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日本人の知的能力を増進するための提案をするブログです。

李登輝氏の言葉

2016-11-12 03:00:41 | 国際・政治


台湾総統、李登輝氏の言葉…

>台湾人は「日本精神(リップンチェンシン)」 という言葉を好んで用いる。
>これは日本統治時代に台湾人が日本人から学んだ、勇気、誠実、勤 勉、奉公、自己犠牲、責任感、清潔といった諸々の美点を指す言葉 である。

そうですね。日本人の徳目でしょうね。
私は、’日本良い国、清い国、世界で一つの神の国’ と小学校で教えられました。

>日本人がこの「日本精神」を失わない限り、日本は世界のリーダー として発展していくことが可能だと私は信じている。

日本人には、哲学が無い。相手に大同の内容を示すことができない。だから、自他ともに小異を捨てる気構えを強調できない。そして、リーダーシップが取れない。国際社会の孤児・傍観者になる。
自己の意思を表明できれば、当事者・関係者になれる。人気が出れば、リーダーになれるかもしれない。

>日本人の智慧やモラル、そして技術など、これほど素晴らしい国はない。

我が国は、細工物の仕上りが良い。それで、我が国は、技術立国となり経済大国になったのですね。

>台湾も、その他の国々も、もっと日本を見習うべきと思っている。

そうですね。世界中の国が日本から我々の長所を学んだらよいでしょう。

>さらに私が感じるのは、日本人の国家や社会に対する態度が少しずつ変わってきたことだ。
>一時期は「自分さえよければいい、国なんか必要ない」という考え 方に傾くのではないかという懸念もあったが、最近はそれが大きく 変わり始めたことを感じる。

同感です。
‘今だけ、金だけ、自分だけ’ の処世術では古すぎますね。

>かつての素晴らしい精神は失われていなかったし、それが改めて高く評価されつつあるのではないだろうか。

目先・手先の内容に精神を集中する修業は、日本独特のものですね。

>ただ、いまの日本の若い人たちが可哀想なのは、「昔の日本は悪い ことをした。アジアを侵略した悪い国だった」と一方的な教育を受けていることである。

そうですね。過ちのない人・過ちのない国は見たことがない。見栄と外聞ばかりを気にして、上辺ばかりを繕うのは良くない。何事にも、正直なのが良い。

>日本は世界各国から批判されてしかるべきだと思い込み、自信を失 っているが、そんなバカなことはない。

正しい批判は、いつの時代にも、必要です。

>昔は昔、いまはいま。どちらも大切である。>昔がなければ現在もない。>そういうところから教育を始めていかなければならない。

同感です。それが教育というものですね。温故知新が大切です。

>日本を批判しているのは中国と韓国だけで、それもまったく身勝手 な、自分たちの都合によるものである。

身勝手な人には、立派な歴史書はかけないでしょうね。発言内容に矛盾のあることを気にしなくてはならない。

>いま、 日本人は一刻も早く戦後の自虐的価値観から解放されなければならない。

そうですね。加害者意識 (罪の意識) のない人は、自虐的価値観から逃れられませんね。
‘電信柱の高いのも、郵便ポストの赤いのも、皆私が悪いのよ’ と、いった調子か。お笑い生活に終止符を打とう。われわれは、もっと真面目になろう。

>そのために日本人はもっと自信を持ち、 かつての武士道という不文律を築き上げてきた民族の血を引いていることを誇るべきである。

私たちは、哲学を持ち、対話法を学び、他人からも信頼される民主主義の世の中に適合しなくてはなりませんね。

>そうして日本人としてのアイデンティティをしっかり持つことで、 初めて日本は国際社会における役割を担うことができると思う。

世界の人と共に、小異 (現実) を捨てて、大同 (非現実) につく方策を考えましょう。さすれば、我々はリーダーシップが取れる。無哲学・能天気ではいられない。



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ぐちゃぐちゃ

2016-11-11 05:49:09 | 教育
>民主主義を運営するには、意見の言える、話し合いのできる個人が必要です。
>そういう、意見の言える個人にたどり着く前に、一人の人間としてのまとまりのところで、私たちはぐちゃぐちゃなのではないでしょうか。

同感です。
私達には、人間教育が必要です。
人間のできた人は、高尚なことを言います。高尚なことの内容は、非現実です。
人間のできていない人は、低俗なことを言います。低俗なことの内容は、現実ばかりです。

‘人は、平等に作られている’ といえば、その内容は非現実であり、高尚です。
‘人間は、万事不平等である’ といえば、その内容は現実であり、低俗です。
低俗な内容は処世術になり、高尚な内容は哲学に成ります。

低俗な内容は一義的に定まり、暗記による学習の対象になります。
高尚な内容は、個人・個人で異なり、思索による学習の対象になります。持論のある人たちの議論を可能にする学習であります。

現実の内容は、実学 (技術) として教育されます。
非現実の内容は、英米流の高等教育機関で学習されます。これは、人間教育であり、教養教育であります。日本の大学では哲学ができないので、四年間、学生は学内で遊ぶことになります。
哲学に失敗すると、考えに一人の人間としてのまとまりがなく、’ああ言いえば、こう言う’ といった人間なります。頭でっかちでつかみどころが無い、ぐちゃぐちゃな人間になります。相手からの信頼も得られません。ぐちゃぐちゃな人間がさらに職業教育を受けても、高度な職業人にはなれませんね。

人間には、世界観が必要です。時制により作られる過去・現在・未来の三世界の文章は、非現実の内容です。現実離れをした内容から、矛盾を排除して正しい思考を得る訓練が必要です。この訓練に成功すれば、教養のある人になれます。哲学博士 (Ph.D.) にもなれます。
訓練に失敗した人の発言は、空想・妄想の類にとどまります。だから、我が国は、漫画・アニメの大国になりました。
現実の内容しか頭の中にない人は、’今だけ、金だけ、自分だけ’ の生活になります。処世術ばかりの生活では、お先真っ暗です。

非現実の内容は、大同になります。だから、現実の小異を捨てる動機を自他ともに与えることになります。
自分自身の大同の内容を示すことにより、相手の理解を得ることになります。各人が小異を捨てる機会を得て大同団結し、民主主義が成果を上げることが可能になります。このようにして、教養のある人は、指導性を発揮することができます。
小異を捨てて、大同につく事により、大勢の人が未来社会の建設に協力関係を築くことが可能になります。
我が国に、明るい未来が訪れます。



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システム構築

2016-11-08 13:18:03 | 文化
>ご存じのように黒澤明の映画ではそれぞれ個性豊かな7人の侍が見事な連係プレーで野武士を撃退するが、これこそシステムの原型ではないか、と思ったのである。まず野武士の襲撃から村を守る、という目的が設定される。仕事を請け負ったリーダ格の勘兵衛は、目的を達成するには最低限7人の侍と農民の武装が必要であると考える。これは一種の設計である。7人の侍をリクルートするプロセスも実に興味深いが、目的達成に必要な要素技術を取り揃えるシステム構築の考え方と似通っている。

同感です。目的達成のためには適材適所の配置が必要ですね。

>7人の侍はつながることによって、一見不可能と思われる目的を達成した。今は時間や空間を超えて「人と人」だけでなく、「ものともの」、「人ともの」の間をつなげることが容易かつ安価になった。つながることによって初めて生み出される新しい価値がどんどん増えてきた。「システム化」はそのような状況を象徴する現代科学技術のキーワードである。私たちの周りにはシステムが無数にあり、私たちはそれらを無意識に使い、またそれらに使われて生活している。

同感です。世の中は過不足なく成り立っている。システム化できれば、能率が良くなる。

>しかしシステムにもいろいろある。うまく作られたシステムは豊富な機能を備えて多くの人々に恩恵を与え、取り扱いや管理も容易で、しかも丈夫で長持ちする。粗雑に作られたシステムは貧弱な機能しかなく使い勝手が悪い。管理にも手がかかり故障が頻発する。システムが複雑になればなるほど、よいシステムと悪いシステムの差がますます顕著になってきている。

同感です。例えば、静岡空港は東京と大阪のほぼ中間点にあり、東海道新幹線の真上にある。しかし、新幹線と空港を結ぶ連絡口が無いので。東京と大阪の乗客は、東海道新幹線を利用して直接空港に到着することはできない。

>いくらよい部品を使っていても、それらをうまくつなげることが出来なければよいシステムにはならない。日本はよい部品を作る技術では追随を許さないが、よいシステムを作る技術は貧弱である。

日本人には世界観がない。だから、グローバルな・ユニバーサルな視点に欠けている。新しい世界を作るための適切な部品調達ができない。部品は依然バラバラなままである。

>携帯電話、手術ロボット、半導体製造装置、医療機器、モーションキャプチュアなど日本が海外のシェアを失ってしまった製品群も、部品だけは日本製が多い。しかし部品の価値が全体の価格に占める割合は急速に減ってきているから、日本の企業の利益は薄くなる一方である。

同感です。これを器用貧乏というのですかな。必要な伝達ができない。だから、’自分さえ良ければ’ となる。

>世の中に悪いシステムが多いのはつなぐことが難しいからである。「七人の侍」ではリーダの勘兵衛には大将の器量があったから個性的な人間同士をつなぐことが出来た。しかしどうやら現実の日本人は昔から、つなぐことが得意でないらしい。そう思う理由をいくつか挙げよう。

大同 (非現実) があれば、小異 (現実) を捨てることも可能である。しかしながら、日本人には大同がない。非現実の内容は、嘘と考えられている。だから、個性的な人間同士をつなぐことができない。

>日本人は職人が好きである。「匠の技」に日本人は弱い。かつて農民は「水呑み百姓」と蔑まれたが、職人にはそのような蔑称はない。つながることには目もくれず自分の技だけで生きる一本気の職人(例えば幸田露伴の「五重塔」の主人公)は日本人のロールモデルであった。日本人の好きな「ものづくり」という言葉にはそのような職人の体臭が付きまとう。

目先・手先の事柄に精神を打ち込むのですね。
日本語は、実況放送・現状報告の内容を語るための言葉です。だから、非現実の内容である構想は語れない。


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自分の尺度

2016-11-08 04:04:03 | 文化
 
>「自分の尺度」を持っていれば
>これは他人事ではありません。組織としても、個人としても、です。なぜなら、日本人の多くが「自分の尺度」を持っていないから。これがないから、権力にしがみつこうとする。出世にしがみつき、会社にしがみつこうとする。

同感です。日本人は、無哲学・能天気ですから、自己の尺度はないですね。世俗的な序列尺度ばかりです。縦社会の人間ですね。帰属意識なしでは生きてゆけない。

>実際、実は会社に入る前から、多くの日本人は“出世競争”をやっています。小学校の頃から受験があり、偏差値の高い学校に行こうとする。そして就職となれば、今度は“就職偏差値”の高いところに行こうとする。

日本語には、階称 (言葉遣い) というものがある。これは文法ではないが、日本人として守らなければならない重要な配慮です。日本人の礼儀は、序列作法で成り立っています。’上とみるか、下とみるか’ の判断が正確にできなければ、礼儀正しい日本人にはなれません。我が国においては、人を見損なっては社交ができない。だから、序列判断は、日本人にとって強迫観念になっています。当然のことながら、向上心も強くなります。小さな体に、大きな望みといったところです。

>入社したら課長には早くなりたい。部長にもなりたい……。そうやって、ある意味で極めて同質的なゲームを小学校、中学校、高校くらいからずっとやっているのが、多くの日本人なのです。この出世競争だけが尺度になってしまっているのです。

国全体が出世競争に向かっていますね。憲法前文の中で、’国際社会の中で、名誉ある地位を占めたいと思う’ と公言しています。権威主義を頼りにしているのでしょうね。

>よくよく考えなければいけないのは、このゲームを最後までまっとうできるのは、ほんのわずかしかいない、ということです。そのゲームをやることが、人生を気分のいいものにしているか、今こそ自分自身で問いかけなければいけない。

‘お山の大将、おれ一人。後から来る者、、、、、、’ ですね。無哲学・能天気の人は、よくよく考えてみることが難しい。哲学は非現実の内容です。現実離れのした内容になるので、日本人には信じることが難しい。

>正直な自分として、何をもって成功の尺度と考えるか。実は歳を経ていくと、これを試される局面が次々に出てきます。この時、多くの人は混乱する。なぜなら、ずっと自分ではない仮面をかぶってきたからです。

無哲学・能天気な人間の悲哀ですね。仮面が無ければ、自分の価値を知ることができないのでしょう。

>自分は何者か、というのはまさに哲学ですが、日本では、自分は何者なのか、という問いをできるだけしないよう教育をしてきている。常に、誰かが考えた正解があり、その正解を当てに行く教育です。これでは、いつまでも自分の世界を確立できない。

同感です。暗記のがり勉ではどうしようもありませんね。無哲学・能天気では、’我々はどこから来たか、何者であるか、どこに行くのか’ の哲学を考えることはできませんね。言語に時制というものがあると、世界観が持てるようになります。’過去の世界・現在の世界・未来の世界’ という三世界の内容を別々の時制の文章内容として表現できます。三世界の内容は全て非現実です。非現実の ‘あるべき姿’ の内容が考えられるようであれば、’今ある姿’ と比較して、現実批判が可能になります。だが、日本語には、時制というものがない。だから、批判精神が育たない。英語には、時制があります。だから哲学という、英米流の高等教育が可能になります。

>そして「サラリーマン」という仮面のゲームの世界に否応なしに入っていくことになります。「仮面」ゲームをやっているからこそ、『沈まぬ太陽』や『半沢直樹』的なドラマが盛り上がるのです。冷静に考えれば実にくだらない、生身のリアリティもない、単なる出世ごっこ、派閥争いごっこです。そのゲームのために体を壊したり、家庭を壊したり、しまいには命を落としたりする人は、今日現在も後を絶たない。

皆が皆がら競馬馬のような人生を送っていますね。兵どもが夢の跡になるのかな。

>運良く出世競争に勝っても、いつかは会社から離れます。そうなると単なる冴えない初老のオッサンです。内館牧子さんのベストセラーに描かれた『終わった人』として過ごす何十年もの時間が待っている。

ああ、むなしい。
若者には、未来のある教育を受けさせよう。




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「舌先三寸」に負けた

2016-11-07 17:04:03 | 教育

>(リンク)
>■「舌先三寸」に負けた屈辱

>アメリカの理系学生たちは何が得意なのか。2つある。
>第一に、しゃべること。とにかく弁が立つ。決してうそはつかないけれども、10のことを20にも30にも膨らませるのがうまい。

同感です。想像力がある学生は、期待が持てますね。

>第二に、書くこと。雑多な思考をきれいなストーリーにまとめて説得力を持たせるのがうまい。

同感です。学問には作り話が大切です。
例えば、恐竜時代には、誰も人間は住んでいなかった。にもかかわらず、アメリカ人の中は、恐竜の生態を見てきたように細かに生き生きと語る人がいます。矛盾のない考えは、すべて正しい考えです。人間は個人個人にそれぞれの哲学 (非現実) が必要です。思索に精進すれば、哲学博士 (Ph. D.) となる事も可能です。

>英語、日本語を問わず、国語力の下地となるのは読書であるということだ。

同感です。文献は大切ですね。人類の知識の半分程度は、英語の文献により蓄えられています。ですから、英語を話す国民はそれだけ有利な下地を持っていることになります。

>英語で話したり書いたりするのが苦手な人は、そもそも日本語でも筋を立てて話したり書いたりするのが得意ではないケースが多いのだ。

同感です。文章に矛盾を混入させないことが大切ですね。そうすれば、話に筋が立つ。
しかしながら、日本語は実況放送・現状報告の内容を表すための言語ですから、考えを表すのには不向きです。現実の実体は頭の外にある。非現実 (考え) の内容は頭の中にある。非現実の内容を文章によって示すのには、文法に時制というものが必要です。時制は英語にはあるが、日本語にはない。文章にならない考えの内容には意味がなく、矛盾も指摘できない。だから、筋道もたたない。そして、学問自体も進まない。


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