> にほんブログ村 子育てブログへ >以下(https://bllackz.com/?p=118)より引用します。
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>多くの日本人は勘違いしているのだが、物を覚えるというのと、考えることができるというのは別のものだ。
そうですね。
>・覚える。 >・考える。 >この2つは似ているようで、まったく違う。
そうですね。
>覚えるというのは、世の中の原理原則を覚え、歴史を覚え、仕組みなどを記憶するというものだ。 >しかし、「覚える」というのは単なる基本であり、本来はそこからさらに飛躍しなければならない。>それが「考える」というものだ。
そうですね。
>学校が物を覚えさせる場所であるというのは誰でも知っている。 >しかし、考えさせているのだろうか。
学校は、考えさせてはいないでしょうね。
>日本の教育は、構造的に「覚えさせても、考えさせない」という教育になっている。
そうですね。
>覚えさせても、考えさせないのである。
そうですね。
>「考える」という部分を軽視している。
考えるのは、難しいですからね。都合により省略しているのでしょう。
>なぜか。それは、学校が何のためにあるのかを考えれば理解できるかもしれない。 >学校とは、社会で通用する人間を作り出すところだからだ。
それは、そうですね。
>日本で「社会に通用する」というのは、サラリーマンになれるということでもある。
そうですね。それが、一番簡便な方法ですね。
>■教育とは子供を規格化するという側面がある
>学校は最終的に子供を社会で通用する人間に「矯正」する場所である。>子供を規格化するのだ。
そういう事になりそうですね。
>日本では国民の8割がサラリーマンであることを考えると、日本の学校で重要な使命は日本人がサラリーマンとして通用するように規格化するのが使命と言うことになる。
学校を出たら就職ですね。
>ここに問題がある。
>サラリーマンとは、「上司の言うことをよく聞いて、口答えせず、言われたことを忠実に行い、不満があっても黙々と働き、集団生活を優先する」ということができる人間でなければならない。
自分の頭で考えるのは、難しいことですからね。
>だから、日本の教育はその現状に沿って、そういった人間を作り出す仕組みになっているのである。
わが国の現状は、日本語の性質にも関係しているでしょうね。
>上記の特徴を、もう一度よく考えてみて欲しい。 >あることに気づかないだろうか。 >「上司の言うことをよく聞く」とは、自分の意見を持たないで指示待ちの人間になるということである。
そうですね。日本人には意思がない。だから、受動ばかりで能動がない。指示待ち人間になる。
意思は、未来時制の文章内容であるが、日本語文法には時制というものがない。だから、日本人の脳裏には未来時制は無く、日本人には意思がない。
>つまり、自分で「考えない」ことが重要だ。
そうですね。つまり、無哲学・能天気だということですね。
>「口答えしない」と言うのも、自分の意見を殺して会社の意向を無条件で重視するというものだ。
そうですね。上意下達の励行ですね。
>つまり、自分で「考えない」ことが重要だ。
全ての考えは、文章になる。文章にならないものは、考えではない。
非現実・考えの内容は、時制のある文章になる。しかし、日本語の文法には、時制というものがない。だから、自己の考えを文章にすることは難しい。自分で考えないことは、楽ちんでもある。
>「言われたことを忠実に行う」というのも、ロボットのようになるということであり、それはすなわち自分で「考えない」ことが求められている。
そうですね。自分で考えない人には、作法の励行が便利ですね。
>「不満があっても黙々と働く」という奴隷のような状態も同じで、「考えないようにする」ことで達成できる。
奴隷には、自由というものがない。自由は、意思の自由のことである。しかし、日本人には、意思がない。だから、自由にも意味がない。
日本人には、意思はないが恣意 (私意・我儘・身勝手) がある。恣意は、バラバラな単語 (小言・片言・独り言) のままで存在するので、文章にならない。だから、意味も無い。議論にもならない。
意思 (will) の自由は認められても、恣意 (self-will) の自由は認められていない。恣意の自由は ‘自由のはき違え’ と称されて、社会的に受け入れられない。だから、わが国においては、いまもなお ‘不自由を常と思えば不足なし’ となっている。
>「集団生活を優先する」というのも、結局は自分の意見や考えよりも会社集団を尊重するということであるから、「考えない」ことで達成できるのだ。
そうですね。’個人の考えは通らない’ が通り相場となっています。考えは、人によりまちまちです。日本語には時制がないから、個人の意見の内容を識別することが難しい。だから、人々は、個性のある考えの内容に興味を持たず、没個性の社会になっている。個性の存在を認めなければ、優れた個人の選出もない。
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