>ラブすぽ >神道には教義がないのはなぜか?神道には釈迦やイエスのような開祖はなく、開祖の教えを記した聖典もない?【図解 神道】
>教義はなくても体験で敬神を伝える
>第1項でも述べたように、神道には開祖と呼ばれる存在がありません。 >したがって、開祖の教えを記した聖典はありません。 >「古事記」「日本書紀」が聖典に準じるものとして扱われることもありますが、この2書は歴史書として編纂されたものであって、神道の教理などが記されているわけではありません。
そうですね。
>仏教やキリスト教は聖典に記された教義を根幹として堅牢な教理体系をつくり出してきましたが、神道は教義が占めるべき核心部分が中空、あるいは不可視となっているのです。
奥ゆかしい限りですね。思慮がありそうにみえますね。
印欧語族の文法には時制があり意思があるので、人々は加害者意識に苛まれることが多くあります。
罪の意識に苛まれて魂の救済を求める人が多数出ますから、贖罪・涅槃による救済を求める人が後を絶ちません。ですから宗教家のスコラ哲学・インド哲学が役に立ちます。
>平安末期の歌人の西行が伊勢神宮で詠んだとされる歌に「何事のおわしますをば知らねどもかたじけなさに涙こぼるる」というものがあります。
>何が祀られているのかわからないけれど、涙が流れるほどありがたいというのです。
無哲学・能天気ですね。気分・雰囲気の問題ですね。
>正体がわからないものをありがたいと思う心情は、日本人にはごく当たり前な心情ですが、他宗の信徒、とくに一神教の信徒にはわからないことでしょう。 >こうした差異は、神道と他宗教とでは信仰のありようが根本的に違うことに由来しています。
そうですね。哲学と無哲学の差は大きいですね。
>仏教やキリスト教は聖典に記された教義を伝え広めることが重視されますが、神道では神道的価値観を伝えることが重視されます。
気分・雰囲気の問題ですね。
>そして、神道的価値観の伝授に用いられるのが、神話や神社と祭り(儀礼)なのです。
そうですね。日本人の文化には儀式があって教義が無い。日本人は形式のみに価値観を求めていますね。
>これらを知り、体験することを通して、神道的価値観が受け継がれてきたのです。
気分・雰囲気の問題ですね。’祓え給え、清め給え’ ですね。日本人には現実 (事実) があって、非現実 (考え) がない。
>ただ神道的価値観には、地域や時代によって変化があります。
現実は変化してとどまる所を知りませんね。非現実の内容は不変ですね。
>けれども、こうした曖昧さが神道の懐の深さを生んでいるという面もあるのです。
そうですね。
‘私は絶対に日本人を信用しない。昨日までの攘夷論者が今日は開港論者となり、昨日までの超国家主義者が今日は民主主義者となる。これを信用できるわけがない’ (あるアメリカの国務長官)
>出典:『眠れなくなるほど面白い 図解 神道』監/渋谷申博
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