>現代ビジネス >日本の「お役所仕事」で「台湾有事対策」はできない…遅すぎた「ソ連軍の北海道侵攻対策」から学ぶこと >木元 寛明 - 12 時間前
>2022年2月24日、ロシア軍がウクライナに軍事侵攻を開始しました(以下、ウクライナ戦争)。
>現在も戦争は進行中で、今後の推移は予断を許しません。
そうですね。
>ウクライナ戦争は戦術・作戦術を映す鏡であり、わが国の防衛態勢を直視する教訓でもあります。
>わが国の周辺では、中国軍が8月初旬に台湾を取り囲む大規模な軍事演習を実施し、台湾侵攻のシナリオが垣間見えました。
>台湾有事は即、わが国の有事につながります。
そうですね。
>ここでは『戦術の本質 完全版』の著者であり、旧ソ連による北海道侵攻が勃発した場合、その最前線でソ連地上軍を迎え撃つ任務を担っていた第71戦車連隊元・連隊長でもある木元寛明氏(元・陸将補)が、いまから「台湾有事」に備えるべき理由を解説します。
>このままでは「領土喪失」につながる?
>わが国の喫緊の課題の1つは、中国による台湾の武力統一、すなわち台湾有事=日本有事への対応です。
>中国が三戦(輿論戦、心理戦、法律戦)を駆使してグレーゾーンで戦争を着々と進めていることに鑑み、わが国に残されている時間は多くありません。
>この対応を平時の感覚で進めると「領土喪失」という無残な結果につながりかねません。
>タイミングを外した典型例を、筆者の現役時代の体験を踏まえて紹介します。
>冷戦最盛期の昭和50年代、北方領土の択捉島にソ連軍1個師団規模の部隊が配置され、ウラジオストック軍港への空母「ミンスク」「ノヴォロシースク」配備などが、わが国を威嚇するようにこれ見よがしに続けられました。
>このような情勢から、極東ソ連軍の北海道侵攻が現実味を帯びてきたため、第2師団(北海道旭川駐屯地)の戦車部隊に配置されていた筆者は、対ソ戦を想定した訓練にまい進しました。
>そして1979(昭和54)年12月27日、ソ連地上軍2個師団が陸路アフガニスタンに武力侵攻します。
>以降、ソ連軍は兵力を逐次増強して翌年4月には6個師団11万人に達しました。
>当時の米国はベトナム戦争の「後遺症」で内向きとなっており、ソ連はこの米国の退潮に歩を合わせるように、アフリカ、中東、極東、中米などへ露骨に勢力を拡大していました。
>完全に時期を逸していた侵攻対策
>このような状況に対処するため、わが国の防衛当局は、極東ソ連軍による北海道侵攻の脅威を想定した種々の施策を講じました。
>その1つが、道北の防衛を担う第2師団の装備と充足率の向上です。
>これにより、第2戦車大隊(北海道上富良野駐屯地)の増強が計画されました。
>その結果、第2戦車大隊は74式戦車の増強(60両→74両)と増員(442人→506人)により、人員装備100%充足部隊に改編され、結果として規模世界一の戦車大隊になりました。
>筆者は2度目の第2師団配置で、戦車大隊長としてこの改編に立ち会いました。
>しかし、問題なのはそのタイミングです。
>第2戦車大隊の改編は、ソ連のアフガニスタン侵攻から約8年後の1988(昭和63)年3月25日です。
>完全に時期を逸していました。
>ソ連軍は同年5月にアフガニスタンから撤退を開始し、翌年2月に撤退を完了しています。
>改編翌年の1989年には東欧革命でベルリンの壁が崩壊し、その2年後の1991年にソ連という国家そのものが消滅、名実ともに東西冷戦が終焉しました。
>また、北部方面隊の戦車戦力を強化するため、内地の第9師団を除く各師団の戦車大隊から各1個中隊を抽出して北海道に転用する「戦車北転事業」(1990~2004年)が計画・実行されました。
>これにより1990~1991年にかけて、9個戦車中隊が順を追って北海道に移転しましたが、移転開始の時点で、すでに移転事業そのものの意義と必要性が完全に消滅していたのです。
それは残念でしたね。
>にもかかわらず、当局は既定方針に則って移転事業を強行したあげく、1995~2004年にかけて新編した5個戦車中隊を移転先で廃編し、残りの戦車中隊も原隊復帰することはありませんでした。
>当時の陸上幕僚監部は移転事業自体に反対しましたが、防衛庁内局の主導で強行されたと仄聞しています。シビリアン・コントロールに名を借りた「公家長袖」の生兵法といわざるを得ません。
>お役所仕事では「力の信奉者」に勝てない
>極東ソ連軍の北海道侵攻に備えた施策(戦車の増強など)の発想自体は時宜に適していましたが、必要性が消滅した後に事業を開始し、事業が完結するというお粗末な内容だったのです。
>状況の変化に応じる機敏な対応は一顧すらされませんでした。
それは残念でしたね。
>今となっては笑い話の1つですが、教訓の種は山ほどあります。
>完全な準備を実施した後に空振りになるのは、危機管理から言えば名誉の「向こう傷」です。
>しかし、あまりにもタイミングを外したこと、必要性が消滅した後も、お役所仕事として計画を強行したことは日本的官僚システムの重大な欠陥として猛省すべきです。
そうですね。
>台湾有事の問題を、このような平時感覚のお役所仕事として処理するなら、完全にタイミングを外すこと疑いなしです。
>危機が顕在化した時点でバタバタしても間に合わないことは、容易に想像できます。
>あえてこの問題を取り上げるのは、ロシアのウクライナ侵攻に見られるように、私たちの常識が通用しない世界があり、わが国も現実にその事態に直面しているからです。
そうですね。
>私たちの目の前に立ちはだかるのは、「韓非子」や「三国志」や「孫子」の世界観の体現者です。
>どんなよい計画も機を逸すれば価値なし
>わが国の組織運営の一般的傾向として、決断が遅い、実現に多くの時間がかかる、リーダーシップに欠ける、といった問題があります。
それは昔から指摘されている我々日本人の民族性ですね。
フランク・ギブニー (Frank Gibney) 氏の著書 <人は城、人は石垣> には、日本人の意思決定に関して次のようなことが書かれています。
ペリー提督は、日本人はアメリカ人のように敏速に行動しないと注意された。それは、このように説明された。数人の日本人が黒船を訪れたいと思って集まったとする。一人が「いい日だな」という。これに二人目が「なんという気持ちのいい日だ」と調子を合わせる。三人目が「波も見えないぞ」という。最後に四人目が「船に行ってみようじゃないか」と提案する。 ニューヨーク・デイリー・ニューズ (1854年6月13日) (引用終り)
>原因として考えられるのは、縦割り組織による複雑な調整、総花式のバラマキ予算、責任の所在不明などです。
我が国は序列社会ですから縦割りになりますね。
政治哲学がないからバラマキ予算にするしかありませんね。
日本人には意思がないので、責任の所在は定まりませんね。
>現政権のドタバタぶりなどはこの典型と言えます。
ドタバタは民族性ですね。’前もって’ ということが考えられません。
>戦いの原則に「目標の原則」「集中の原則」「兵力の節用の原則」「指揮の統一の原則」があります。
>「集中の原則」と「兵力の節用の原則」は矛盾していますが、「目標の原則」と「指揮の統一の原則」を加えて4者を一体としてとらえると「組織運営の原則」となります。
>すなわち、目標を明確に定め、目標を達成できる決勝点に資源を集中し、第二義的なものには最小限の資源を配分し、そして1人のリーダーに実行を任せるということです。
そうですね。力を一点に集中するのですね。それは理想的ですね。
>実行の段階では「適時・適切」をとくに重視します。
>完全な計画を策定することよりも、時間に間に合うこと……すなわちタイミングを優先します。
そうですね。打球と同じですね。
>いかに完璧な計画を練り上げても、時機を失すると、結果として敗北・失敗という憂き目を見るからです。
そうですね。空振りになりますね。
>このことは、官民を問わず、いかなる組織にも共通する原則でしょう。
そうですね。
過去の内容は変えることができないが、未来の内容は変えることができる。それには未来の内容を自己の意思として示すことが必要である。しかし、それには無為無策でその日暮らしをしている人には望み無しである。
日本人には意思 (will) がない。つまり、無心である。意思は英語の未来時制の文の内容であるが、日本語の文法には時制 (tense) というものがないので、日本人には意思がない。
意思のあるところに方法 (仕方) がある。Where there's a will, there's a way. 日本人には意思がないので仕方なく無為無策でいる。それで、おとなしい。優柔不断・意志薄弱に見える。能動がなくて受動ばかりの生活を送っている。困った時には '他力本願・神頼み' になる。生きる力 (vitality) が不足している。だから戦時中は、玉砕するまで戦い抜いた日本兵であった。
' やってみせ、言って聞かせて、させてみせ、ほめてやらねば、人は動かず' 山本五十六 (やまもと いそろく)
どうやら 我々は '指示待ち人間' として育成されたようです。このやりかたで成功すると、他人の受け売りと後追いの専門家になりますね。我が道を行く人にはなりませんね。未来を先取りしない人は他人を唱道する人にはなれませんね。
我々日本人は日本語と英語の両言語を良く学び、思考における時制の大切さを十分に理解する必要がありますね。英語にある時制 (tense) を使った考え方を会得すれば、我々は自己の意思 (will) を明らかにすることも可能になるし、自分自身の世界観 (world view) を持つことも出来ます。さすれば我々は国際社会において相手の理解も得られ、未来社会の建設に協力することも可能になります。かくして、我々日本人は、人類の進歩に一層の貢献が可能になるでしょう。
『有能な人材が世界から日本に集まり、ここで世界に向けてサクセスストーリーが生まれるという国家を目指すべきです。 このための具体的な政策課題として (1)英語を第2公用語にする (2)定住外国人に地方参政権を与える (3)インターネットの接続料はじめ知的生産活動の基本コストを諸外国並みにする (4)日本の制度やシステムの中で国際基準と合致しないものを一括して見直す―の4点を提案したいと思います。』 (茂木敏充外務大臣)
我が国の ‘漢字かな’ は世界中何処の国に行っても通用しない。特にローマ字 (alphabet) の代わりに仮名を使用することには害毒がある。仮名漢字表記による学習で自分は世界に通じていると思い込む。だが、これは事実ではない。勝手な解釈により世界に関する独りよがりの解釈は避けられない。私は宿泊先のアメリカ人の名前は知っている。しかし、その綴り方は分からない。つづり字を考えることのない日本人の記憶方法だからである。このような文盲に近い体験の仕方では外国人との文通もできない。地図を見て探すことも難しい。かな書き英語が我が国民の国際化を果てしなく遠ざけているということができる。
国語の勉強は読み書きの練習である。ところが、日本語の仮名漢字表記は難しい。特に漢字の字形と音訓の習得に月日を費やし、目的の勉学の成果が遅れている。私の知人に '〇〇健' という名前の人がいる。彼は周りの人から 'タケちゃん' とか、'ケンちゃん' とか呼ばれている。'一体どちらが本当なのか' と私が尋ねると、彼は 'どちらでも良いのですよ' と答える。'でも、戸籍ではどうなっているのか' と尋ねると、'戸籍にはフリガナがありませんから、どう読んでも良いのですよ' という答えであった。これを '日本人の自由' というのであろうか。'あるべき姿' の追及がない。とりわけ漢字圏以外の国から来た外国人には日本語の漢字は難しい。日本語をローマ字表記にすれば彼らもたちどころに日本語を読めるようになる。音読が言語の習得には欠かせない。読み書きが自由になると一人前の大人として活躍できる。筆記試験でも真の実力が発揮できる。外国人の能力に関してより公平な評価をする社会が我が国内に実現する。ぜひローマ字表記を法制化してもらいたい。ローマ字表記を仮名漢字表記と対等な地位にしてもらいたい。日本語をローマ字表記と仮名漢字表記の二刀流表記の国にすると良い。
'為せば成る 為さねば成らぬ 何事も 成らぬは人の 為さぬなりけり' 上杉鷹山 (うえすぎ ようざん)
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