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戦前の日本  

2025-01-15 18:29:00 | 文化

>現代ビジネス   >「天皇のありがたみを体に叩き込め!」…日本人が意外と知らない「戦前日本」の「厳しすぎる小学校教育」   >辻田真佐憲 (文筆家・近現代史研究者) の意見・   >14時間・   

>神武天皇、教育勅語、万世一系、八紘一宇……。   

>私たち日本人は、「戦前の日本」を知る上で重要なこれらの言葉を、どこまで理解できているでしょうか?   

>右派は「美しい国」だと誇り、左派は「暗黒の時代」として恐れる。   

 

序列メンタリィティにとことん拘る所は右翼も左翼も同じですね。日本語文法の祟りですね。   

 

>さまざまな見方がされる「戦前日本」の本当の姿を理解することは、日本人に必須の教養と言えます。   

>歴史研究者・辻田真佐憲氏が、「戦前とは何だったのか?」をわかりやすく解説します。   

>※本記事は辻田真佐憲『「戦前」の正体』(講談社現代新書、2023年)から抜粋・編集したものです。   

>「創られた伝統」と「国民教化」   

>このような祝祭日の名称をみると、いかにも古めかしく、由緒正しいように思える。   

>ところが、古くより同じ名称で曲がりなりにも続いてきたのは、伊勢神宮に新穀をまつる神嘗祭と、神々に新穀をまつる新嘗祭ぐらい。   

>あとは明治になって創作されたか、仏教色を排除するなど、大幅にアレンジされたものだった。   

>もちろん、それまで重んぜられていなかった神武天皇の崩御日とされる神武天皇祭も、近代の創作だった。   

>まさに「創られた伝統」(イギリスの歴史家エリック・ホブズボームのことば)だったのである。   

 

明治の日本人は伝統が欲しかったのでしょうね。   

 

>そのため、このような耳慣れない記念日をひとびとに定着させるために、義務教育をになう尋常小学校で、新年節、紀元節、天長節の3大節に職員と児童を集めて儀式を執り行うことになった(はじめは祭日にも集まることになっていたが、あまりに多すぎてありがたみに欠けるので3大節に限定された)。   

>その式次第は、1891(明治24)年制定の小学校祝日大祭日儀式規程をへて、1900(明治33)年制定の小学校令施行規則でほぼ完成した。   

>後者の概略はつぎのとおりだった。   

>(1)職員と児童、「君が代」を合唱   

>(2)職員と児童、御真影に最敬礼   

>(3)学校長、教育勅語を奉読   

>(4)学校長、訓話   

>(5)職員と児童、唱歌を合唱   

>天皇のありがたさを体に叩き込む。   

>そのため、児童たちはみな90度に頭を下げて、校長が恭しく読み上げる教育勅語を聞かなければならなかった。   

>そこでうたわれる唱歌もけっして娯楽ではなく、国民教化の手段だった。   

>どの日にどの歌をうたうのかもきっちり定められていた。   

 

序列制度は天皇制を利用する。その制度を維持するのは皇民化教育ですね。   

 

>森友学園が「コスプレ」だった理由   

>一例として、紀元節にうたわれた「紀元節」(高崎正風作詞、伊沢修二作曲)をあげてみよう。   

>雲に聳(そび)ゆる高千穂の 高根おろしに草も木も   

>なびきふしけん大御世を 仰ぐ今日こそたのしけれ   

>海原なせる埴安(はにやす)の 池のおもより猶(なお)ひろき   

>めぐみの波に浴(あ)みし世を あふぐけふこそたのしけれ   

>天つひつぎの高みくら 千代よろづよに動きなき   

>もとゐ定めしそのかみを 仰ぐけふこそたのしけれ   

>空にかゞやく日のもとの 万の国にたぐひなき   

>国のみはしらたてし世を あふぐけふこそたのしけれ   

1番から4番までは、それぞれ「武徳の頌(しょう)」「仁徳の頌」「皇基の頌」「国体の頌」に対応する。 [ (しょう:君主の美徳・成功をほめる詩) ]  

>よくいえば厳かだが、悪くいえば堅苦しい。   

 

そうですね。日本語文法に基づく序列メンタリィティのせいでしょうね。今でも日本人は堅苦しい生活をしていますね。    

 

>とはいえ、校長の一存でこれを差し替えることは絶対に許されていなかった。   

>それが戦前というものだったのである。    

 

刺換え禁止の指示は、日本人の思考停止の現実と表裏一体をなしていますね。   

 

2017(平成29)年、森友学園運営の幼稚園で行われていた教育が大きく問題になった。   

>園児に軍歌をうたわせ、教育勅語を暗唱させる。   

 

園児に受け売りと後追いの練習をさせていたのですね。他に練習することが無いですからね。      

 

>それが右派から愛国教育と讃えられ、左派から戦前回帰にあたると批判されたのだ。   

 

序列メンタリィティに対する日本人の両面価値 (ambivalence) ですね。   

 

>だが、両者ともあまりに戦前を知らなすぎたのではないか。   

>戦前の式次第はさきのように厳格に定められていたのであり、教育勅語はガヤガヤとみんなで唱えるものではなかったし、「愛国行進曲」や「日の丸行進曲」などの軍歌がかならずしもうたわれるわけではなかった。   

 

日本人は思考を停止している。上意下達で問答無用の生活をしていますね。無哲学・能天気では議論にならないですね。      

 

>森友学園の教育はその実、戦前の二次創作であり、たんなるコスプレにすぎなかった。   

 

懐古趣味ですかね。日本の文化は形式があって内容が無い。それだけに形式に対してこだわりは強い。         

 

>戦前を語るまえに戦前を知るべきだというのは、こういう理由である。   

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日本語の文法には階称 (言葉遣い: hierarchy) というものがある。だから日本語を発想する場合には、‘上と見るか・下と見るか’ の世俗的な判断が欠かせない。上下判断 (序列判断) には、通常、勝負の成績が用いられる。近年では偏差値なども都合の良い資料として利用されている。だから難関出身者たちが社会で幅を利かせている。わが国が学歴社会であるというのも、実は序列社会の言い換えに過ぎない。だから、わが国の学歴社会は学問の発展には何ら貢献していないことを知っている必要がある。 順位の比較は没個性的でなくてはならない。だから、序列競争の励みは個性の育成にはならない。     

 

日本人の礼儀作法も、序列作法に基づいている。だから、序列社会の外に出たら序列なきところに礼儀なしになる。礼儀正しい日本人になる為には、世俗的な序列順位を心得ている必要がある。'人を見損なってはいけない' という想いが強迫観念の域に達していて、人々は堅ぐるしい日常生活を送っている。ため口を禁じられているので、相手と対等な立場でものをいう事ができない。人間が真に平等であるという実感を体験したことがない。こうした観念は天皇制・家元制度・やくざの一家の構造にまでつながっている。   

 

日本人は序列の存在を知れば、それが一も二も無く貴いものであると信ずる共通の序列メンタリティを有している。その程度は序列信仰の域に達している。日本人の尊敬は、序列社会の序列順位の単なる表現に過ぎないため、個人的精神的には意味がない。下々の衆は上々の衆の祟り (仕返し) を恐れて神妙にしている。上々が無哲学・能天気である事については、下々にとって何ら気になることではない。だから、日本人の尊敬と序列作法には浅薄さが付きまとう。   

 

日本人の政治家にも、政治哲学がない人が多い。だから、我々の未来社会の有様を相手に言って聞かせる術がない。それは非現実 (考え) の内容を盛り込むための構文が日本語に存在しないからである。序列人間は人間の序列を作っていて、上位の者 (先輩) と下位の者 (後輩) の間に自分を差し挟むことにより自分たちの存在をウチソト意識として確認し合っている。だから、自己の所属する序列に並々ならぬ帰属意識を持っていて義理 (序列関係から生じる義務) を果たすことに懸命になる。そして、定刻通りに帰宅しないなど義理の仕事にやりがいを感じている。無哲学と序列メンタリティの相乗作用により派閥政治は無くならない。周囲の序列仲間が自分たちの序列に対する貢献度を評価する。これにより自己の順位は上昇する可能性がある。それが日本人の人生における楽しみである。だが叙勲の獲得は難しい。    

 

我々日本人は日本語と英語の両言語を良く学び、思考における時制の大切さを十分に理解する必要がありますね。英文法にある時制 (tense) を使った考え方を会得すれば、我々は自己の意思 (will) を明らかにすることも可能になるし、自分自身の世界観 (world view) を持つことも出来ます。さすれば我々は国際社会において相手の理解も得られ、未来社会の建設に協力することも可能になります。かくして、我々日本人は、人類の進歩に一層の貢献が可能になるでしょう。世界の指導者になれるでしょう。       

 

『有能な人材が世界から日本に集まり、ここで世界に向けてサクセスストーリーが生まれるという国家を目指すべきです。 このための具体的な政策課題として (1)英語を第2公用語にする (2)定住外国人に地方参政権を与える (3)インターネットの接続料はじめ知的生産活動の基本コストを諸外国並みにする (4)日本の制度やシステムの中で国際基準と合致しないものを一括して見直す―の4点を提案したいと思います。』 (茂木敏充外務大臣)   

 

 我が国の ‘漢字かな’ は世界中何処の国に行っても通用しない。特にローマ字 (alphabet) の代わりに仮名を使用することには害毒がある。仮名漢字表記による学習で自分は世界に通じていると思い込む。だが、これは事実ではない。勝手な解釈により世界に関する独りよがりの解釈は避けられない。私は宿泊先のアメリカ人の名前は知っている。しかし、その綴り方は分からない。つづり字を考えることのない日本人の記憶方法だからである。このような文盲に近い体験の仕方では外国人との文通もできない。地図を見て探すことも難しい。かな書き英語が我が国民の国際化を果てしなく遠ざけているということができる。  

 

国語の勉強は読み書きの練習である。ところが、日本語の仮名漢字表記は難しい。特に漢字の字形と音訓の習得に月日を費やし、目的の勉学の成果が遅れている。私の知人に '〇〇健' という名前の人がいる。彼は周りの人から 'タケちゃん' とか、'ケンちゃん' とか呼ばれている。'一体どちらが本当なのか' と私が尋ねると、彼は 'どちらでも良いのですよ' と答える。'でも、戸籍ではどうなっているのか' と尋ねると、'戸籍にはフリガナがありませんから、どう読んでも良いのですよ' という答えであった。これを '日本人の自由' というのであろうか。'あるべき姿' の追及がない。

「「権威主義」が悪の源でもなく、「民主主義」が混乱を生むものでもなく、それよりも、もっと根底にある日本人の習性である、「人」には従ったり(人を従えたり)、影響され(影響を与え)ても、「ルール」を設定したり、それに従う、という伝統がない社会であるということが、最も大きなガンになっているようである」 (中根千絵)    

 

日本人は氏名を正しく (?) 読むことができない。だから役所の書類にはフリガナ欄が設けてある。これをローマ字欄に換えるだけでも国語の改革になる。これは国の指導ですぐにでもできる国語改革である。とりわけ漢字圏以外の国から来た外国人には日本語の漢字は難しい。日本語をローマ字表記にすれば彼らもたちどころに日本語を読めるようになる。能率の良い言語の習得には音読が欠かせない。読み書きが自由になると一人前の大人として活躍できる。筆記試験でも真の実力が発揮できる。外国人の能力に関してより公平な評価をする社会が我が国内に実現する。ぜひローマ字表記を法制化してもらいたい。ローマ字表記を仮名漢字表記と対等な地位にしてもらいたい。日本語をローマ字表記と仮名漢字表記の二刀流表記の国にすると良い。         

 '為せば成る 為さねば成らぬ 何事も 成らぬは人の 為さぬなりけり'  上杉鷹山 (うえすぎ ようざん)           

 

 

 

 

 

 



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