(略)
>大の大人が髪の毛を染めることを禁止する拘束の正当性を説明できないのだ。>恐らく教師も同様ではないか?と思う。
そうですね。その禁止は、きわめて恣意的ですね。その内容は、文章 (考え) にはならないでしょうね。趣味の類でしょう。でも、そうした校則に魅力を感じて入学した子供もいるかもしれませんよ。なにしろ趣味に関する事柄ですからね。
>風紀が乱れるが定番の常套句だけど、世の中の都合に合わせるように、子どもに対して正当性のないルールを強制する。
変わることは、風紀が乱れることと思い込まれているのかもしれませんね。権威主義による教えでしょうかね。
>これが日本の教育の腐っているところだと思う。>誰だって、何でこんな法律があるの?と疑問に思えば、根拠が知りたくなるだろう。
そうですね。リーズン (理性・理由・適当) を知りたい。リーズナブルの答えを責任者から聞きたいですね。
>しかし、まともな根拠が仮に存在していないとなれば、何でそんな法律があるのか?何でそんな法律を守らないといけないのか?と思うはずだ。
趣味は、論拠にはなりませんからね。There is no accounting for tastes. 個人の趣味に関することは、議論にはなじみませんね。
>そういった根拠に対する疑問を全く抱かないで生きてきた人はまずいないと思う。ってことは、こういった校則に関しての根拠に疑問を抱くのも当然で、それを説明する人間がいなければならない。
そうですね。校則に責任を持つ責任者が必要ですね。校則に誇りを持って説明する人物がいると良いですね。
>しかし、私は今のところちゃんとした説明をする人間に出会ったことがない。
そうですね。とかく、この世は無責任か。日本人には、意思が無い。
>理屈で言えば、学校のルールは学校が法律に反しない範囲で自由に決められるので、それが正当性にはなる。>しかし、この理屈を支持する者は、同様の理屈に当てはまるケースで全て支持しないといけない。
そうですね。いやなら学生はやめるしかないですね。
>つまり、憲法に反しない法律は同様に文句を言うべきではないとなり、例えば年金制度に文句を言っている人間は、この理屈を支持していないわけだから、当然髪の毛を染めないといけない校則を、「学校が決めたことだから」という理屈のみでは是認してはいけないことになる。>別途ちゃんとした理由が必要なのだ。
そうですね。別途にちゃんとしたリーズンが必要ですね。でも、年金制度は政府の管理下にある。そして、有権者の監視下にある。だが、校則は学校当局の管理下にある。よほどの不祥事が無い限り、子供の監視下にあるとは言えないでしょうね。
>そういった間で矛盾する行動をとる大人が非常に多いし、そういう大人を育成する日本の教育は問題点が大きい。
全ての考えは文章になる。文章にならないものは考えではない。矛盾を含まない文章は、全て正しい考えを示している。だから、正しい考えは一つではない。その中の採択される考えは、責任者が定めます。
>そういう大人を育成するための洗脳が日本の教育にはあるということだろうか?
日本語脳は、考え (非現実) の内容を文章として保持でない。だから、日本の教育は、’考える人’ を育てない。
>日本の教育の特徴はやはり根拠を教えないところにある。
我が国の論客は、ああ言えば・こう言う。ああでもなければ・こうでもない、あれではだめだ・これではいけないと力説する。だが、自分はどうであるかを明言しない。自分には、考えというものが無いからである。彼は、無哲学・能天気の国民だからである。
>外国でもそういった点はあるかもしれないが、なんとなく日本の教育の特徴のような気がしてくる。
そうですね。趣味には論拠が無い。だから、趣味に関する議論はしない。そして、個人の趣味にこだわる。だが、個人主義が無い。
>日本の教育に限らないけどこういう点は本当に腐っていると思えてくる。>都合のいい大人が都合のいい子どもに仕立て上げて、都合のいい大人に誘うわけだ。>そして、大人になって都合のいいことしか言わない。
都合の良い内容は、処世術 (現実) に合致した内容ですね。
>本当に日本の教育は腐っていると感じる側面に感じる。
そうですね。閉塞感を感じますね。
>実際、さっきの新聞の投書みたいに世の中の常識とずれている意見を堂々と言ってくれる教育者なんてなかなかいないでしょう。>教育者自身が問題提起をして、問題点があるならばそこを変えていく努力をしないとなかなか変わらない。
問題は、現実と ‘あるべき姿 (非現実)’ の比較により明らかになりますね。あるべき姿の内容を発想することは、日本語脳では無理でしょうから、その比較も無理でしょうね。
>しかし、そういった常識から逸脱する意見はなんやかんやで否定される。
それは常識から逸脱すると、非常識 (非現実) になるからでしょう。
>その否定意見の中に正当性が含まれているケースはそんなに多くないと感じるが、多数決の力で押し切ることが可能であり、正当性のないルールなどがその後も維持されるという仕組みになっているのです。>そして、それは大人の社会でも存在していると。
実存主義でやるしかないですね。
>日本で同調圧力がすごい原因として、私は過去に「息苦しい社会の同調圧力が嫌い、気持ち悪い、ウザいとする原因は出る杭を打つ教育にある - 就職しないで、ブロガーになった人のBlog」の記事で、教育を問題点として挙げたが、それと同じようなことかな?と思えてきます。>日本の教育の特徴はすでに述べたようなところにあると思います。
同調圧力というのは、なあなあ主義のことですか。
>日本の教育はあるべき姿というのがかなり狭い範囲で存在していて、そこから逸脱しないように作り上げていく過程になっている。
‘あるべき姿’ は非現実の内容であり、日本語脳では発想できませんね。非現実の内容を日本語で発言すれば、それはこの世の真っ赤な嘘になります。人々は、’話にうつつ (現) を抜かしてはいけない’ と申し合わせています。
>それが洗脳と呼ばれる所以でもあるのかもしれないが、個人的にはそれは日本の教育の問題点だと感じる。>日本の教育のおかしいところは誰もが感じているのではないか?と思います。
そうですね。自分で考える力のない人間に他人の考えを与えると洗脳になりますね。’○○の一つ覚え’ というのかな。自分自身の考えに基づいて他人の考えから逃げ出すことが出来ないからです。暗記ものにより、筋金入りの人間ができるということです。あとは、意地・根性を鍛えるばかりです。こうした過程は、皇民化教育で我々はすでに経験済みです。
>その理由は異なる可能性があるが、少なからず問題視している面があるならば、多くにとって日本の教育はおかしい面があると言えるのではないでしょうか?
日本語の性質に起因するものも、少なからずあるでしょうね。
>教育っていうのは子どもが受けるので、1番反論できない年齢の子たちが良いように扱われてしまうものです。
そうですね。子供は、大人の言うことを真に受けますからね。
>だからこそ、反論できる存在である大人はもっと自分が持っている意見を言って欲しいと思います。
日本語は現実描写のための言語である。だから、非現実の内容を文章にすることは出来ない。非現実の内容を文章にするためには、時制というものが必要である。時制は英語にはあるが、日本語にはない。現実描写のための日本語で非現実の内容を表現しようとすると、それは真っ赤な嘘になる。だから、人々は ‘話にうつつ (現) を抜かしてはいけない’ と申し合わせている。
日本人は、非現実の内容を文章にして表すことが出来ない。だから、考えというものが存在しない。論客は、ああ言えばこう言う。こう言えばああ言う。ああでもなければこうでもない、あれではいけないこれではだめだと力説する。だが、自分はどうであるかを決して言わない。自分には考えが無いからである。
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