>354516 教育と洗脳の違いは?日本の学校教育は洗脳と同義だと思う >木戸康平 ( 23 会社員 ) 20/03/14 PM09
>日本で行われている教育は洗脳じゃないか? > 例えば『「教育」と「洗脳」の違いを教えて下さい。』のページには以下の回答が載っています。>特に「あらゆる分野の知識を蓄積させ、論理的思考能力を高め、表現力を涵養するなどして、あらゆる問題を打開してゆく能力を身につけさせることが、例えば「教育」と呼ばれるのではないでしょうか? 」という部分については、なんとなく理解できる気がする。
そうですね。
>ただ、日本で行われている教育ってこれだろうか? >そもそも教育がある種強制的に行われており、かつ学ぶ内容が選べないという意味では、結局洗脳に近いと思うのです。
学問の自由が必要でね。思考が停止していては内容を選ぶ余地がありませんね。
>日本社会は個性を発揮しづらいといわれており、教育が施すのは、大人が押し付ける価値観や思想であり、子供に別に価値観や思想を選ぶ余地はほとんどない。 >そういう意味でいうと、洗脳の概念の方に近い気もする。
そうですね。考えの内容は一人一人違っていますからね。しかし、思考が停止していたら没個性になりますね。ご唱和の方式による洗脳しかありませんね。
>あらゆる分野の知識を蓄積させ、論理的思考能力を高め、表現力を涵養するなどして、あらゆる問題を打開してゆく能力を身につけさせることが、例えば「教育」と呼ばれるのではないでしょうか? >同じ問題でも人によってアプローチの仕方が違うことは当たり前で、それが社会人としての個性の現れ方です。
そうですね。ですから言語を使用する人間には個性があり、アニマルには個性がありませんね。
>それに対して「洗脳」は、ある特定の概念を強引な方法で無理矢理植え付け、そこにおいては個性は無い、ということではないでしょうか? >ある1つの価値観や思想を植え付けるのは洗脳も教育も同じ
価値観や思想は本人が自ら作るものですね。お仕着せは良くない。洗脳になります。しかし、思考が停止している個人の世の中では、お仕着せを師匠に乞う弟子が続出しますね。
>例えば、道徳の授業で「犯罪はいいこと」なんてみんなの前で発表したり、文章に書いて提出したら、教師に呼び出されるでしょう。
意思のある人は、加害者意識を体験します。深刻な場合はそれが罪の意識になって深く本人を傷つけることになる。ですから罪の意識から抜け出す方策が必要です。贖罪の宗教 (キリスト教) がこれに対応します。
だが、日本人には意思がない。だから、罪の意識は軽い。過ちを深く掘り下げるには至らない。贖罪の為の宗教 (キリスト教) も悩める人を救うことにはならない。意思は、未来時制の文章内容である。しかし、日本語には時制というものがないから、日本人には意思の表現が困難である。だから、日本人には意思が想定外になっている。
>そのまま放置はされないと思う。>そして、何を言われるか?分からないが、そこでその児童や生徒の考え方を矯正しようとするはずです。 >これは洗脳に近いと思うのです。
そうですね。意思がなければ罪もない。罪を知らない人を苦しめてはならない。わが国の仏教も神道も罪人を救う仕事を主な仕事とは考えていない。
>先ほど述べた教育における「望ましい姿」という中に、国家や社会にとって反逆的な存在を生み出さないというのが、1つの目的として存在するとしたら、あれはある意味望ましい姿を目指していると言え、教育と呼べないこともないかもしれない。
>ただ、じゃあ、その児童や生徒のいう「犯罪はいいこと」という主張をどう覆せるか?が問題なのです。
罪の苦しみを経験していなければ、犯罪は単なる遊びですね。欧米人は、そのような人が恐ろしい。
>つまり、犯罪が起きた方がむしろ国家にとって、社会にとって良いこと、プラスの影響があったとしたら、どう教師は反論するのか?
その解決には、対話・議論が必要ですね。
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