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ゆがんだ自意識  

2025-01-11 11:58:00 | 文化

>現代ビジネス      >日本は「神の国」なのか…日本人が誇る「万世一系」という「ゆがんだ自意識」の正体   >辻田真佐憲 (文筆家・近現代史研究者) の意見・   >10時間・   

>神武天皇、教育勅語、万世一系、八紘一宇……。   

>私たち日本人は、「戦前の日本」を知る上で重要なこれらの言葉を、どこまで理解できているでしょうか?   

>右派は「美しい国」だと誇り、左派は「暗黒の時代」として恐れる。   

>さまざまな見方がされる「戦前日本」の本当の姿を理解することは、日本人に必須の教養と言えます。   

>歴史研究者・辻田真佐憲氏が、「戦前とは何だったのか?」をわかりやすく解説します。   

>※本記事は辻田真佐憲『「戦前」の正体』(講談社現代新書、2023年)から抜粋・編集したものです。   

>日本は「世界一徳の高い国」?   

>大日本は神国なり。   

>南北朝時代の公家、北畠親房(きたばたけちかふさ)は『神皇正統記(じんのうしょ うとうき)』をこのように書き起こし、その理由を続けた。   

>天祖(あまつみおや)はじめて基(もとい)をひらき、日神(ひのかみ)ながく統を伝へ給ふ。   

>我国のみ此事あり。   

>異朝には其たぐひなし。   

>此故に神国といふなり。   

>日本は、アマテラス(天照大神、日神)の直系である神武天皇の子孫によってずっと統治されている。   

>他国では途中で王朝が断絶しているため、そのような例はない。   

>それゆえに、日本は神の国である。    

>天皇が神の子孫だからという単純な論理ではない。   

>これは、中国の思想を学び、内面化したことで、ついにみずからは中国よりも優れていると結論づけた、歪んだ自意識だった。   

>中国には、易姓革命という考え方がある。   

>中国の王朝は、天命を受けた家系によって統治される。   

>ただ、無道な君主があらわれて民を苦しめると、天命は別の家系に移る。   

>すると、現王朝が終わりを迎えて、新王朝が開かれる。   

>すなわち、天「命」が「革あらた」まり、君主一族の「姓」が「易(か)」わる。   

>つぎつぎに起こる王朝交代を理論付け、新王朝の支配を正当化するロジックだった(天命があらたまらないうちは、臣下は現王朝を支えなければならない)。   

>日本人はこの論理を学び、ふと気づいた。   

>ならば、一度たりとも王朝が変わっていない日本はどうなのか。   

>天皇家は、善政を敷きつづけた高徳の家系であり、天皇家をいただく日本は、世界一の高徳の国ではないか──。   

 

島国には異民族の侵入が難しいですからね。世界最強の蒙古も侵入に失敗した。   

 

>「万世一系」と「神の国」   

>このような考えはけっして、日本人の独りよがりでもなかった。   

>宋の太宗は、日本人の学僧■然(ちょうねん)に面会したおり、日本について「島夷」にすぎないのに「古の道」を実践していると嘆息したと『宋史』に記されている。   

>また、中国の代表的な古典『孟子』は、易姓革命を肯定するがゆえに、日本に運ぼうとするとかならず船が難破するともいわれた。   

>上田秋成の『雨月物語』の記述が有名だが、元ネタは明末の随筆『五雑組(ござっそ)』である。   

>ひとつの家系が絶えずに永遠につづく──すなわち、万世一系。   

 

つまり序列の老舗ですね。   

 

>ここに大きな意味を見出したのが幕末の後期水戸学であり、これを引き継いだ明治の教育勅語であり、昭和の『国体の本義』であった。   

>現在でも、右派が男系男子にこだわり、選択的夫婦別姓に反対する理由もここに関わっている。   

 

日本語文法には階称 (hierarchy) があるから、日本人は人間序列に拘りますね。   

 

(略)   

日本語の文法には階称 (言葉遣い: hierarchy) というものがある。だから日本語を発想する場合には、‘上と見るか・下と見るか’ の世俗的な判断が欠かせない。上下判断 (序列判断) には、通常、勝負の成績が用いられる。近年では偏差値なども都合の良い資料として利用されている。だから難関出身者たちが社会で幅を利かせている。わが国が学歴社会であるというのも、実は序列社会の言い換えに過ぎない。だから、わが国の学歴社会は学問の発展には何ら貢献していないことを知っている必要がある。 順位の比較は没個性的でなくてはならない。だから、序列競争の励みは個性の育成にはならない。     

 

日本人の礼儀作法も、序列作法に基づいている。だから、序列社会の外に出たら序列なきところに礼儀なしになる。礼儀正しい日本人になる為には、世俗的な序列順位を心得ている必要がある。'人を見損なってはいけない' という想いが強迫観念の域に達していて、人々は堅ぐるしい日常生活を送っている。ため口を禁じられているので、相手と対等な立場でものをいう事ができない。人間が真に平等であるという実感を体験したことがない。こうした観念は天皇制・家元制度・やくざの一家の構造にまでつながっている。   

 

日本人は序列の存在を知れば、それが一も二も無く貴いものであると信ずる共通の序列メンタリティを有している。その程度は序列信仰の域に達している。日本人の尊敬は、序列社会の序列順位の単なる表現に過ぎないため、個人的精神的には意味がない。下々の衆は上々の衆の祟り (仕返し) を恐れて神妙にしている。上々が無哲学・能天気である事については、下々にとって何ら気になることではない。だから、日本人の尊敬と序列作法には浅薄さが付きまとう。   

 

日本人の政治家にも、政治哲学がない人が多い。だから、我々の未来社会の有様を相手に言って聞かせる術がない。それは非現実 (考え) の内容を盛り込むための構文が日本語に存在しないからである。序列人間は人間の序列を作っていて、上位の者 (先輩) と下位の者 (後輩) の間に自分を差し挟むことにより自分たちの存在をウチソト意識として確認し合っている。だから、自己の所属する序列に並々ならぬ帰属意識を持っていて義理 (序列関係から生じる義務) を果たすことに懸命になる。そして、定刻通りに帰宅しないなど義理の仕事にやりがいを感じている。無哲学と序列メンタリティの相乗作用により派閥政治は無くならない。周囲の序列仲間が自分たちの序列に対する貢献度を評価する。これにより自己の順位は上昇する可能性がある。それが日本人の人生における楽しみである。だが叙勲の獲得は難しい。    

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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