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宗教と科学

2020-01-20 10:10:40 | 社会
>348200 宗教と科学は唯一絶対の不変真理という思考で貫かれている  >匿名希望SY    19/08/04 AM02 【印刷用へ】  >宗教と科学は、地動説か天動説かのように対比的に語られることが多い。

そうですね。

>宗教裁判にかけられたガリレオにしろ、火あぶりになったブルーノにしろ、万物の創造者であり世界の中心である神(聖書)に対し科学の立場で異を唱えたのが科学者だ、と対立的な構図で捉えられがちだ。>しかし、ニュートンもガリレオもコペルニクスもギリシャ哲学のピタゴラスも、西洋の科学者は全て崇敬なキリスト教信者であり、彼らは神の創造したものを解読することが科学だという視点で一致している。>神の言葉、創造物を否定する意識は全くなく、むしろ神の存在を所与のものとしその啓示に迫ることが彼らの科学だ。

そうですね。

>ガリレオは数学を「神の創造物を解読するための第二の聖書」と言っており、神の創造物だからこそ、美しいものであり単純であり明快なものである、という思考のベクトルが前提の認識として働いている。(=オッカムの剃刀)[Occam’s razor: ある事柄を説明するためには、必要以上に多くを仮定するべきでない、とする指針。] 

美しく単純明快が良いですね。

>万物の対象は複雑に関係し常に変化しながら調和しているが、そのような変化を一切受け入れない唯一絶対の不変真理とするスタンスが数学の世界だ。

そうですね。考えは哲学になる。宗教に関する考えは宗教哲学になる。科学に関する考えは科学哲学になる。歴史は歴史哲学に、政治は政治哲学に、人生は人生哲学に、などなど。各人に哲学は必要である。Everyone needs a philosophy.  だから、英米流の高等教育が必要である。
 'どのような状況にも普遍的に通用する真理や法則、基本概念や倫理がありうるという考え方が、日本にはほとんど存在しない。'  (カレル・ヴァン・ウォルフレン) 
‘周りの影響を受けずに、真に独立した考えができる知識人がいない。’ ( グレゴリー・クラーク) 
‘(略) しかしいったん、大学に入れば、控えめに表現しても、成績と出席の基準はたるんでいる。大学を含め、日本の子供たちが習うものごとの中核は、主として十八歳までに吸収される。’ (フランク・ギブニー) 

>それは、とりもなおさず、現実を対象化せず非現実の世界を言葉化した神=旧約聖書を絶対不変の真理とする排他的思考と全く変わりはないのである。

現実の内容は、頭の外にある。それは見ることができる。見ればわかる。だから、考える必要がない。楽ちんである。
非現実 (考え) の内容は、頭の中にある。それは見ることができない。ただの話である。考えの内容を理解するには、文法に従って文章内容を理解しなければならない。これは、骨の折れる仕事である。
全ての考えは文章になる。文章にならないものは考えではない。考えの内容は、人様々である。だから、正解は唯一ではない。幾らでもある。矛盾を含んでいない文章は、すべて正しい考えを示している。
矛盾を含んでいる文章も、その矛盾を取り除けば正しい考えになる。矛盾を取り除くためには、対話・議論が役に立つ。だから、これらの手段を大いに活用しよう。

> 現代の科学はそのドグマから抜け出せず思考を停止しているが、実は近代科学は最初から進化ではなく滅亡のベクトルを刻印されているとも言える。

非現実 (考え) の内容は、時制 (tense) のある文章内容になる。時制のある文章内容は、それぞれに独立した非現実の三世界 (過去・現在・未来) を表すようにできている。だから、英米人には世界観がある。
日本語の文法には時制というものがない。だから、日本人の考えは非現実を内容とする文章にはならない。これは、即ち思考停止しているということになる。全ての考えは文章になる。文章にならないものは考えではない。
日本人には意思がない。意思は未来時制の文章内容として表現される。日本語には時制がない。だから、日本人には意思がない。意思のあるところに方法 (仕方) がある。日本人は仕方がないので、無為無策でいる。他から言われた通りにする。
 <日本はなぜ敗れるのか・敗因21か条> を著した山本七平の指摘する事例からも、大和民族自滅の過程は見て取れる。その一例を以下に掲げる。
私が戦った相手、アメリカ軍は、常に方法を変えてきた。あの手がだめならこれ、この手がだめならあれ、と。 、、、、、あれが日本軍なら、五十万をおくってだめなら百万を送り、百万を送ってだめなら二百万をおくる。そして極限まで来て自滅するとき「やるだけのことはやった、思い残すことはない」と言うのであろう。 、、、、、 これらの言葉の中には「あらゆる方法を探求し、可能な方法論のすべてを試みた」という意味はない。ただある一方法を一方向に、極限まで繰り返し、その繰り返しのための損害の量と、その損害を克服するため投じつづけた量と、それを投ずるために払った犠牲に自己満足し、それで力を出しきったとして自己を正当化しているということだけであろう。(引用終り)


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