>私は国会事故調の委員長を務めた者として、この十余年、海外の原発や危機管理の関係者からの会見や懇談、講演の要請があれば、可能な限り受けてきました。
>何しろ2022年1月1日現在、世界の約30カ国で431基の原子力発電所があり、62基が建設中なのです。
>日本のような経済先進国であり、科学に優れ、技術に優れ、工業技術も極めて優れている国で起きた原子力発電所の事故だったからこそ、世界は驚き、日本がどのような思考とプロセスで対処しようとしているのか注目しています。
‘菊と刀’ という本があるように、文化人類学が再び日本人問題の究明に役立ちそうですね。
>世界は純粋にこの事故から学びたい、知識と知恵を共有したい、安全文化をつくりたい、福島第一原子力発電所事故からの回復に協力したいと考えています。
それはそうでしょう。事故はよい勉強材料になりますからね。学び甲斐がありますね。
>日本の関係者が事故にできるだけふたをしておこうとするのとは対照的です。
‘臭い物に蓋’ は ‘いろはがるた’ ですね。
>未曽有の大事故でも日本は変われない
>アメリカ議会の下にあるGAO(会計検査院:Government Accountability Office)からは、2014年3月に「福島第一原発事故に学ぶ各国の原子力安全文化」という報告書が発表されています。
>翌4月には、IAEAでも、「原子力発電所の安全性と国民文化の重要性」というテーマで、3日間のワークショップが開催されました。
>これは、IAEAの歴史では初めての試みでした。
>日本政治が専門のマサチューセッツ工科大学のリチャード・J・サミュエルズ教授は、2013年4月に米国で出版した『3.11:Disaster and Change in Japan(翻訳版は『3・11震災は日本を変えたのか』英治出版、2016年)』の中で、国会事故調の報告書を再三引用しながら、「これほどのひどい事故が起こっても、日本の民主制度も政治もさほど変化する様子が見えない。
日本人は日本語を使って考えますからね。日本語文法が変わらない限り日本の民主制度も政治も大きく変わることはないでしょうね。
>どれほどの大事故、大災害が起これば日本は変わるのだろうか……」と問いかけました。
我々日本人は日本語と英語の両言語を良く学び、思考における時制の大切さを十分に理解する必要がありますね。英語にある時制 (tense) を使った考え方を会得すれば、我々は自己の意思 (will) を明らかにすることも可能になるし、自分自身の世界観 (world view) を持つことも出来ます。さすれば我々は国際社会において相手の理解も得られ、未来社会の建設に協力することも可能になります。かくして、我々日本人は、人類の進歩に一層の貢献が可能になるでしょう。
>イギリスの有力経済新聞「The Financial Times(フィナンシャルタイムズ)」東京支局長だったデイヴィッド・ピリング氏は、著書『日本-喪失と再起の物語 黒船、敗戦、そして3・11』(上下巻、ハヤカワ文庫、2017年)で、国会事故調の問題意識をしっかりとくみ取ってくれました。
>ピリング氏はこの本の中で、「原発事故により古い日本の悪い体質が一瞬のうちに世界中にバレてしまった」と述べています。
>日本は先進国で、経済的にも豊かな民主国家だと思われていましたが、本質は違っていて、例えば何事も「お上頼み」であったということなどが、世界の白日のもとにさらされてしまったのです。
日本は序列制の国ですからね。上意下達ですね。日本人には意思がないから上意の ‘意’ は意思の意ではなくて恣意 (私意・我儘・身勝手) の意になりますね。これは極めて危険な国である徴候ですね。
>原発事故は「人災」である
>このような考察はもっぱら海外からばかりで、日本のジャーナリストや報道関係者は、身近に膨大な情報があるにもかかわらず、政府や当局者が都合よく発表したものをただまとめるだけです。
イザヤ・ベンダサンは、自著 <日本人とユダヤ人> の中で ‘自らの立場’ について以下のように述べています。
何処の国の新聞でも、一つの立場がある。立場があるというのは公正な報道をしないということではない。そうではなくて、ある一つの事態を眺めかつ報道している自分の位置を明確にしている、ということである。 読者は、報道された内容と報道者の位置の双方を知って、書かれた記事に各々の判断を下す、ということである。 ・・・・日本の新聞も、自らの立場となると、不偏不党とか公正とかいうだけで、対象を見ている自分の位置を一向に明確に打ち出さない。これは非常に奇妙に見える。 物を見て報道している以上、見ている自分の位置というものが絶対にあるし、第一、その立場が明確でない新聞などが出せるはずもなければ読まれるはずもない。・・・・・ (引用終り)
>国会事故調報告書の中で、私たちが「人災」であると断言したことに対し、当初、国内からは批判もありました。
日本人には意思がなく、アニマルと同様に人間が自然の中に溶け込んでいるので人災と天災の区別が難しいですね。
>しかし、国際社会の動向を見ると、日本の原発事故と国会事故調の報告書を通し、その国の「文化」が原発の安全性に深く関わることを、世界は知ることができたはずです。
そうですね。日本人には戦争も自然災害のように見えている。
>福島第一原子力発電所事故は、直接的な原因としては、地震、津波、安全神話の盲信、原子力をめぐる産官学の癒着と閉鎖性などがあげられます。
>ただし、根本的な原因は「規制の虜」となった日本という国家の上層部が失敗から学ぶことをせず、国民のために改善策について議論を戦わせるという文化がなかったということにあるのです。
そうですね。わが国で英米流の高等教育が成り立たないのと同じ原因ですね。
>国を衰退させる日本型エリート
私が国会事故調の調査の中で痛感したのは、原発事故の当事者であるこの国のエリートたちの無責任さでした。
そうですね。意思の無い人間には責任がない。
>例えば、電気事業連合会元会長で事故当時は東京電力会長だった勝俣恒久氏は、聴取の間、「安全に配慮してきたつもり」といった具合に、「~だったつもり」という発言を6回も繰り返しました。
賢い人は「純粋によく観察する」が、そうでない人は「自分の期待したもの」しか見ようとしない。
>また、「それは社長の仕事でした」などと、当時の清水正孝社長に責任を転嫁するような発言が10回を数えるなど、こちらの追及に対して正面から答えようとはせず、ひたすら逃げるばかりでした。
>東京電力を監督し規制する立場だった政府機関のエリートもひどいものでした。
>原子力安全委員会事務局長と原子力安全・保安院長を歴任し、原子力規制の専門家であった広瀬研吉氏は、事故当時、対応の拠点だった「オフサイトセンター」から原子力安全・保安院の職員が退避してしまった事実について国会事故調委員の野村修也氏が尋ねたところ、「よく承知をしていない」とはぐらかす始末でした。
広瀬氏は原因の究明に熱意がありませんね。
>あきれた野村委員が追及しても、彼は意味の通らない答えを繰り返してやり過ごそうとするばかり。
>彼らに限らず、聴取された関係者たちは一事が万事、この調子でした。
関係者たちはつかみどころのない人間ばかりでしたね。
>普段は威張っているのに…
>政府、官僚、東京電力、産業界、学会の責任者たちはいずれも日本では「エリート」と呼ばれる人たちです。
>しかし、彼らは一様に志が低く、責任感がありません。
>自分たちの問題であるにもかかわらず他人事のように振る舞い、普段は威張っているのに、いざ事が起きるとわが身かわいさから「私は知らない、記憶にない、聞いていない、関与していない」と一目散に逃げ出しました。
>取り巻きはそんなエリートたちの情けない姿を見てなお、彼らに忖度し続けています。
>福島第一原子力発電所事故で私たちがまざまざと見せつけられたのは、そんな日本の現実でした。
そうですね。敗戦とかメルトダウンとかいったような大きな事故があると民族性に起因する人間の質が顕著になりますね。
>日本人は全体としては優れているのですが、大局観を持ち、「身命を賭しても」という覚悟の感じられる真のエリートがいません。
日本人には世界観が無いので、現実を自己の’あるべき世界’ (非現実) と比較した時の結論が想定外になっています。だから自己主張もありません。つかみどころのない人間になっています。
>これは国民にとって大変不幸なことです。
>国会事故調での聴取を通じて、私は原発のみならず、日本の中枢そのものが「メルトダウン」していると痛感しました。
そうですね。一事が万事ですね。
>大企業や官僚たちの不祥事も根っこは同じ
>これは何も、福島第一原子力発電所事故の関係者に限った話ではありません。
>政治、行政、金融機関、大企業、大学、どこにいるエリートも同様です。
>読者のみなさんもさんざん目にしてきたことと思いますが、その後もたびたび起こる大企業や官僚たちの不祥事、その原因の根っこは同じところにあります。
そうですね。その根っこは日本語メンタリティにありますね。
>大半の日本人は、10代の終わりに受験勉強をしてできるだけ偏差値の高い大学に入り、その後、大学卒業と同時に「新卒一括採用」でいったん役所や企業に属したら、そのグループからほぼ動かずにキャリアを積み上げることが当たり前だと考えています。
>そうしたタテ社会から生まれるのは、年功序列や終身雇用といった単線路線を歩む日本型エリートたちです。
>日本の社会にはそんな「単線路線のエリート」が多く、彼らが日本のあらゆる組織において「リーダー」になっているのが問題なのです。
そうですね。それは序列社会から派生する問題ですね。
>経済産業省に入省した東大卒業生は、省内もしくは外局組織に所属しながら、いずれは経産省に戻り、入省年次によって昇進していくことでしょう。
>近年は省庁間の人事交流も多少はあるようですが、「本籍」は変わりません。
>すると、どういうことが起きるか。
>原発推進という経済産業省のつくる「国策」に反対するような発言はしなくなりますし、自分の意見など持たなくなります。
>そうして、正しいチェック機能が働かず、日本の原発は安全対策が不十分なまま3・11を迎えてしまいました。
>日本社会で出世するのは世界の二流、三流の人材
>企業も同様です。
>異業種への転職はあり得ますが、例えば、みずほ銀行から三菱UFJ銀行に転職する、あるいは東芝から日立製作所に移るなど、同業間での転職はほとんどありません。
>そのような国がOECD(経済協力開発機構)に加盟する先進国に存在するでしょうか。
>なぜ、日本はそうなのか、読者のみなさんもぜひ考えてみてください。
そうですね。考えてみましょうね。
日本語には階称 (言葉遣い: hierarchy) というものがある。だから日本語を発想する場合には、‘上と見るか・下と見るか’ の世俗的な判断が欠かせない。上下判断 (序列判断) には、通常、勝負の成績が用いられる。近年では偏差値なども都合の良い資料として利用されている。だから難関出身者たちが社会で幅を利かせている。わが国が学歴社会であるというのも、実は序列社会の言い換えに過ぎない。だから、わが国の学歴社会は学問の発展には何ら貢献していないことを知っている必要がある。
日本人の礼儀作法も、序列作法に基づいている。だから、序列社会の外に出たら序列なきところに礼儀なしになる。礼儀正しい日本人になる為には、世俗的な序列順位を心得ている必要がある。'人を見損なってはいけない' という想いが強迫観念の域に達していて、人々は堅ぐるしい日常生活を送っている。こうした観念は天皇制・家元制度・やくざの一家の構造にまでつながっている。
日本人は序列の存在を知れば、それが一も二も無く貴いものであると信ずる共通の序列メンタリティを有している。その程度は序列信仰の域に達している。日本人の尊敬は、序列社会の序列順位の単なる表現に過ぎないため、個人的精神的には意味がない。下々の衆は上々の衆の祟り (仕返し) を恐れて神妙にしている。上々が無哲学・能天気である事については、下々にとって何ら気になることではない。だから、日本人の尊敬には浅薄さが付きまとう。
日本人の政治家にも、政治哲学がない人が多い。だから、我々の未来社会の有様を相手に言って聞かせる術がない。それは非現実 (考え) の内容を盛り込むための構文が日本語に存在しないからである。序列人間は人間の序列を作っていて、上位の者 (先輩) と下位の者 (後輩) の間に自分を差し挟むことにより自分たちの存在を確認し合っている。だから、自己の所属する序列に並々ならぬ帰属意識を持っていて義理 (序列関係から生じる義務) を果たすことに懸命になる。そして、この種の仕事にやりがいを感じている。無哲学と序列メンタリティの相乗作用により派閥政治は無くならない。周囲の序列仲間が自分たちの序列に対する貢献度を評価する。これにより自己の順位は上昇する可能性がある。それが日本人の人生における楽しみである。だが正一位の獲得は難しい。
>大学の世界も同様で、広い世界を知らない「四行教授」が、弟子たちから「先生、先生」と呼ばれて幅を利かせています。
>日本では、多くの組織がこのような状態に置かれています。
>単線路線において出世するには、前例を踏襲して組織の利益を守るに限ります。
>また、「おかしいな」と感じても、異論を唱えれば組織内で干されたり左遷されたりするので、黙るようになります。
>言うべきことは言わず、言われたことしかやらないようにする。
>上司の顔色をうかがい「忖度」をする。
>そんな人たちが偉くなっていく――つまり、日本社会で出世するのは世界の二流、三流の人材ということになります。
そうですね。彼らは没個性ですからね。
>---------- 黒川 清(くろかわ・きよし) 東京大学名誉教授 1936年、東京都に生まれる。
>1962年、東京大学医学部卒業後、同大学院医学研究科修了(医学博士)。
>東京大学医学部附属病院などでの勤務を経て1969年、渡米。
>ペンシルベニア大学医学部生化学助手などを経て、1979年、UCLA(カリフォルニア大学ロサンゼルス校)医学部内科教授に就く。
>1983年に帰国し、東京大学医学部第一内科教授(1989年)、東海大学教授・医学部長(1996年)、総合医学研究所長(2002年)などを歴任。
>著書に『世界級キャリアのつくり方20代、30代からの〈国際派〉プロフェッショナルのすすめ』(石倉洋子氏との共著、東洋経済新報社、2006年)、『大学病院革命』(日経BP社、2007年)、『イノベーション思考法』(PHP新書、2008年)、『規制の虜 グループシンクが日本を滅ぼす』(講談社、2016年)などがある。
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