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日本人の知的能力を増進するための提案をするブログです。

日本の未来

2018-04-25 20:58:48 | 政治
>日本の未来に関して,日本人が選択するであろう,代表的な二つのシナリオを紹介します.>二つのシナリオのどちらが善か悪かではありません.>ただの未来予測です.

‘We can change!’ (変革可能) と行きましょう。

>「選択をしない」という選択をした場合>この可能性が現状では最も大きいかも知れません.>日本国民が保護国であるという現状に関して,特に選択らしい選択をしなかった場合です.>何も選択しない →

日本人には、意思が無い。意思のない所に、方法 (仕方) はない。仕方がないから、無為無策でいる。

>当面は楽。現状維持 →

お変りの無いことは、良いことです。天下泰平の世の中かな。

>政治・文化・社会システムなど全ての面で一層の米国化 →

政治音痴の日本のたどる道ですね。

>米国と軍事一体化 →

米国一家の大政・小政の様なものか。これは、あくまでも、日本風な解釈です。

>米国の敵は日本の敵となり、ある時点から日本国内でテロが頻発 →>人口が密集する日本におけるテロ被害は甚大なものに →

テロに屈するな。国際協調で防げ。

>原発を続けプルトニウムも保有し、日本は核武装の潜在的な能力を保有 →>従属的な戦争協力と核武装の可能性で「悪なる日本が原爆の復讐をするかも」という米国の不安が持続 →

これは、米国の悪夢ですね。

>何百年たっても在日米軍基地は返還されない →>日本の民主主義・法治主義・国民主権は米国(または米国に怯えゴマをする日本のリーダーたち)の許す範囲に限定 →>国益・国民生活は後回し →

不自由を常と思えは不足なし。上位の者に対する忖度 (推察) を得意としている。これは、独りよがりか。

>周辺諸国からはバカにされ続ける →

自己の意思表示が出来なければ、日本は子供のようなものですね。

>日本国民の自尊心は低く抑えられ社会は陰湿で抑圧されたものへ →

序列社会の日本人は向上心を抑えられるので、不満が鬱積する。出世欲を抑えることが難しい。

>少しずつ日本国は衰退

仕方がないから諦めるか。自暴自棄になるか。



>選択をした場合>次は日本人が意識的に選択をする場合です.
>現代日本人がもし覚悟を決めて選択することを決意したなら,色々と紆余曲折はあるでしょうが,結局は以下のようになるのではと予想しています.

日本人が覚悟を決める時は、意思決定にはならずして、恣意決定になる。話の筋が通らない。だから、危険である。
意思は、文章になるが、恣意 (私意・我がまま・身勝手) は文章にならない。バラバラな単語のままで存在する。
全ての考えは、文章になる。文章にならないものは、考えではない。
恣意は、文章にならず、意味もなければ、矛盾も指摘できない。だから、議論にもならない。恣意を鍛えると、意地・根性・大和魂になる。感情的な日本人になる。

>一切のタブーを捨て国民的な議論を展開 →

日本人は、議論下手ですね。

>米国からの独立/自主防衛という未来を選択→

日本語文法には、時制というものがない。だから、未来時制の文章内容 (考え) は常に想定外になっている。未来の話をすると、鬼が笑います。

>「国民が日本のリーダーたちをサポートしなければ実現は不可能」と覚悟 →

意思 (will) は、未来時制の文章内容である。日本語文法には時制 (tense) というものが無いので、日本人には意思が無い。だから、優柔不断・意志薄弱に見える。これでは、指導者としての資質が備わりません。

>対米関係が悪化しないように細心の注意を払いつつ、自己主張は毅然と →

日本人には世界観 (world view) が無い。だから、自己の ‘あるべき姿’ (非現実) を主張できない。日和 (現実) 見を続けることになる。それで、相手に信頼されない。

>米国の不安(日本人は悪/原爆の復讐)へ積極的に対応 →

‘信なくば、立たず’ ですね。

>原発廃炉・プルトニウム放棄・核武装放棄宣言 →>平和ブランドの強化 →>専守防衛の自主平和憲法を制定 →

平和憲法は、日本を護らない。横断歩道が、歩行者を護らないようなものである。どちらも安全は、ひとえに相手の意思決定にかかっている。

>攻撃型の兵器は持たない →>非効率な専守防衛を可能とするため国民皆兵・徴兵制・国土強靭化などに関して国民的な議論 →>自分の国は自分で守る共通認識 →

‘他力本願・神頼み’ の風潮を改めるのが良いですね。

>米国は日本の自主独立と平和希求の決意に驚き日本を尊敬 →

米国は、12歳の万年少年が大人に変身したとして驚くでしょうね。知恵おくれではなかったのかと。

>米軍基地を自主的に返還 →>他国との軍事同盟は結ばない。国連活動への派兵も行わない →

‘あるべき姿’ への国際協力は、必要ですね。

>軍事力以外の方法で世界の平和を推進 →

無哲学・能天気でいては、世界平和を推進する方法は見つからないでしょうね。

>周辺諸国との交流を深め地域を安定化 →

自己の大同を示さなければ、周辺諸国との小異の争いばかりになります。

>核保有国との戦力バランスでは日本が不利 →

力は正義である。Might is right. 強者の怒りは、抑止力になる。

>不利は甘受。不利なまま毅然と →>世界が日本を尊敬し見習い核軍縮が進む →

無哲学・能天気では、世界からの尊敬は考えられませんね。

>日本が中心となって恒久的な世界平和を達成

優柔不断・意志薄弱な人間は、中心人物にはなれないでしょう。

>いや~! ほんと↑素晴らしいサイトを見つけました.

そうですね。

>サイト名は↓>『世界平和への絵本集-愛と癒しと和を地球へ』 (リンク)> 『世界平和の絵本集』は,「平和の絵やイラストでテロや戦争の原因・心理と世界平和のメッセージを描く愛と癒しと平和のWEB絵本です」ということです.
(略)

どう生きるか

2018-04-22 23:37:48 | 教育


(略)
>■名門校版「君たちはどう生きるか」
>16の白熱授業の中で、名門校の教師たちが生徒たちに共通して問いかけていたものを煎じ詰めればこの一点。>「君たちはどう生きるか」である。>吉野源三郎によって同タイトルの名著が書かれたのは1937年。>多感な時期の青少年が立ち向かうべき問いは、戦前から変わっていない。

そうですね。日本人には縁の遠い哲学ですね。しかし、考えざるを得ない命題ですね。

>その問いに真剣に向き合うことなく、エリートビジネスマンのまね事のようなカタカナのスキルばかりを身に付けたところで、荒れ狂う時代の波の中で自分の足で立ち続けるかどうか、おぼつかない。

日本人もローマ字 (alphabet) に親しむ必要がありますね。ローマ字でなくては、国際的に通用しません。

>今、その名著が漫画になってリバイバルし、ブームになっているのもうなずける。

そうですね。日本人の忘れ物ですね。

>あまりに変化が激しく、無自覚のうちに時代の波にのみ込まれかねないこんな世の中だからこそ、自らの進むべき方向性を見失わないために、その問いが重要なのだ。

そうですね。目先の現実の内容のみに囚われて、非現実の内容に想いを致す余裕がありませんね。

>簡単に答えの出せる問いではない。>それでいい。>その問いを問いとして抱え続けることさえできれば、ひとは自由になれる。

そうですね。我々は、’考える人’ になる必要がありますね。

>自由とは、つねに「君は何を感じるんだ?」「君は何を考えているんだ?」「君はどこへ行きたいんだ?」「君はどうしたいんだ?」と尋ねられ続けることである。

自由とは、意思の自由のことでしょう。
日本人には、意思 (will) が無い。意思は未来時制の文章内容であるが、日本語文法には時制 (tense) というものがないので、日本人には意思が無い。優柔不断・意志薄弱に見える。

>言うなれば自由とは、それ自体が無限の問いの集合体である。

自由 (freedom) があれば、何でもできますね。

>問いを問いとして抱え続ける力がなければ、自由には耐えられない。

日本人には、意思が無いのだから、自由意思もありませんね。
恣意 (私意・我がまま・身勝手) はありますが、こちらの方は文章内容にはなりません。ですから、意味もなく矛盾も考えられません。恣意 (self-will) は、どこの国でも認められていません。恣意の自由は、自由のはき違えです。ですから、意思の無い日本人には自由の価値がなく、’不自由を常と思えば不足なし’ となるでしょう。
しかし、恣意だけしかない日本人は、恣意を容認する傾向にあります。アメリカ人は、恣意を粉砕しますが、日本人は忖度 (推察) により恣意の内容をくみ取る。そして、現実対応をする。忖度は、もとより聞き手の勝手な解釈でありますから、発言者に責任は有りません。以心伝心として、忖度を高く評価する人もいますが、誤解などによる情報伝達の齟齬 (食い違い) が生じて混乱することも多いです。とかく、この世は無責任となります。忖度は、改めるべき日本人の習慣です。

>その問いかけ自体は名門校でなくともできる。

そうですね。あらゆる人に必要なことですね。

>社会を通じて大人たちが子どもたちにつねに問いかけなければいけない問いだ。

我々は、’考える人’ にならなくてはなりませんね。でも、日本語脳を考える目的として働かせることは、難しいことですね。
現実の内容は、頭の外にある。非現実 (考え) の内容は、頭の中にある。両者は所在が異なるから、内容も同じにはなりません。
非現実の内容を文章にするには、時制というものが必要です。時制がありますと、非現実の三世界 (過去・現在・未来) を文章内容にすることができます。ですから、’今ある姿’ (things as they are) の見ならず、’あるべき姿’ (things as they should be) をも語ることが可能になります。時制は日本語にはありませんので、日本人は自己の考えを語ることはできません。ですが英語には有りますから、英米人は夢も希望も語ることが出来ます。

>みんなが『君たちはどう生きるか』の主人公コペル君にとっての「おじさん」にならなければいけない。

そうですね。我々は、’考える人’ になる必要がありますね。無哲学・能天気では過ごされませんね。実況放送・現状報告の内容のみを話す人間は、子どものような人ですね。

>そのためにはまず、大人たちこそがその問いから逃げてはいけない。>いやむしろその問いは、大人にこそ向けられているのである。

そうですね。まず隗より始めよ。大人が英米人と国際交流してみると良いですね。

>名門校の教育から、大人こそが忘れかけていた大事な何かを学べるのではないだろうか。

名門校の教育にも、非名門校の教育にも、哲学は必要ですね。そうすれば、英米人と対等に話ができるようになるでしょう。


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社会科

2018-04-21 14:07:08 | 教育
>2022年、「社会科」の授業が大きく変わる。

社会科は、暗記ものの科目ですね。

>新学習指導要領にともない、これまでの歴史的事実の羅列を覚えるだけの いわゆる「暗記科目」から現実社会で生きていくうえで本当の意味での社会を知る科目へと変貌をとげる予定だ。

それは、結構なことですね。洞察力を磨くための科目になるわけですね。

>そもそも今までの社会科で学ぶ歴史も日本で学ぶ歴史と海外で周知されている歴史は大きく異なる。

無哲学・能天気の日本で学ぶ歴史には、歴史哲学が反映されていませんね。だから、学問の香りがしませんね。

>戦後の日本の教育があらゆる価値判断や因果関係を排除したちぐはぐな事実になっていることが要因といえるが、そのちぐはぐさがより歴史の授業を意味のないものに陥れていると言える。

無哲学・能天気の歴史は、無味乾燥の味がしますね。戦前からある序列判断や超国家主義的 (国粋主義的) 傾向を歴史から排除した結果かもしれませんね。

>新しく制定される社会科の中では公共の場において主体となって意思決定や行動のできる、主体性を育てることに注目した教育になっている。

日本人には意思 (will) がありません。意思は、未来時制の文章内容ですが、日本語文法には時制 (tense) というものがありませんので、日本人には意思がありません。つまり、意思を表す文章ができないのです。ですから、優柔不断・意志薄弱に見えます。恣意 (私意・我がまま・身勝手) はありますが、どこの国でも恣意は容認されていません。ですから、日本人は意思決定をすることもできませんし、恣意的行動をすることも不可能であります。ですから、日本人に主体性を持たせることが極めて難しいことがわかります。

>今までのちぐはぐな事実の羅列を教える反復学習からの脱却の糸口となりえる可能性を感じる。

学生が、反復学習から解放されると良いですね。Where there’s a will, there’s a way. 意思のあるところに方法 (仕方) があります。日本人には意思がないので、方法が有りません。無為無策でいます。仕方がないので諦めます。目的があって、手段がなくて、義務がある形式になります。一億総玉砕の様なものですね。この不合理を我が国民は改めなくてはなりません。
肥田喜左衛門の著した <下田の歴史と史跡> には、責任に関する下のような事柄が記されています。
徳川5代将軍の治世、佐土原藩の御手船・日向丸は、江戸城西本丸の普請用として献上の栂 (つが) 材を積んで江戸に向かった。遠州灘で台風のため遭難、家臣の宰領達は自ら責を負って船と船員達を助けようと決意し、やむをえず御用材を海に投げ捨て、危うく船は転覆を免れ、下田港に漂着した。島津家の宰領河越太兵衛、河越久兵衛、成田小左衛は荷打ちの責を負い切腹する。これを知って船頭の権三郎も追腹を切り、ついで乗員の一同も、生きて帰るわけにはいかないと全員腹をかき切って果てた。この中には僅か15歳の見習い乗子も加わっている。鮮血に染まった真紅の遺体がつぎつぎに陸揚げされたときは、町の人々も顔色を失ったという。16人の遺体は、下田奉行所によって大安寺裏山で火葬され、同寺に手厚く葬られた。遺族の人たちにはこの切腹に免じて咎めはなかったが、切腹した乗組員の死後の帰葬は許されなかった。(引用終り)

>今後の教育について必要なのは事実の暗記ではなくどれだけ主体性をもって社会に関わっていくか。

そうですね。我々に大切なものは、‘We can change!’ (変革可能) の合言葉ですね。

>2022年の改定が良い方向に舵をきってくれることに期待する。

他力本願・神頼みですね。



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主体性がない

2018-04-20 23:16:06 | 政治




>教育の延長としての社会>こうしたことは、社会に出てもほとんど変わらない。>最近の若い社員は自分で考えない、主体性がないと批判されるし、たしかにそういう面もあろう。

意思のない人には、主体性がありませんね。

>しかし実際には、ほとんどの会社や組織で、それは歓迎されず、むしろ禁じられているのではないか。

日本人には意思が無い。さりとて恣意 (私意・我がまま・身勝手) は、どこの国でも歓迎されず、禁じられています。ですから、日本人に関しては、主体性を論ずる余地が無い。

>学校と同様、発言は求められるが、そこで許容されるのは、正しい答え、よい答え、上司や会社の意向に沿う答えである。

そうですね。模範解答を覚えるために戦々恐々とする毎日ですね。主体性の余地はない。

>そこから外れることを言えば、怒られ、笑われ、諭され、無視される。>そのように自由にものが言えないところに考える自由はない。

そうですね。モノ言えば、唇寒し秋の風か。昔ながらの伝統か。

>結局学校と同じく、仕事も与えられたことを決められたやり方で遂行するよう期待される。>時に創意工夫は必要だろうし、仕事によっては個々人の裁量が認められていることもある。>けれども、「なぜそうするのか」という質問や「こんな仕事をしたい」という希望は、なかなか受け入れられないだろう。

そうですね。自発性が抑えられていますね。’考える人’ にはなれませんね。無哲学・能天気の暮らしが続きますね。

>同様のことは高齢者になった後も続く。生涯学習にせよ、養護施設での生活にせよ、高齢者は、自分でどうするかについて考える余地を与えられていない。>医療関係者や福祉関係者が彼らに必要なものを考えて提供する。

世の中万事に自発性は期待されていませんね。’意思のない所に、自発性なし’ か。気の利くサービスのある社会か。

>しかし、高齢者自身の生き方が重要なら、当事者である彼ら自身が何をどうしたいのか発言をし、考える自由が与えられなければならず、また彼らはその自由を行使しなければならない。

それはそうでしょうけれども、何しろ日本人は自分の考えに慣れていないことですしね。意思のない所に自由の価値もありませんからね。’卵が先か、鶏が先か’ の問題になりますね。一筋縄には解決しそうにありませんね。

>そうでなければ、学校教育と同じく、自分で自分の人生の帰結に責任をとることなどできない。>人生の締めくくりの段階が、そんなことでいいのだろうか。

自発性のない個人と、自発性を期待しない社会が、補完関係になっていますね。意思と責任の入る余地のない世界ですね。意思と責任を除外して事を進めようとするところが、我が国民の不幸なところですね。

>地域コミュニティでも同じことが繰り返されてきた。>地元住民が当事者として地域をどうするか考えなければならないはずなのに、それを国や自治体、もしくはどこかの企業が代わって考え、決めてきた。

そうですね。意思と責任を除外して事を進めるところが、我が国民の不幸の始まりですね。当事者不在の国造りですね。

>何か問題が起きたら、住民は行政や企業を非難するが、彼らは責任をとらない。>当たり前である。>それは彼らの人生ではないからだ。

とかく、この世は無責任。我が国において、責任の所在を突き止めることは容易なことではない。それは、個人に意思が存在しないからである。
カレル・ヴァン・ウォルフレンは、<日本/権力構造の謎>の中の <とらえどころのない国家> で、次の段落のように述べています。
国会両院以外に、国家の中核として権力を持っているらしく見える組織は、官僚と大企業である。だが、この両者のどちらにも、究極的な権力はない。ボスはたくさんいるが、ボス中のボスといえる存在はないし、他を統率するだけの支配力のあるボス集団があるわけでもない。首都が国の経済、文化の中心だという意味では、日本は高度に中央集中型の国と言える。東京は、パリやロンドンに負けず劣らず、”すべてのものがある”大都市である。大企業は、中央官庁の役人から離れないよう、本社あるいは重要な支社を東京に構える。主要教育機関も、ここに集中している。予算陳情のためには、地方自治体も国の中央官僚に取り入らなければならない。東京以外には、重要な出版産業も娯楽産業もほとんど存在しない。ところが、この地理的中心地には、政治の中核がないのである。どの国についても、国家の実態をとらえるのは容易ではないが、日本の場合はとくに、バケツの中のウナギを素手でつかまえる、ということわざのたとえそのものである。指令の流れる経路、責任の中心、見え隠れする政策決定上の実際の動きなどが、すべて気が変になるほど、とらえどころがない。(引用終り)

>しかし当事者である住民は、自分たちで考えも決めもしなかったから、責任がとれない。

そうですね。自己の意思を表明すれば、当事者・関係者になる。表明が無ければ、傍観者にとどまる。日本人には、意思が無い。意思は未来時制の文章内容であるが、日本語文法には時制というものがない。それで、日本人には意思が無い。優柔不断・意志薄弱に見える。説明責任が果たせない。責任感も湧かない。孤高の人になるのか。

>しかしその結果は引き受けるしかない。

まいた種は、刈り取らなくてならない。なにびとにも後始末は必要ですね。だから、この問題は日本国民にとって深刻です。

>まさに学校教育と同じである。

‘いずこも同じ、秋の夕暮れ’ のようなものか。

>私たちは、自分の生き方に関わることを誰かに委ねるべきではない。

そうですね。個人には、独立・自尊が必要ですね。無哲学・能天気であるのは良くない。

>また誰かに代わって考えて決めてあげることもやめなければならない。>人間は自ら考えて決めたことにしか責任はとれない。

そうですね。意思を表明すれば、当事者となり、責任感が出る。信頼できる責任者にも成れる。意思を表明しなければ、責任もない。部外者のままである。先の大戦で、この国がひっくり返った時にも、責任者は出なかった。重大な事件であるにも関わらず、とかくこの世は無責任。

>私たちに必要なのは、考える自由である。>そしてそのためには、何でも話していい場が、つねにではなくても、どこかで絶対に必要なのである。

そうですね。IT時代のブログの活用が期待されますね。

>しかもそれが対話を通して行われれば、自由が自分勝手になることも、責任が個人で背負う重荷になることもない。

そうですね。対話により批判精神が育ちますね。忖度による独りよがりがなくなりますね。

>お互いの間で承認され、共に享受するものになるのである。

そうですね。英語を学び、自己の意思の表現方法を習得して、多くの方々との意思疎通を可能にして、未来社会の建設に協力しあう機会を増やすと良いですね。



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何でも言って

2018-04-20 20:18:55 | 教育


>思考の自由を奪う教育>学校という空間では、「何でも言っていい」ということが徹底して否定されている。

日本語文法には、時制というものがないから、自由に発想された内容は、非現実 (考え) の世界の内容にはならずして、現実の世界における白昼夢になりますね。

>学校で子どもたちは、正しいこと、いいこと、先生の意向に沿うことを言うように訓練される。

これは、白昼夢を発しないための訓練でしょうね。

>間違ったことを言えば「違う」と言われ、悪いことを言えば怒られ、先生の意に添わなければ嫌われる。

先生の ‘意’ とは、先生の ‘恣意’ のことですかね。意味もなければ、矛盾も指摘できませんね。ただ、感情的になるばかりです。先生の顔色をうかがうことを覚えますね。

>もちろん正しいこと、良いことを教えるのは必要である。>人の気に入ることが何かを学ぶのも重要だろう。>けれどもだからといって、それ以外を排除していいわけではない。

そうですね。創造力を発揮する必要がありますね。

>この「それ以外」の余地が日本の学校ではほとんど禁じられているため、子どもたちは、その場にふさわしいこと、その場で期待されていることしか言わなくなる。

暗記力が役に立ちますね。創造的発想は役立ちませんね。斬新的な発言は期待できませんね。ありきたりばかりです。

>それがうまくできれば優秀な生徒として評価され、さもなければ出来の悪い生徒とされる。

学校は、ロボットの生産工場の様なものですね。社会の歯車になる規格品の人間が優秀な生徒ですね。

>許されているのは、与えられたことを決められたルールの中で行うことだけで、そのルールを守らせるために、教師は成績評価をアメとムチとして活用する。

スポーツの試合に参加している様なものですね。ルールは最初から決められていますね。

>学校において考える力は、そうやって枠をはめた状態で育成される。

ルールを覚えることに専念しますね。役立つものは、創造力ではなくて暗記力ですね。

>しかし発言の自由がないところには、思考の自由も自発性もない。

そうですね。非現実 (考え) の内容が文章として表現できないことは、日本人にとって致命的なことですね。

>問題はそれだけではない。>学校は教育の場と言うより、本来は学びの場である。>そして学びの主体は生徒である。>生徒こそが、学びの当事者である。>学びとは他の誰でもない生徒にとっての問題であるはずだ。

学 (まなぶ) とは、他の真似をすることでしょう。自分で考える事でない。

>しかし与えられたものを受け取るだけの学校では、学びの主体である生徒自身は、何をどのように学ぶかについて発言権がない。

そうですね。師はもっぱら弟子に教えを授けます。生徒自身は、発言権もなければ、自発性もない。受け身オンリーの生活ですね。

>学ぶべきことは教員が渡す教材、教科書のなかにある。>ある日突然教科書を渡され、それを学べと言われる。>そこに意見をさしはさむ余地はない。>「なぜそれを勉強するのか」「もっとこういうことを学びたい」というのは、けっして言ってはならないこと、考えるべきではないことだ。

教科書の内容は、考える人には必要のないことですね。もっぱら学ぶ人に必要なことです。

>自ら考えていないということは、自分のやっていることを自分で決めていない、選んでいないということである。>そうであれば、やったことの責任は本来とれないはずである。

日本人には意思が無い。意思のない人には、責任が無い。だから、説明責任はとれない。とかく、この世は無責任。

>にもかかわらず、結果に関しては、生徒が責任を負う。>たしかに生徒は、自分の成績が悪いことを教員のせいにすることもできる。>また良心的な教師なら、教え方のつたなさを反省し、自分の責任を認めるかもしれない。>しかし生徒がどんなに教員を非難しようが、教師がどれほど謝罪しようが、成績や受験の結果は生徒自身で引き受けるしかない。

そうですね。まいた種は、刈り取らなくてはならない。しかし、無意識のうちに蒔いた種には深刻な問題がありますね。我々は、考える人にならなくてはならないでしょう。

>要するに、学ぶということから見た場合、生徒も教師も、とれない責任をとろうとしたり、とらされたりしているのである。

そうですね。日本人には意思が無い。意思のない所には、方法 (仕方) がない。生起する問題に対処できない。だから、無為無策でいる。責任はとれないにもかかわらず、義務だけが残る。だから、日本残酷物語になる。
肥田喜左衛門の著した <下田の歴史と史跡> には、責任に関する下のような事柄が記されています。
徳川5代将軍の治世、佐土原藩の御手船・日向丸は、江戸城西本丸の普請用として献上の栂 (つが) 材を積んで江戸に向かった。遠州灘で台風のため遭難、家臣の宰領達は自ら責を負って船と船員達を助けようと決意し、やむをえず御用材を海に投げ捨て、危うく船は転覆を免れ、下田港に漂着した。島津家の宰領河越太兵衛、河越久兵衛、成田小左衛は荷打ちの責を負い切腹する。これを知って船頭の権三郎も追腹を切り、ついで乗員の一同も、生きて帰るわけにはいかないと全員腹をかき切って果てた。この中には僅か15歳の見習い乗子も加わっている。鮮血に染まった真紅の遺体がつぎつぎに陸揚げされたときは、町の人々も顔色を失ったという。16人の遺体は、下田奉行所によって大安寺裏山で火葬され、同寺に手厚く葬られた。遺族の人たちにはこの切腹に免じて咎めはなかったが、切腹した乗組員の死後の帰葬は許されなかった。(引用終り)


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