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日本人の知的能力を増進するための提案をするブログです。

梅田衛基氏  

2025-01-26 01:25:32 | 文化

Finasee   >「嘘だ、嘘だ、嘘だ、嘘だ、嘘だ…」お受験に没頭した母に突き付けられた無慈悲な結果、そして気づいた「親としてすべきこと」とは   >Finaseeによるストーリー・   >11時間・   

><前編あらすじ>

4歳の娘・美織のささいな一言からお受験に熱を入れるようになった一美だが、夫の康は「美織はまだよくわかっていないのでは」と否定的だ。   

>そんな康の姿が教育熱心ではなかった実の親の姿に被ったのか、一美はより一層美織のお受験に身も心もささげるようになっていく。   

>二人の溝は深まるばかり、そして美織の表情にも陰りが見えるようになってしまう……。   

>●前編:「私たちが道を示してあげなきゃ」娘の幸せを願う平凡な主婦がハマってしまった「お受験の沼」   

>お受験に身が入らない夫に苛立ち   

>一美は毎朝誰よりも早く起き、リビングで受験に関する書類を広げるのが日課になっていた。   

>康が制止する言葉も耳に入らない。   

>一美の中で、美織の将来のためにできる限りのことをするという決意がすべてだった。   

>「美織のためなんだから」   

>一美はその言葉を呪文のように何度も繰り返した。   

>いつの間にかママ友の中でも、一美は「教育熱心な母」として知られるようになっていた。   

>塾の送迎を欠かさず、模試の結果に一喜一憂しながら、他の母親たちと情報交換に勤しむ。   

>習い事をさせておいたほうがいいと聞けば、美織にピアノを始めさせ、日夜付きっ切りで練習させた。   

>次第に一美はママ友たちの輪の中心に立つようになり、他の母親たちから相談を持ちかけられることも増えた。   

>しかし一方で。   

>家庭のなかでは孤立してもいた。   

>受験に対して前のめりになる一美に反し、康は何かにつけて後ろ向きだった。   

>小学校受験は親の受験とも言われており、特に面接対策に向けて、夫婦ともに協力するという姿勢は欠かせない。   

>それなのに康は、塾の面接練習会にも仕事を理由に遅刻し、髪の毛もボサボサでやってくる。   

>志望動機を聞かれれば「娘のためにそうしろと言われたので……」と満場一致で不合格となるような返答をするありさまだった。   

>康のやる気のない態度に両親の姿が重なり、一美はさらに苛立ちを募らせた。   

>「どうしてちゃんとやってくれないの? 父親なら父親らしくしてよ!」   

>「父親らしくって何だよ。   

>もう勘弁してくれよ!」   

>いつの間にか、夫婦の会話はほとんどが口論になっていた。   

>家族から消えていく笑顔   

>そして受験の日が近づくにつれ、一美から放たれる空気はますます殺伐としていった。   

>美織の生活すべて、――遊ぶ時間でさえも、受験のためのものとなっていた。   

>「いい? 暗い色でお絵かきなんてしたら、心に問題がある子なのかなって思われちゃうのよ。   

>だから明るい色で画用紙いっぱいに描くの」   

>美織がお絵かきしているそばから、一美が事細かく口を挟む。   

>「何を描きましたかって聞かれたら、なんて答えたらいいと思う?」   

>美織が上目遣いでもじもじしながら答える。   

>「……パパとママ?」   

>「違う! パパとママを描きました、でしょう? それと赤い色で空を塗りつぶすのはだめよ!」   

>さらに一美は自分で面接の質問集と回答集を作成し、何度も美織に暗唱させた。   

>渋る康にも、「美織のためなのよ」と説き伏せ、すべてを暗記させた。   

>不意打ちで質問をしても、即完璧に答えられるようになるまでそれを続けた。   

>いつの間にか家から笑顔が消えていた。   

>その状況に胸が痛むことはあったけれど、「今だけ、今頑張ればこの先の美織の人生は安泰なのだから」と、一美は心を鬼にし、受験の日を迎えた。   

>緊張はしたが、やれるだけのことはやった。   

>完璧よ、完璧にできたはず――。   

>その日の面接を何度も反芻しながら、一美は美織と康とともに家路についたのだった。   

>私、どうかしてた   

>「不合格」   

>合格発表当日。   

>パソコンの前に張りついてページの更新を待っていた一美の前に現れた3文字は無慈悲だった。   

>ぱっと画面に現れたその無機質な文字を、一美はしばらく理解できなかった。   

>嘘だ、嘘だ、嘘だ、嘘だ、嘘だ……。   

>「どうして……。   

>こんなに頑張ったのに……」   

>一美は頭を抱えた。   

>「ママ……」   

>心細そうに、美織が呼びかけた。   

>その瞬間、一美は自分の感情が心の底からうねり上げるのを止めることができなかった。   

>気づけば叫んでいた。   

>「せっかくお金をかけて準備してやったのに! どうしてこんな結果になったのよ!」   

>その言葉に、美織の瞳から大粒の涙が次々とこぼれ落ち、しゃくり上げるような泣き声が響く。   

>「ごめんなさい……」   

>美織の哀哭に、一美ははっと我に返った。   

>「ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい……」   

>今まで見たことがないほど怯えた美織の表情に、一美は全身の力が抜けていくのがわかった。   

>その晩、遅くに帰宅してきた康も、受験の結果は自分で調べて知っているのだろう。   

>ソファに座り、呆然としている一美の隣に、康は黙ってその隣に腰を下ろした。   

>泣き疲れた美織はすでに眠っていて、リビングには呼吸の音すらはばかられるような重い沈黙が続いていた。   

>「私、どうかしてた」   

>か細い声が漏れると同時に、一美は顔を両手で覆った。   

>「本気で美織のためだと思っていたの。   

>まさか美織があんなに苦しんでたなんて」   

>そこまで言うと、一美の口から嗚咽が漏れた。   

>康は何も言わずに一美の背中に手を置き、静かにその手を上下させた。   

>自分の両親のようには絶対になりたくないと思っていた。   

>けれども彼らが一美を苦しめたように、気づいたときには一美も美織を苦しめていた。   

>形は違えども、一美は両親と同じ過ちを美織にしてしまったことを悟った。   

>謝るべきは美織じゃない。   

>一美のほうだった。   

>一美の荒い呼吸が収まるのを待って、康が口を開いた。   

>「確かに美織は傷ついたかもしれない。   

>でも今からでも遅くない。   

>美織が本当に幸せになるために、俺たちに何ができるのかを考えていかないか」    

>康の言葉は柔らかかった。   

>一美の瞳から、再び涙が溢れて止まらなくなる。   

>康とともに寝室に向かった一美は美織に寄り添い、その小さな手をそっと握り締めた。   

>大切なものは、すでにここにあったのだ。   

>すべて揃っていたのだ。   

>お受験だとか将来だとか、そんなことよりももっと大切な思いが一美の心から溢れ、気づけば口にしていた。   

>「美織、大好きだよ」   

>美織が薄く目を開け、一美の手を握り返し再び眠りについた。   

>激しい後悔が一美を埋め尽くす。   

>その愛おしい寝顔を、一美はいつまでも見つめ続けた。   

>※複数の事例から着想を得たフィクションです。実在の人物や団体などとは関係ありません。   

>梅田 衛基/ライター/編集者   

>株式会社STSデジタル所属の編集者・ライター。   

マネー、グルメ、ファッション、ライフスタイルなど、ジャンルを問わない取材記事の執筆、小説編集などに従事している。   

 

日本人は思考を停止しているから、自分自身の意見を明らかにしない。わが国のマスコミの編集長でも例外ではない。だからいくら外部の情報を流しても、それが社会の木鐸の役割を果すことはない。「それでどうした、それがどうした」の問いに答えが出せないのである。我々日本人は自己の見解を述べる教育を受けてこなかった。だから個人の価値が低い。[木鐸=ぼくたく:世人を教え導く人]        

高等教育機関において自己の個人的な見解を明らかにすれば学位 (博士号など) が得られる。ぜひやるべき勉強です。   

イザヤ・ベンダサンは、自著 <日本人とユダヤ人> の中で ‘自らの立場’ について以下のように述べています。   

何処の国の新聞でも、一つの立場がある。立場があるというのは公正な報道をしないということではない。そうではなくて、ある一つの事態を眺めかつ報道している自分の位置を明確にしている、ということである。 読者は、報道された内容と報道者の位置の双方を知って、書かれた記事に各々の判断を下す、ということである。 ・・・・日本の新聞も、自らの立場となると、不偏不党とか公正とかいうだけで、対象を見ている自分の位置を一向に明確に打ち出さない。これは非常に奇妙に見える。 物を見て報道している以上、見ている自分の位置というものが絶対にあるし、第一、その立場が明確でない新聞などが出せるはずもなければ読まれるはずもない。・・・・・ (引用終り)    

 

子供には現実 (事実) ばかりがあって非現実(哲学・考え) がない。

英米流の高等教育は子供に哲学を獲得するための教育である。

英米流の高等教育は子供を大人にする為の教育である。

子供が思春期になって、言語能力が飛躍的に増大するのを待って高等教育が行われる。

 

英語の文法には時制 (tense) というものがあって独立した非現実の三世界を表現することができる。

未来時制の文を使えば自己の意思を表すこともできるようになる。    

意思を表すと加害者意識も経験することになる。

それが高じて罪の意識も理解できるようになる。罪の告白も可能になる。   

深い反省にも陥ることもあるので原因の究明が行われる。     

事故の原因究明がやむやにはならない。

 

魂の救済を必要とする人も出て来る。   

贖罪のための宗教 (キリスト教) も重要になる。   

こうしたことで浅薄な人間が思慮深い人間に変身する。   

だからどこの国でも高等教育に力を入れることになる。   

 

哲学は非現実 (考え) の内容であるから、思考を停止している日本人には縁がない。

日本語は現実の内容だけを話す言語である。   

日本式の判断だと見ることのできる内容は本当の事である。見ることのできない内容は嘘である。   

だから現実の言葉 (日本語) を話す人が非現実を語る学習をすると常に失敗する。   

嘘ばかりついていては学習に力が入らない。だからわが国は英米流の高等教育の導入に失敗した。何処の国も日本に我が子の高等教育の成果を期待する者はいない。  

 

今の地球はアングロ・サクソンの支配体制にある。哲学が相手を引き付けて人々の尊敬を得る。アフリカ系米国人はアメリカの大統領になった。インド系英国人は英国の首相になっていた。これらは高等教育の賜物である。インド人は印欧語族であるからアングロ・サクソンと相性が良い。   

 

当の日本人の若者はいまなお序列競争にうつつを抜かしていて、教育内容の吟味などする余地はない。   

難関出身者が序列社会で優位に立つ話ばかりを気にしている。

世界に対する注意力不足で井の中の蛙になっていて、国際取引で印欧語族を取引相手にして苦戦を強いられることになる。     

「中国は悪だが、日本はもっと邪悪だ、中国にダンピングや過剰生産の方法を教えたのは日本だ」「日本は1945年から何も学んでない。米国がいかに優れていて、寛大なのか、分かっていない」 (クリフス社のゴンカルベスCEO)   

日本人には現実があって非現実がない。日本人の教育は戦前戦後を通じて実学 (技術) があって、虚学?(哲学)がない。だから‘あるべき姿’を追求する学問がないので高尚な議論が出来ない。欲得ずくのかけひきしかできない。それで相手からの信用が得られない。  

日本人には意思がない。だから加害者意識も無く、罪の意識もない。天真爛漫としていて、自分自身が邪悪などとても信じられない。だから子供じみている。  

 

マッカーサ元帥は1951年5月5日の上院合同委員会で日本人を以下のように評していました。  

‘もしアングロ・サクソンが人間としての発達という点で、科学とか芸術とか文化において、まあ45歳であるとすれば、ドイツ人もまったく同じくらいでした。しかし日本人は、時間的には古くからいる人々なのですが、指導を受けるべき状態にありました。近代文明の尺度で測れば、我々が45歳で、成熟した年齢であるのに比べると、12歳の少年といったところ like a boy of twelve でしょう。’ (ジョン・ダワー 増補版 敗北を抱きしめて )