>2022年04月08日 >ウクライナ情勢。 >日本は大丈夫なのか? >※ウクライナ情勢をどう見るか?(視点) http://blog.nihon-syakai.net/blog/2022/03/13268.html >日本のメディアもウクライナ・ロシア報道一色ですが、いったい何が事実なのか、非常に混迷している。
情報攪乱を意図している人もいるでしょうね。
>少なくとも、正義感情で思考停止している場合ではない。
そうですね。
全てわれらの義はけがれた布切れの如し。 (イザヤ書)
>遠い国の戦争ではなく、日本もかなりヤバイことになっているのではないか? >決して他人事ではない、と懸念します。
そうですね。自分自身の意思を示せば当事者・関係者となる。示さなければ傍観者にとどまります。
しかし、日本人には意思がない。だから、遠い国の戦争は他人事になるしかありません。
日本人には意思 (will) がない。つまり、無心である。意思は英語の未来時制の文章内容であるが、日本語の文法には時制 (tense) というものがないので、日本人には意思がない。
意思のあるところに方法 (仕方) がある。Where there's a will, there's a way. 日本人には意思がない。仕方がないので無為無策でいる。おとなしい。優柔不断・意志薄弱に見える。能動がなくて受動ばかりの生活を送っている。だから戦時中は、玉砕するまで戦い抜いた日本兵であった。困った時には '他力本願・神頼み' になる。思考停止に陥っていて生きる力 (vitality) が不足している。
' やってみせ、言って聞かせて、させてみせ、ほめてやらねば、人は動かず' 山本五十六 (やまもと いそろく)
どうやら '指示待ち人間' ができあがったようです。この筋道で成功すると、後追いの専門家になりますね。後追いの人は世論指導者としては適格ではないでしょう。
>日本はこのままアメリカ従属路線で大丈夫なのでしょうか?
日本人には意思がない。だから、受動があって能動がない。受動運動は従属路線につながっていますね。自主性が無ければ赤子のようなもので助かりませんね。
>※日本人はいい加減目を覚まさないと未来はない。https://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=400&m=376316
そうですね。日本語文法には時制がないから、日本人には過去も未来もありませんね。在るのは自分の目の前の現実だけでしょう。目を覚まそうにもその方法がない。
>ウクライナ・ロシア戦争の経緯(原因)として、米国が大きく関係していることは、もはや世界の常識だと思われますが、そのことを掘り下げる報道もほとんどなく、日本のメディアは情報戦(西側プロパガンダ)に組み込まれてしまっている前提で、事実を見極める必要があります。
現実しかないにもかかわらず、日本人には現実直視は難しいですね。
日本人は思考を停止している。だから無哲学・能天気である。ノンポリ・政治音痴になっていて、’政治は誰がやっても同じ結果になる’ と考えられている。’にもかかわらず政治家が政争をしているのは私利私欲のためで、 政見の違いは私利私欲のための単なる言いがかりに過ぎない。’ と考えられている。かくして政治哲学が発達しない。
言語は伝達の手段であるばかりでなく、思考の重要な手段でもあります。ですから我々の考えの疎かな所は日本語のせいであることもあります。
非現実 (考え) の内容は、英語の時制のある文章により表される。非現実の内容はそれぞれに独立した三世界 (過去・現在・未来) の内容として表される。その内容は世界観と言われている。これらの三世界は時制により構文が異なるので、同次元で語ることができない。それで独立した三世界になっている。この規則を the sequence of tenses (時制の一致) と呼ぶ。日本人の初学者が英論文を書くときに難渋する規則である。
世界観は、人生の始まりにおいては白紙の状態である。人生経験を積むにしたがって、各人がその内容を自分自身で埋めて行く。自己の 'あるべき姿' (things as they should be) もこの中にある。来るべき世界の内容を語ることは、時代を先取りすることである。
自己のその内容 (非現実) を基準にとって現実 (things as they are) の内容を批判 (縦並びの比較) すれば、批判精神 (critical thinking) の持ち主になれる。批判精神のない人の文章は、ただ現実の内容の垂れ流しになる。全ての事柄は他人事になる。これは子供のようなものである。日本人も英米人も子供の時には非現実 (考え) の内容というものがない。だから ‘話を告げる’ (to tell a story) ということは、’作り話をする’ とか ‘嘘を吐く’ という風に受け取られて悪い子供とされている。この判定だけがわが国では一生涯続く。
日本語の文法には時制がない。だから、日本人には非現実を内容とする世界観がない。そして、日本人には批判精神がない。残念ながらマッカーサ元帥の '日本人12歳説' を否定できる人はいない。
意見は比較の問題である。現実の内容と非現実の内容があれば批判精神が発揮できる。英米人の意見はこれである。これは縦並びの比較ということができる。建設的である。進歩が期待できる。希望が持てる。現実の内容だけであれば、その比較は '現実' 対 '現実' の上下判断 (横並びの比較) になり、'どっちもどっちだ' がある。そこで、不完全な現実に囲まれて無力感に苛まれる。この種の比較は復讐に復讐を重ねる民族同士の争いの原動力にもなっていて進歩が期待できない。
イザヤ・ベンダサンは、自著 <日本人とユダヤ人> の中で ‘自らの立場’ について以下のように述べています。
何処の国の新聞でも、一つの立場がある。立場があるというのは公正な報道をしないということではない。そうではなくて、ある一つの事態を眺めかつ報道している自分の位置を明確にしている、ということである。 読者は、報道された内容と報道者の位置の双方を知って、書かれた記事に各々の判断を下す、ということである。 ・・・・日本の新聞も、自らの立場となると、不偏不党とか公正とかいうだけで、対象を見ている自分の位置を一向に明確に打ち出さない。これは非常に奇妙に見える。 物を見て報道している以上、見ている自分の位置というものが絶対にあるし、第一、その立場が明確でない新聞などが出せるはずもなければ読まれるはずもない。・・・・・ (引用終り)
(略)
>※ネオコンがウクライナ侵攻の原因を作った https://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=400&m=376176 >経済では「円」がますます安くなっています。 >政府も日銀も知らぬふりですが、これはドル円の金利差の問題、つまり米ドルを支えるべく日本円が従属させられていることだと思われます。 >※円の問題、ドルの問題http://blog.nihon-syakai.net/blog/2022/01/13152.html >米国をはじめとする西側諸国からロシアへの金融制裁(SWIFTから排除など)は、ドルの力を根拠としているわけですが、ロシア側は「ロシア財務省の金備蓄」「中国人民元の国際送金網との連携」「原油・LNGのルーブルリンク制の発動」など、対抗策を打ち出しています。 >.この先行き予測はかなり重要です。
そうですね。
>これらは、いわゆる「ペトロ・ダラー制」への挑戦です。(1971年の金ドル交換停止後のドル基軸体制で、米ドルで原油を買わせる制度。変動相場制でのドルの通貨価値の根拠になっている) >この意味を日本のメディアは理解していない、もしくは報道できない。
そうですね。日本人は思考を停止していますから、日本のメディアは垂れ流ししかできませんね。
>※ロシア制裁の裏で強烈に進む中国の通貨政策 https://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=400&m=376210 >※ロシアと中国、単一通貨の導入を検討 https://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=400&m=376077 >※日本円もひっそりと「大暴落中」https://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=400&m=376341 >米ドル基軸に対抗する中国・ロシアという構図ですが、少なくとも日本は、米ドル一極体制ではなく(米国一点掛けの心中?)、多極体制を前提に通貨・金融戦略をとる必要があるのは自明です。
日本人には意思がない。ですから日本は他国の後追いしかできませんね。
>「安全保障」(東アジア情勢、中国・台湾・北朝鮮)、「エネルギー・資源・食糧」の観点でも同様です。 >アメリカに言われるがままですが、ユーラシア新勢力とわたりあうことも含めた全方位外交が必須です。 >とにかく日本のメディアは、とても残念なことに、あまりにも自閉的、鎖国的で遅れています。
そうですね。日本人には個人主義が無く、自己実現の難しい国ですね。
我々日本人は日本語と英語の両言語を良く学び、思考における時制の大切さを十分に理解する必要がありますね。英語にある時制 (tense) を使った考え方を会得すれば、我々は自己の意思 (will) を明らかにすることも可能になるし、自分自身の世界観 (world view) を持つことも出来ます。さすれば我々は国際社会において相手の理解も得られ、未来社会の建設に協力することも可能になります。かくして、我々日本人は、人類の進歩に一層の貢献が可能になるでしょう。
『有能な人材が世界から日本に集まり、ここで世界に向けてサクセスストーリーが生まれるという国家を目指すべきです。 このための具体的な政策課題として (1)英語を第2公用語にする (2)定住外国人に地方参政権を与える (3)インターネットの接続料はじめ知的生産活動の基本コストを諸外国並みにする (4)日本の制度やシステムの中で国際基準と合致しないものを一括して見直す―の4点を提案したいと思います。』 (茂木敏充外務大臣)
我が国の ‘かな漢字’ は世界中何処の国に行っても通用しない。特にローマ字 (alphabet) の代わりに仮名を使用することには害毒がある。仮名漢字表記による学習で自分は世界に通じていると思い込む。だが、これは事実ではない。勝手な解釈により世界に関する独りよがりの解釈は避けられない。私は宿泊先のアメリカ人の名前は知っている。しかし、その綴り方は分からない。つづり字を考えることのない日本人の記憶方法だからである。このような文盲に近い体験の仕方では外国人との文通もできない。地図を見て探すことも難しい。かな書き英語が我が国民の国際化を果てしなく遠ざけているということができる。
国語の勉強は読み書きの練習である。ところが、日本語のかな漢字表記は難しい。特に漢字の字形と音訓の習得に月日を費やし、目的の勉学の成果が遅れている。私の知人に '〇〇健' という名前の人がいる。彼は周りの人から 'タケちゃん' とか、'ケンちゃん' とか呼ばれている。'一体どちらが本当なのか' と私が尋ねると、彼は 'どちらでも良いのですよ' と答える。'でも、戸籍ではどうなっているのか' と尋ねると、'戸籍にはフリガナがありませんから、どう読んでも良いのですよ' という答えであった。これを '日本人の自由' というのであろうか。'あるべき姿' の追及がない。だから表記法の改革も進まない。とりわけ漢字圏以外の国から来た外国人には日本語の漢字は難しい。日本語をローマ字表記にすれば彼らもたちどころに日本語を読めるようになる。読み書きが自由になると一人前の大人として活躍できる。筆記試験でも真の実力が発揮できる。外国人の能力に関してより公平な評価をする社会が我が国内に実現する。ぜひローマ字表記を法制化してもらいたい。
為せば成る。為さねば成らぬ何事も、成らぬは人の為さぬなりけり。 (上杉鷹山)
>世界から日本がどう見られているか(米国、ロシア、中国、欧州、アジアの人々から・・・)、もっとアウトサイドインの視点で、大局を先読みしなければ、生きていけないのではないかと危惧します。 >※世界は実力主義・自治自決の時代へ http://blog.nihon-syakai.net/blog/2022/01/13110.html >パンデミックもあり、戦争もあり、地震もあり、今の時代はたいへんに混迷しています。 >今までの枠組みが大きく崩れて、地球レベルで物事を考えないといけない時代だとも言えます。
そうですね。我々日本人は時代の変化に対処するのが難しい民族ですね。
(s) <日本はなぜ敗れるのか・敗因21か条> を著した山本七平の指摘する事例からも、大和民族自滅の過程は見て取れます。その一例を以下に掲げます。
私が戦った相手、アメリカ軍は、常に方法を変えてきた。あの手がだめならこれ、この手がだめならあれ、と。 、、、、、あれが日本軍なら、五十万をおくってだめなら百万を送り、百万を送ってだめなら二百万をおくる。そして極限まで来て自滅するとき「やるだけのことはやった、思い残すことはない」と言うのであろう。 、、、、、 これらの言葉の中には「あらゆる方法を探求し、可能な方法論のすべてを試みた」という意味はない。ただある一方法を一方向に、極限まで繰り返し、その繰り返しのための損害の量と、その損害を克服するため投じつづけた量と、それを投ずるために払った犠牲に自己満足し、それで力を出しきったとして自己を正当化しているということだけであろう。(引用終り)
>世の中はどうなるのか、どういう方向が望ましいのか、フェイクニュースで混迷し、みんなどうしていいのかわからなくなっている。 >そういう状況だからこそ、あくなき事実の追求が必要、真の活力再生が必要。
我が国のマスメディアの読者に対する丁寧な解説が必要ですね。
>そのことに常に自覚的でありたいと思います。
そうですね。
大学などの高等教育機関で論文作りに励めば学士・修士・博士などの称号が得られる。博士は普通 '哲学博士' (Doctor of Philosophy: Ph. D.) と呼ばれる。
私は日本のインテリから ‘哲学とは何ですか’ と何度も聞かれた。外国人からは、このような質問を受けたことはない。日本人は大学で、自己の哲学を作ることを学んでこなかった。だから彼らは退屈男・退屈女となって大学在学中の4年間を遊んで暮らさなければならなかった。
政治に関する考えは政治哲学になる。宗教に関する考えは宗教哲学になる。科学に関する考えは科学哲学になる。人生に関する考えは人生哲学になる。などなど。
我が国の政治家には政治哲学がなく、わが国の宗教家には宗教哲学がない。わが国の科学者には科学哲学がなく、わが国の著述家には人生哲学がない。などなど。
‘私は絶対に日本人を信用しない。昨日までの攘夷論者が今日は開港論者となり、昨日までの超国家主義者が今日は民主主義者となる。これを信用できるわけがない’ (あるアメリカの国務長官)
TBSブリタニカとブリタニカ国際大百科事典を作ったフランク・ギブニー氏は、自著 <人は城、人は石垣> の中で、我が国の作家について次の様な感想を述べています。
孤立は日本式スタイルを誇る詩人、随筆家はいうに及ばず、小説家において最も顕著である。これは外国人にとっては判断をはばかられる主観的な領域である。しかし文学界で最も尊重される文章が意味を省略し、あいまいさに富み、漢字をうまく使って読ませ、文法分析家を意気揚々と悩ます一種の「気分の流れ」であることは一般に真実である (私の思考パターンは取り返しのつかぬほど西洋的なので、私は自分がスラスラ読めるような日本語の散文は深刻なまでに文学的優雅さに欠けているにちがいない、という大ざっぱなルールをとっている)。(引用終り)
我が国には人手不足の話はあるが、頭脳不足の話はない。わが国は、無哲学・能天気の国である。だから、国民は歌詠みになる。バラバラな単語ばかりの歌詞には意味がない。
イザヤ・ベンダサンは、自著 <日本人とユダヤ人> の中で、言葉 (ロゴス) について以下のように語っている。
、、、、、 母親が子供に「チャント・オッシャイ」という場合、明晰かつ透明 (英語ならクリヤー) に言えということでなく、発声・挙止・態度が模範通りであれ、ということである。だが、クリアーということは、原則的にいえば、その人間が頭脳の中に組み立てている言葉のことで、発声や態度、挙止とは全く関係ないのである。プラトンの対話篇から、例として『クリトン』をあげてみよう。この対話は、明日の死刑執行を前にして、夜明けに、獄中のソクラテスをクリトンがたずねて、脱獄をすすめるところからはじまる。もちろんソクラテスは寝ている。だがどう読んでみても、ソクラテスが起き上がって、威儀を正して、法の遵守を説いて、クリトンに反論したとは思えない。ソクラテスは、おそらく最後まで寝っころがったままで話しているのだ。従って、この場合、純粋に、ソクラテスの言った言葉 (ロゴス) だけが問題なので、彼の態度や語調は全く問題にされないのである。日本では、「その言い方は何だ」「その態度は何だ」と、すぐそれが問題にされるが、言っている言葉 (ロゴス) そのものは言い方や態度に関係がない。従がって厳然たる口調と断固たる態度で言おうと寝ころがって言おうと言葉は同じだなどとは、だれも考えない。従って純然たる会話や演説の訓練はなく、その際の態度と語調と挙止だけの訓練となるから、強く訴えようとすれば「十字架委員長の金切声」という形にならざるをえない。(引用終り)
日下公人氏は、<よく考えてみると、日本の未来はこうなります。> の中で、日本人に関するW.チャーチルの感想を以下のごとく紹介しています。
日本人は無理な要求をしても怒らず、反論もしない。笑みを浮かべて要求を呑んでくれる。しかし、これでは困る。反論する相手をねじ伏せてこそ政治家としての点数があがるのに、それができない。
それでもう一度無理難題を要求すると、またこれも呑んでくれる。すると議会は、今まで以上の要求をしろと言う。無理を承知で要求してみると、今度は笑みを浮かべていた日本人が全く別人の顔になって、「これほどこちらが譲歩しているのに、そんなことを言うとは、あなたは話のわからない人だ。ここに至っては、刺し違えるしかない」と言って突っかかってくる。
英国はその後マレー半島沖で戦艦プリンスオブウェールズとレパルスを日本軍に撃沈され、シンガポールを失った。日本にこれほどの力があったなら、もっと早く発言して欲しかった。日本人は外交を知らない。(引用終り)
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