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聖ロシア  

2022-04-27 20:49:43 | 文化

 

 

>宗教史で考える聖ロシア   >20220426 | 沈思黙考   >ロシアによるウクライナ侵攻が続いている。  >罪なき一般市民に心を寄せることは大変重要だが、数々の災害の延長線上でのみこの悲劇をとらえているだけでは問題の本質は理解できない。  

 

そうですね。人間の問題ですね。  

 

>本稿では、昭和以降の日本人にとって世界認識の死角となっている東欧・ロシア世界を、宗教という切り口で考えてみたい。

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>現在のロシア正教会のトップ、すなわちモスクワ総主教はキリル1世である。  >プーチンと同郷であり、プーチンの引き上げで総主教に選出されたという話もあるこの総主教は、今回のウクライナ侵攻を「祝福」すなわち支持している。

 

総主教はプーチンのKGBの後輩ではないでしょうね。   

 

>またキリル1世は、2020年にロシア軍のために新築された聖堂に、プーチン大統領やスターリンのモザイク画を掲げようとした人物でもある。 >さすがにこれはプーチンがやめさせたようだ。 

 

プーチンは現人神にはならないのですかね。   

 

>いずれにせよ今現在もロシアは、政治と宗教が一体となっていることは明らかだ。  

 

そうですね。正教の一体化は国が為政者の都合の良いように収まるのでしようね。ITで情報が拡散して手こずることもありそうですね。      

 

>プーチンは引きこもる?   >ロシアによるウクライナ侵攻。  >この悲劇そのものも含め、間接的に影響が出ているあらゆる問題がこの先どう収束していくのか、専門家でも見当がつかないという。 >筆者の根拠なき妄想に過ぎないが、なにか明確なひとつの出来事によって収まるというよりも、なんだかズルズルと時間をかけて、「結果として収まっていく」というような流れを予想している。  

 

時間をかけて物事が収まるのですね。日本のように自然に収まるのですね。      

 

>ロシアの歴史を見てくると、大事件の主役の終焉は、隠遁・逃亡・追放・投獄・惨殺と、とにかく二度と正常な状態で社会とかかわることが出来ない状況に追い込まれている。  

 

ロシアの歴史は気持ちの良い話ではありませんね。   

 

>プーチンは最終的に、森の奥の修道院かどこかに逃亡、隠遁(引きこもり)してしまうのか。  >それともロシアらしい「始末」のつけ方になるのか。  

 

プーチンは消えてなくなるのが良いですね。    

 

>罪なき人々が一日も早く元の生活にもどり、間接的に傷んでいる世界経済も回復してほしい。   >そのためにも我々は、ただ「かわいそう」「経済がタイヘンだ」と言うだけでなく、すべての人間に内在するものに対して真剣な意識を向け思考しなければならない。  

 

そうですね。感情的になってはいけませんね。文化人類学の勉強が必要ですね。      

 

 

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二階俊博氏  

2022-04-27 04:54:39 | 文化

 

>「一日も早く平和を」二階氏、ウクライナ大使と面会   >2022/4/26 17:05   >政治

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>ウクライナ侵攻   >自民党の二階俊博元幹事長は26日、在日ウクライナ大使館でコルスンスキー駐日大使と会い「われわれは常に心を寄せている。 >一日も早く平和な時代が訪れるよう共に頑張ろう」と激励した。  

 

政治家は来るべき世界の実現に日夜腐心すべきですね。平和の時代を得るために、いかなる政治的なチカラを現実に加えて世界を動かすかの問題ですね。その方策を記事の内容として世間に知らせるとマスコミの評価があがりますね。そうでなければノンポリ・政治音痴の人間ですね。わが国の政治家は果物や千羽鶴を用意しただけではどうにもなりませんね。それは小学生の段階ですね。小学生の段階もある。しかし、それが全てである大人では困りますね。        

 

>コルスンスキー氏は日本の避難民受け入れに謝意を示した上で「近い将来、恩返しできるよう頑張りたい」と応じた。  

 

ウクライナが現在必要としている物を政治家が尋ねて着実に送り届けると、その政府からの感謝の表明があって、全世界に伝えられますね。そうでなければ、現実を動かす大きな力とはなりませんね。   

 

>二階氏は、二階派有志からの寄付金と和歌山県産のハッサクをコルスンスキー氏に手渡した。 >面会後「激励の気持ちを込め、私の地元の産物をお届けした」と記者団に語った。

 

面会は我が国の政治家の自己満足ですかね。和を以て貴しとなすの域内ですかね。     

言語は伝達の手段であるばかりでなく、思考の重要な手段でもあります。ですから我々の考えの疎かな所は日本語のせいであることもあります。   

非現実 (考え) の内容は、英語の時制のある文章により表される。非現実の内容はそれぞれに独立した三世界 (過去・現在・未来) の内容として表される。その内容は世界観と言われている。これらの三世界は時制により構文が異なるので、同次元で語ることができない。それで独立した三世界になっている。この規則を the sequence of tenses (時制の一致) と呼ぶ。日本人の初学者が英論文を書くときに難渋する規則である。 

世界観は、人生の始まりにおいては白紙の状態である。人生経験を積むにしたがって、各人がその内容を自分自身で埋めて行く。自己の 'あるべき姿' (things as they should be) もこの中にある。来るべき世界の内容を語ることは、時代を先取りすることである。

自己のその内容 (非現実) を基準にとって現実 (things as they are) の内容を批判 (縦並びの比較) すれば、批判精神 (critical thinking) の持ち主になれる。批判精神のない人の文章は、ただ現実の内容の垂れ流しになる。全ての事柄は他人事になる。これは子供のようなものである。日本人も英米人も子供の時には非現実 (考え) の内容というものがない。だから ‘話を告げる’ (to tell a story) ということは、’作り話をする’ とか ‘嘘を吐く’ という風に受け取られて悪い子供とされている。この判定だけがわが国では一生涯続く。

日本語の文法には時制がない。だから、日本人には非現実を内容とする世界観がない。そして、日本人には批判精神がない。残念ながらマッカーサ元帥の '日本人12歳説' を否定できる人はいない。  

意見は比較の問題である。現実の内容と非現実の内容があれば批判精神が発揮できる。英米人の意見はこれである。これは縦並びの比較ということができる。建設的である。進歩が期待できる。希望が持てる。現実の内容だけであれば、その比較は '現実' '現実' の上下判断 (横並びの比較) になり、'どっちもどっちだ' がある。そこで、不完全な現実に囲まれて無力感に苛まれる。この種の比較は復讐に復讐を重ねる民族同士の争いの原動力にもなっていて進歩が期待できない。 

イザヤ・ベンダサンは、自著 <日本人とユダヤ人> の中で ‘自らの立場’ について以下のように述べています。   

何処の国の新聞でも、一つの立場がある。立場があるというのは公正な報道をしないということではない。そうではなくて、ある一つの事態を眺めかつ報道している自分の位置を明確にしている、ということである。 読者は、報道された内容と報道者の位置の双方を知って、書かれた記事に各々の判断を下す、ということである。 ・・・・日本の新聞も、自らの立場となると、不偏不党とか公正とかいうだけで、対象を見ている自分の位置を一向に明確に打ち出さない。これは非常に奇妙に見える。 物を見て報道している以上、見ている自分の位置というものが絶対にあるし、第一、その立場が明確でない新聞などが出せるはずもなければ読まれるはずもない。・・・・・ (引用終り)      

 

 

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