良いのでしょうか。 >言語化トレーニング01 > 【STRAIL】 コンサルタントの的確な課題発見で「いますべきこと」に集中。 >2ヶ月で英語力が大幅にアップ。 >言語化のトレーニング法
言語は伝達の手段であるばかりでなく、思考の重要な手段でもあります。ですから我々の考えの疎かな所は日本語のせいであることもあります。
非現実 (考え) の内容は、英語の時制のある文章により表される。非現実の内容はそれぞれに独立した三世界 (過去・現在・未来) の内容として表される。その内容は世界観と言われている。これらの三世界は時制により構文が異なるので、同次元で語ることができない。それで独立した三世界になっている。この規則を the sequence of tenses (時制の一致) と呼ぶ。日本人の初学者が英論文を書くときに難渋する規則である。
世界観は、人生の始まりにおいては白紙の状態である。人生経験を積むにしたがって、各人がその内容を自分自身で埋めて行く。自己の 'あるべき姿' (things as they should be) もこの中にある。来るべき世界の内容を語ることは、時代を先取りすることである。
自己のその内容 (非現実) を基準にとって現実 (things as they are) の内容を批判 (縦並びの比較) すれば、批判精神 (critical thinking) の持ち主になれる。批判精神のない人の文章は、ただ現実の内容の垂れ流しになる。全ての事柄は他人事になる。これは子供のようなものである。日本人も英米人も子供の時には非現実 (考え) の内容というものがない。だから ‘話を告げる’ (to tell a story) ということは、’作り話をする’ とか ‘嘘を吐く’ という風に受け取られて悪い子供とされている。この判定がわが国では一生涯続く。
日本語の文法には時制がない。だから、日本人には世界観がない。そして、日本人には批判精神がない。残念ながらマッカーサ元帥の '日本人12歳説' を否定できる人はいない。
意見は比較の問題である。現実の内容と非現実の内容があれば批判精神が発揮できる。英米人の意見はこれである。これは縦並びの比較ということができる。建設的である。進歩が期待できる。希望が持てる。現実の内容だけであれば、その比較は '現実' 対 '現実' の上下判断 (横並びの比較) になり、'どっちもどっちだ' がある。無力感に苛まれる。この種の比較は復讐に復讐を重ねる民族同士の争いの原動力にもなっていて進歩が期待できない。
非現実の内容は人様々である。非現実の内容がなければあるのは現実だけで、その正解は一つである。日本人がともすれば異口同音の内容を語るのはこのためである。
わが国のマスコミも現実の内容をただ垂れ流す。個人の価値判断が抜け落ちている。現実の正解はただ一つであるから、どんぐりの背比べで個性がない。それで、日本人は個人主義が何であるかを理解することが難しい。本人にも相手にも何を考えているのかわからない。だから、誰からも信頼されない。世界観に基づく協力者が得られないので社会に貢献する度合いが限られる。
イザヤ・ベンダサンは、自著 <日本人とユダヤ人> の中で ‘自らの立場’ について以下のように述べています。
何処の国の新聞でも、一つの立場がある。立場があるというのは公正な報道をしないということではない。そうではなくて、ある一つの事態を眺めかつ報道している自分の位置を明確にしている、ということである。 読者は、報道された内容と報道者の位置の双方を知って、書かれた記事に各々の判断を下す、ということである。 ・・・・日本の新聞も、自らの立場となると、不偏不党とか公正とかいうだけで、対象を見ている自分の位置を一向に明確に打ち出さない。これは非常に奇妙に見える。 物を見て報道している以上、見ている自分の位置というものが絶対にあるし、第一、その立場が明確でない新聞などが出せるはずもなければ読まれるはずもない。・・・・・ (引用終り)
>1.感情を100字以内で述べる >「ドラマが楽しみ」「ランチが美味しかった」「電車内の人に腹が立った」などなど、日常生活の中で抱いたちょっとした感情を100字以内で文章にしてみましょう。 >例えば「ドラマが楽しみ」なら、「ルックスが好みの俳優や演技力の高い女優が出演していて、登場人物のキャラクターや台詞に共感できるものが多かった。 >ストーリーがスリリングで展開の予測がつかないので、来週の放送が待ちきれないほど楽しみだ」という感じ。 >例えば「ランチがおいしかった」なら、「ランチに食べたパスタは濃厚なクリームソースとベーコンの風味が自分好みだった。 >セットのサラダはシャキシャキとした新鮮な野菜に素材の味を引き立てる薄味のドレッシングがかかっていて美味しかった」>あるいは「電車内の人に腹が立った」なら、「知らない人に満員電車で思い切り足を踏まれたのに謝罪がなかった。 >混雑した電車内で体がぶつかったり、足を踏んだりしてしまうのは仕方のないことだが、一言も謝らないのはあまりにも失礼だと思い腹が立った」といった具合です。 >100文字は場合によって短くも長くも感じられます。 >慣れるまでは案外面倒な作業かもしれませんが、習慣化することでコツがわかっていき、思考が整理されていきます。
我々日本人は日本語と英語の両言語を良く学び、思考における時制の大切さを十分に理解する必要がありますね。英語にある時制 (tense) を使った考え方を会得すれば、我々は自己の意思 (will) を明らかにすることも可能になるし、自分自身の世界観 (world view) を持つことも出来ます。さすれば我々は国際社会において相手の理解も得られ、未来社会の建設に協力することも可能になります。かくして、我々日本人は、人類の進歩に一層の貢献が可能になるでしょう。
『有能な人材が世界から日本に集まり、ここで世界に向けてサクセスストーリーが生まれるという国家を目指すべきです。 このための具体的な政策課題として (1)英語を第2公用語にする (2)定住外国人に地方参政権を与える (3)インターネットの接続料はじめ知的生産活動の基本コストを諸外国並みにする (4)日本の制度やシステムの中で国際基準と合致しないものを一括して見直す―の4点を提案したいと思います。』 (茂木敏充外務大臣)
>2. SNSを有効活用する >時間を浪費する原因となり、有効な知識のインプットをさまたげると言われるSNS。 >SNSをぼんやりと眺めているよりは書籍などから有意義な情報をインプットしたほうが実用的ですが、実はアウトプットの面においてSNSは非常に適した存在です。>正しい日本語を使い、親しい人間以外にも通じるような文章を心がけたうえで自分の考えを発信する習慣は、「言語化」のトレーニングに最適。 >なかでもTwitterは手軽かつ多くの人の目に入るうえ、140字という文字数制限があり丁度良いのです。 >気軽に自分が発信する側に立つことができるSNSは、「言語化」のトレーニングとして有効活用できる便利なツールというわけです。
そうですね。馴れ合いを廃して作文・論文に力を入れましょう。
馴れ合いとは、真の意味での検討や意見の交換などをせず、お互いに「なあ、いいだろう」ぐらいの話し合いで全てを済ませること。
>3.“なぜ?”を文章にする >サッカーの指導には「ゲームフリーズ」というものがあります。>ゲーム中、一つ一つの動作をいったん止めて「なぜ今彼にパスを回したのか」「なぜパスを回さなかったのか」等を選手たちにレビューさせるというものです。>それにより、選手自身に課題解決の方法を考えさせるといったアプローチが試みられています。>ゲームフリーズを日々の生活に取り入れてみましょう。>例えば何かの壁にぶつかったとき「“なぜ”進めないのか」、何かの問題が発生したときに「”なぜ”この問題が発生したのか」と徹底的にレビューするのです。 >解決方法を導きだせるだけでなく、「言語化」のトレーニングにも役立てられます。
日本人には意思 (will) がない。意思は英語の未来時制の文章内容であるが、日本語の文法には時制 (tense) というものがないので、日本人には意思がない。
意思のあるところに方法 (仕方) がある。Where there's a will, there's a way. 日本人には意思がない。仕方がないので無為無策でいる。優柔不断・意志薄弱に見える。能動がなくて受動ばかりの生活を送っている。だから戦時中は、玉砕するまで戦い抜いた日本兵であった。困った時には '他力本願・神頼み' になる。生きる力 (vitality) が不足している。
' やってみせ、言って聞かせて、させてみせ、ほめてやらねば、人は動かず' 山本五十六 (やまもと いそろく)
どうやら '指示待ち人間' ができあがったようですね。
日本人には意思がない。だから意思決定はできない。意思決定が必要な時は、恣意決定に頼ることになる。つまり、事の次第・自然の成り行きで決着をはかる。このやり方は、アニマルも同じである。
恣意 (私意・我儘・身勝手) はバラバラな単語のままで存在するから文章にならない。だから、意味というものがない。行為・言動の本人にその説明責任はとれない。恣意の人間は指導者になっても権力は持たせられない。人人はできるだけ権力の少ない指導者を望んでいる。すると、指導者は床の間の置物のようなものになる。彼の唯一の業績は '任期中に何もしなかった' ことであると任期終了時にいわれている。
日本人はなれ合っている。なれ合いとは、真の意味での検討や意見の交換などをせず、お互いに「なあ、いいだろう」ぐらいの話し合いで全てを済ませること。日本人には、恣意疎通 (阿吽の呼吸・つうかあの仲) があって、意思疎通 (相互理解) がない。恣意 (腹) の探り合い (談合) があって、意見の交換 (議論・対話) がない。恣意決定 (盲目の判断) があって、意思決定 (理性判断) がない。だから、日本人の責任者は説明責任が取れない。無責任でしかない責任者の権力はできるだけ小さいほうが良いので、日本人は権力の所在についての考えがない。
カレル・ヴァン・ウォルフレン氏は、<日本/権力構造の謎>の中の <とらえどころのない国家> で、次の段落のように述べています。
国会両院以外に、国家の中核として権力を持っているらしく見える組織は、官僚と大企業である。だが、この両者のどちらにも、究極的な権力はない。ボスはたくさんいるが、ボス中のボスといえる存在はないし、他を統率するだけの支配力のあるボス集団があるわけでもない。…… どの国についても、国家の実態をとらえるのは容易ではないが、日本の場合はとくに、バケツの中のウナギを素手でつかまえる、ということわざのたとえそのものである。指令の流れる経路、責任の中心、見え隠れする政策決定上の実際の動きなどが、すべて気が変になるほど、とらえどころがない。(引用終り)
日本人の未来は一寸先が闇である。危険が一杯である。だから、お変わりのないことが何よりなことである。ノー・アイディアで暮らすことに不便を感じない。
自由とは、意思の自由の事である。だが、日本人には意思がない。恣意 (私意・我儘・身勝手) の自由は何処の国でも認められていない。恣意の自由は ‘自由のはき違え’ になって許されない。だから、’不自由を常と思えば不足なし’ となって、日本人の生活は以前の生活と変わることがない。
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>何気なく過ごしてしまうような日常生活の中で「言語化」のトレーニングを心がけて、思考停止状態を脱してみませんか?
そうですね。何よりも国語ですね。無哲学・能天気ではいられない。
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