(略)
> ちょっと話は広がるけれど、西洋文明とは「個の自分」を確立する歴史だったのではないかと、僕はかねがね思っている。
そうですね。
>だから、自分の意見をはっきり主張することが求められる。>「個の自分」を確立しようとすれば、これが基本姿勢であり、なおかつとても重要なポイントなのだ。
そうですね。考えは個人個人で違いますから、はっきり主張する価値がありますね。
> 日本人は「はっきりものを言わない」「何を考えてるのか、わからない」と昔からよく言われる。
日本人は、無哲学・脳天気ですからね。考えの内容がない。だから、ハッキリとものが言えない。つかみどころのない人間です。
>それは日本が内面を「察する文化」だからだろうと僕は思うが、まぁ“言わぬが花”という姿勢は、西洋人には理解しにくい価値観かもしれない。
そうですね。‘察する’ は ‘忖度 (推察) する’ ということでしょうね。言えば ‘無哲学・能天気’ の実態がバレますから、’言わぬが花’ ですね。奥ゆかしいですね。
> これには宗教観も大きく影響している。>ユダヤ教もキリスト教もイスラム教も、旧約聖書を経典とする一神教である。
ただ一人の神の意思が働きますね。
>その神とは、人知を超えた絶対的な存在であり、間違っても人間ではない。
頭の中の神は、どんなにでも絶対化できますね。
>ということは、崇拝する対象は自分の外側にあるのだ。
自分の外側にいる神は、頭の内側に存在します。
> それに対して東洋の宗教はというと、たとえば日本の神道は森羅万象に神が宿ると考える。>だから身近にいろいろな神様がいる。
八百万の神々ですね。内外の区別がありませんね。頭の外側に存在しますね。
>中国の道教もインドのヒンドゥー教も多神教である。>仏教は多神教とは言いがたい面もあるけれど、仏教における神、つまり仏は少なくとも世界の創造者でもなければ、支配者でもない。>僕は、これら東洋の神々は人間の内側に存在するのだと思う。
現実の内容は、頭の外にある。それは見ることができる。見ればわかる。だから、考える必要がない。楽ちんである。
非現実 (考え) の内容は、頭の中にある。それは見ることができない。ただの話である。全ての考えは文章になる。文章にならないものは考えではない。
話の内容を納得する為には、文法に従って文章を理解しなければならない。これは骨の折れる仕事である。だから、日本人は通常 ‘理解’ をしない。その代わりに忖度 (推察) をする。
忖度と理解は似て非なるものであるから、要注意である。忖度は聞き手の勝手な解釈であるから現実直視になっていない。だから、話し手には何の責任もない。話の内容に食い違いがあっても議論にならない。捨てておかれる。
現実直視になっていないことを忖度の主に指摘すると、’だって、私は本当にそう思っていたのだから仕方がないではないか’ と、猛反発を受ける。だから、話にならない。忖度は、歌詠みのようなものである。
偶像崇拝される神は、頭の外にある。偶像崇拝を禁じられた神は、頭の中にある。
> このような宗教観もあいまって、東洋では「個の自分」を確立しようとはしてこなかった。
古代ギリシャの神々のようなものですね。
>ところが日本は、戦後、アメリカをはじめとする西洋の文化を取り入れるにつれて、いつしか彼らの追い求める「個の自分」も手に入れようとした。
個人主義は大切ですね。個性尊重でしょう。
>個人主義、個人情報といった個の権利主張のみならず、電話もテレビもエアコンも、時代はパーソナルに向かっている。
趣味・興味は個人個人違っていますからね。個人の自由が広がったということでしょう。
> もちろんそれらの全部が悪いとは言わない。
>でも、「個の自分」を確立しようとすればするほど、自然からはどんどん遠ざかっているようにしか僕には思えない。
そうですね。人間もアニマルと共に自然の中に溶け込むことができなくなりますね。
>人間も自然の一部だとすれば、それはやはり“不自然”なことではないだろうか。
人間が自然の一部になっていると、人間の言動に関して本人の責任を追及することはできませんね。自然災害を自然の責任としたところで災害の解決には至りませんね。
不自然であれば、我々は個人の責任を追及できます。個人の言動を正す可能性が出てきます。我々は、この道を歩まなくてはならないでしょう。
(略)
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