>『できる』は『可能』を表す言葉であるが、この『できる』は、『いでくる』→『でくる』→『できる』と変化したものである。>『「いでくる」というのは「(内にあるもの、隠れているものなどが進み動いて)表に現れる」「(なかったものが)新しく生じる。できる」(日本国語大辞典)といった意味である。』 (敬語日本人論 荒木博之 PHP P110)
>このことは、 『「自然展開」「自発」的であるものが、そのまま日本人にとって「可能」となり得ているということを意味している。したがって日本人にとって何かが「可能になる」ということは、その人の主体性においてその「可能」をつかみ取るということではなく、まさに「自発」の世界と同じように「主客合一の世界においてある行為が成立する」ことなのである。』(敬語日本人論 荒木博之 PHP P112)
日本人の解釈は、物事の生起は ‘自然展開・自発的’ によるということですね。’子ができる’ といったようなものですか。
>ここでいう『自発』とは、 『自発的に行動しなさい』の『自発』ではなく、>『おのずからそうなる』という意味の『自発』である。
無意思の自発ですね。出来心の様なものかな。
>この『自発』においては、その行為の『主体』(subject)性はかえって妨げになるものである。>そこでは『誰が』ではなくて『おのずと』が大切になる。>したがって『自発』を表現する文においては『主語』(subject)は不要であるばかりか、かえって自発本来の意味を損なうものとなる。
この世界は、神の意思により作られたものではなくて、自然にできたものですね。神様の姿の描かれていない風景画の様なものですね。
>可能表現の根が自発表現に発しているのはほんの一例であり、その他にもさまざまな表現がこの自発表現から発している。>『(「明日来られるか来られないかはお天気次第ですね」の「れる」「られる」は本来「自発」表現だが、) 「自発」「自然展開」をよしとする日本人の価値意識は「自発」を本意とする言葉に「価値」の意味を付与することになる。すなわち「自発」「自然展開」的になされる行為に価値を与え、価値を付与された語によって「尊敬」をあらわすという言語史的展開が見られるようになる。「先生は明日来られる」に見られるように、本来「自発」を意味する「られる」によって尊敬をあらわすようになってゆくのである。』(敬語日本人論 荒木博之 PHP P120)
そうですね。そう考えるとわかりやすいですね。
>また、『「れる」「られる」、「できる」のような本来「自発」をあらわす言葉は、「自発」が日本人の価値意識の中核に存在している故に、それがそのまま「可能」(例「自転車に乗れるようになった」)「尊敬」をもあらわすべき契機を本来的に秘めている。』(敬語日本人論 荒木博之 PHP P122)
そうかもしれませんね。
>さらに、『「れる」「られる」に見られるような「受身」(例「雨に降られる」)の意味は「自発」とほとんど重なるようにしてある。』((敬語日本人論 荒木博之 PHP P110)112)
受け身も無意思、自発も無意思ですね。ですから、日本人には意思が無い。意思は、未来時制の文章内容でありますが、日本語文法には時制というものがありませんので、日本人には意思がありません。優柔不断・意志薄弱に見えます。
>『自発』と『受身』はそのどちらもが行為の主体性を消し去っているという点で共通している。
そうですね。無我の境地ですね。
このような特徴を持つ日本語のなかで、『主体性』を意識させ、『主語』の使用を条件づけようとすれば、日本語のもつ表現の細やかさは、大きく後退するにちがいない。
‘私’ か、’わし’ か、’俺’ か、’わっし’ か、それが良く分からない。環境変化により、主語の持ち味は変わる。もちろん、この変化は本人の自由ではない。
>『自発』表現は『主客合一』『自他未分離』の状態に足場をおいた表現であり、『自我』や『主体性』や文法上の『主語』表現を嫌うものである。
そうですね。文章自体を嫌いますね。バラバラな単語を並べることにより雰囲気を楽しみますね。
>このように、日本語のバリエーションの多くは『自発』または『受身』を中心にしてその周囲を取りまいている。
日本人には意思が無い。だから、意思の内容による表現は考えられない。それで、すべてが自発とみなされる。
意思が無ければ、能動的な動作もなく、すべては受動的動作・消極的態度となる。責任もなければ、責任感もない。
自己の意思を表明すれば、当事者・関係者になる。意思を表明しなければ、傍観者にとどまる。意思表明のない我が国は、世界の中に在って、世界に属していない。
>なかでも『主語』を必要としないのは『自発』のほうであり、その意味で最も特徴的な表現は『自発』であるといえる。
そうですね。自発的行為には意思が無くて、恣意が関係していますね。アニマルの様なものですね。
>日本語は、その状態が『自発』に近づけば近づくほどプラスの価値をもつのである。
恣意であれば作文の必要は無く、意思による精神的負担を回避できますね。
>『自発』とは、さきに見たように、『主客合一の世界においてある行為が成立すること』であり、そのことは日本人の感情の心地よい原点が、『主客合一』『自他未分離』にあることを示している。
そうですね。’自然にそうなった’ が歓迎されますね。赤子の様なものかな。
>日本人にとって良い関係とは、それが人間であろうと物事であろうと、『主客合一』『自他未分離』の状態を感じさせる関係である。
そうですね。未分離の状態ですね。とかく、’この世は無責任’ ということにはなりませんか。
>その関係が成立しているかどうかという判断が『場を読む』『雰囲気を読む』『空気を読む』ということであり、それが一旦成立していると見られた場合には、その関係を崩さないようにお互いが会話し行動することが求められる。
完全なる日本語の世界ですね。それが成立するのは、日本人だけがいる世界ですね。開国でもすることになったら、我が国は崩壊の危機にさらされますね。
>いわば『我』を目立たせないことが大切になってくる。『我』を出すということは『自発』の嫌う『主体性』を発揮するということであり、その結果『場の空気』を乱すことでもある。
そうですね。主体性を発揮しようとすれば、場の空気を乱して嫌われるということですね。この様な環境では個人が指導性を発揮することは難しいですね。
>それはまた『主客合一』の居心地のいい状態を崩すことであり、『自他未分離』の状態から『自他分離』の居心地の悪い状態へもどることである。
日本人の太平の眠りを醒ますことになりますね。お変わりの無いことは、本当に良いことですね。
>このようなことから日本人にとっては『主体性』を表現しないようにすることが常に求められているのであり、そういう意味では常に『主語』を表現し『主体性』を誇示することを求められる英語の表現とはかなり違った能力が求められている、ということができる。
そうですね。確かに日本人にとって、英語の学習は難しいものですね。
>『我』を出すばかりで、『場の空気』を乱すものはやがて排除されていくようになる。
村八分ですね。島国根性の表れですね。
>『個性尊重』の教育にともない、『自己主張』をするように絶えず求められている今の子供たちに、『いじめ』が起こりやすくなっていることはこのことと無関係ではないように思える。
自己のリーズン (理性・理由・適当) を皆様方に理解してもらえるか、それとも何が何でも穏やかな顔つきをして無事過ごすか。それが問題ですね。
(略)
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