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日本人の知的能力を増進するための提案をするブログです。

考える力

2018-04-20 17:08:35 | 教育


>考える力はいらない?

種本をあたえられ、暗記力を使って回答する。だから、考える力は、必要なしですね。

>ずいぶん前から巷では、思考力やコミュニケーション能力が必要だと言われている。

日本人には意思が無い。意思は未来時制の文章内容であるが、日本語文法には時制というものがないので、日本人には意思が無い。それで、優柔不断・意志薄弱に見える。
日本人には意思は無いが、恣意 (私意・我がまま・身勝手) が有る。恣意は、単語 (小言・片言・独り言) のままである。恣意は文章にならないので、意味が無い。矛盾も指摘できない。聞き手は、忖度 (推察) により話し手に対応する。赤子に対応するようなものか。忖度は、聞き手の勝手の解釈であるから、話し手には責任が無い。とかく、この世は無責任となる。英米人の恣意は、’恥を知れ’ (Shame on you!) の一言の下に粉砕される。

司馬遼太郎は、<十六の話>に納められた「なによりも国語」の中で、片言隻語でない文章の重要性を強調している。
「国語力を養う基本は、いかなる場合でも、『文章にして語れ』ということである。水、といえば水をもってきてもらえるような言語環境 (つまり単語のやりとりだけで意思が通じ合う環境) では、国語力は育たない。、、、、、、ながいセンテンスをきっちり言えるようにならなければ、大人になって、ひとの話もきけず、なにをいっているのかもわからず、そのために生涯のつまずきをすることも多い。」

>企業の国際競争力を上げるには、新しい発想を取り入れ、イノベーションを起こさないといけない。

新しい発想を得るには、考える力が必要ですね。

>グローバル化が進む世界では、時に衝突もしながら、いろんな国や地域の人たちと一緒に働かなければならない。

そうですね。自己の考えを明らかにする発言が必要ですね。

>そのために学校では、クリティカル・シンキングやコミュニケーション能力を向上させようと、ディスカッション、グループワークなど様々なことが試みられている。>子どものうちから「自ら考える力」をつけ、異なる立場の人と意思の疎通を図り、協同していく資質を伸ばす。

日本人には、意思が無い。恣意は認められない。意思疎通も恣意疎通も不可能ですね。異なる立場の人と、意思疎通を図ることは難しいので、初めから四面楚歌ですね。これは深刻な国難です。

>そうやって将来、社会に貢献でき、また自立した人生が送れるようになろう、というわけである。

足元がしっかりしていませんとね。希望的観測が強すぎるようですね。

>こういう動きを見ていると、考える力は世の中で強く求められ、それを育てようとする動きも活発になっているように見える。

‘考える’ とは、’今ある姿’ (現実) を認める事ばかりではなくて、’今はない姿’ (非現実) をも想定することですからね。非現実の三世界 (過去・現在・未来) を文章内容にする時制 (tense) というものが文法に必要です。時制は英語にはあって、日本語にはありません。

>しかし自由にものを考え、思考を広げ深めるには、上で述べたように、「何を言ってもいい」ということがきわめて重要である。>ところが実際には、「何を言ってもいい」ということは、世の中でほとんどない。>それは自由にものを考えられる場がないに等しい。

自由とは、意思の自由のことでしょう。日本人には、意思が無いから、自由があっても意味が無い。不自由を常と思えば不足なしとなります。

>しかもそれは、子どもだけの問題ではない。>大人や社会人、さらには引退した高齢者も同じ問題を抱えている。

日本語脳の持ち主は、皆同じ運命にありますね。この道は、いつか来た道。ああそうだよ。

>とはいえ学校教育は、社会全体で起きていることの正確な反映であり、その根源でもある。

そうですね。社会と学校は、補完関係にありますね。

(略)

考える自由

2018-04-19 10:43:33 | 政治

>「考える自由のない国―哲学対話を通して見える日本の課題」
> 哲学を求める時代?

哲学は、いつの時代にも必要ですね。人間は、’考える人’ にならなければならないということですね。

>ここ数年、私は「哲学対話」という活動を通して様々なところに関わってきた。>哲学対話とは、子どもたちの思考力を養うために70年代にアメリカで始まった「子どものための哲学」に由来する。

子供にも、考えはあってしかるべきですね。彼らは、この世に対する ‘しがらみ’ がありません。ですから自由です。

>それは、哲学者の思想を教えたり抽象的な問題について議論したりするのではなく、各人が一人で思索にふけるのでもない。>身近な問いから出発して、グループで一緒に問い、考え、話をしていくものである。>中学校以上が一般的だが、小学校や幼稚園で行われることもある。

子供は、過去の哲学者の内容を暗記する必要はありませんね。

>いずれにせよ、共に話すことを通して共同で思考を広げ、深めていくのが哲学対話である。

そうですね。皆で仲良く考えることが必要ですね。

>哲学対話がどういうもので、たんなる対話とどこが違うのか、ここで詳しくは述べられないが(齋藤元紀編『連続講義 現代日本の四つの危機 哲学からの挑戦』(講談社選書メチエ)に所収の拙論「対話としての哲学の射程」を参照)、とりわけ重要なのは、「何を言ってもいい」「否定的なことは言わない」というルールである―何を言ってもいいからこそ、思考に広がりと深まりが出てきて、対話が哲学的になる。

そうですね。’何を言ってもいい’ が大切ですね。

>これは、とくに教育現場では、思考力の育成につながる。>また否定的なことを言わないことは、他者の尊重につながる。

そうですね。序列社会においては、為政者は民に対して ‘下におれ、下におれ’ と言論の抑制を言い続けてきましたね。

>それゆえ哲学対話は、考える力を育てるだけでなく、他者との相互理解を促し、学校でのクラスづくりや、会社などの組織づくり、地域のコミュニティづくりなど、様々な集団内の人間関係や連帯感の強化にも貢献する。

そうですね。人々は、大同を得ることにより、未来社会の建設に協力することが可能になりますね。
否定的なことを言って、他者を軽視する風潮は、我が国の伝統でしたね。
山本七平は、自著 <ある異常体験者の偏見> の中で、反省の押し売りに関する疑問を、下の段落のように述べています。
、、、、、私が常に不思議に思うことは、戦前の「恥を知れ、反省しろ」であれ、新井宝雄氏の「反省が見られない」であれ、本多勝一氏の「恥としなければならない」であれ、軍隊の「キサマラ、反省がタリン」であれ、「恥を知れ、処決せよ」であれ、たえずこの言葉を口にするこの人たち自身が「自らを律しそれを基準にして生きている主義」は、一体全体、何という主義だったのだろうかという疑問である。(引用終り)

>私自身、ワークショップを開催するほか、小学校や中高、都市や地方の地域コミュニティ、高齢者の集まりの場など、様々なところで哲学対話を行ってきた。>そうした活動を通して、これらに共通する問題が見えてきた。>それは自由に話し、自由に考えられる場がないということ、そして、その結果、自分の行動、自分の生き方に責任がとれないということである。

全ての考えは、文章になる。文章にならないものは、考えではない。
正しい (矛盾のない) 文章は、全て正しい考えを示している。だから、正解は一つではない。いくらでもある。
我が国の論客は、’ああでもなければ・こうでもない’ という。’あれではいけない・これではだめだ’ と力説する。
だが、自分がどうであるかを決して言わない。自分には、考えというものが無いからである。



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差別

2018-04-18 10:40:17 | 政治
>差別があっても人として対等な社会(リンク)
>現代日本人は「差別」と聞くと、条件反射的に「いけない」と答えるようです。>これは「パブロフの犬」と同じです。>(中略)>条件反射は、条件を与えると反射的に行動することをいう用語ですが、人には本来、思考力があるはずです。>そうであるなら、条件と反射の間にすき間を空けて、そこに「考える(思考する)」という行為を入れなければならないと思います。

そうですね。我々は、考える人になる必要がありますね。

>そうでなければ、人ではなく、犬と同じになってしまいます。>実際、差別というのは、本当によくないことといえるものなのでしょうか。

さあどうですかね。差別には、正当な差別と不当な差別がありますからね。

>日頃から「差別はいけない」と言っている人ほど、上下関係にうるさい方であるように思います。>しかし上下関係こそ、まさに差別そのものです。

日本語には、階称 (言葉遣い) というものがあります。ですから、’上と見るか・下とみるか’ の判断は、会話の時にも必要になります。’人を見損なってはいけない’ という想いは、日本人にとって強迫観念の域にまで達しています。そうでなければ、日本人は、礼儀正しい人にはなれません。なぜならば、日本人の礼儀作法は、序列作法になっているからです。序列なきところに、礼儀なしです。

>つまり言っていることと、やっていることが矛盾しています。>人はひとりでは生きていくことができません。>だから人と人とで社会を営みます。>その社会には秩序が必要です。>秩序のためには、上下関係や差別は不可欠であり必要です。>社会は差別によって成り立っているのです。>ということは差別を否定することは、実は社会を否定していることになります。

そうですね。

> (中略)
>差別があるということと、人が対等であることは矛盾しません。>決裁印は部長の所轄ですが、成果をあげるのは平社員の仕事です。>決裁権は部長にあっても、仕事で成果を上げるのは「俺の仕事」なのです。>差別があっても、人は成長しようと努力することで、人として対等に生きることができるのです。

そうですね。

>「差別のない平等な社会を」などという標語もあります。>「平等な社会」と言うくらいですから、これは「法のもとの平等」を意味しているとわかります。>しかし法は、差別をしているものです。>たとえば弁護士特権、裁判官特権、議員特権のようなものが、現に存在します。

特権階級ですね。

>日本国憲法自体、大臣には特別な権限を与えています。>その権限は一般の国民が持てるものではありません。>憲法は人を差別することで成り立っています。

そうですね。

>ということは「差別のない平等な社会」などというものは、その言葉自体がインチキだということです。>よく問題になる外国人についての差別も、当然あってしかるべきものです。>それどころか在日特権なるものが現に存在しているということは、在日外国人のほうが、生粋の日本人に比べて差別的好待遇を与えられているということです。

そうですね。

>「差別はいけない」と声を大にして主張している人たちは、主に在日外国人たちであるといわれています。>彼らは、自分たちにとって都合の良い差別はむしろ積極的にしてほしいけれど、都合の悪い差別はいけないと言っているのです。

それは、利己主義 (egotism) ですね。

>そのようなことを日本語では不条理と言います。>私達日本人は、「差別は人が社会を営むにあたって必要なものである」という、ごくあたりまえの常識を、あらためて取り戻す必要があると思います。

序列社会においては、世俗の上下ばかりが発達して、責任がおろそかになっていますね。先の大戦でこの国がひっくり返った時にも、責任者は出なかった。とかく、この世は無責任。
意思のない人には責任が無い。ちょうど、死刑執行人のようなもので、人は死んでも彼らは殺人罪には問われない。彼らには、殺意というものが無いからである。
日本人には、意思 (will) が無い。意思は、未来時制の文章内容であるが、日本語文法には時制 (tense) というものがないので、日本人には意思が無い。優柔不断・意志薄弱に見える。人間の序列はあっても、責任の序列は存在しない。だから、とかくこの世は無責任となっている。
上位の者の片言隻句 (小言・片言・独り言) と下位の者の忖度 (推察) により仕事をしている。忖度は、聞き手の勝手な解釈であるから、発言者には責任が無い。日本人の社会は、どこまで行っても責任の所在は明らかにならない。意思が無いということは、責任が無いということである。責任感というものがさらさら無い。

>必要なことは「差別のない平等な社会」ではなく、「差別があっても人として対等な社会」です。

‘差別のない’ ではなくて、’不当差別のない’ と表現するのが正確でしょう。何が不当であるかについては、一つ一つにそのリーズン (理性・理由・適当) が必要ですね。リーズンのないものは、アンリーズナブル (不条理) であり、容認されることは無いでしょう。ですから、そうした差別は存続します。


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理想

2018-04-17 22:13:33 | 政治

>◆「平和を祈願すれば平和になる」というのは理想
>「平和を祈願すれば平和になる」というのは理想だ。>現実ではない。

言霊の効果の様なものですね。

>理想が現実だと思ったら、日本という国は消えてなくなってしまう。

理想 (非現実・考え) の内容は、頭の中にある。現実の内容は、頭の外にある。両者は、所在が異なっているから、内容も同じにならない。

>国の存続がかかっているのだから、理想と現実は絶対に取り違えてはならない。

理想 (非現実) は、見ることが出来ない。現実は、見ることが出来る。非現実を見たら、それは白昼夢である。

>ところで、日本が理想と現実を取り違えてしまったものは、他にもある。>たとえば、世界は「平等」を目指しており、それが実現できると思っている人もいる。

‘人は全て平等に作られている’ と主張するか。それとも、’人間万事不平等’ とつぶやくか。

>あるいは、「人類みな兄弟」に代表されるような「博愛」の概念は世界で共通していると勘違いしている可能性もある。>「自由・平等・博愛」はフランス人が提唱した概念だが、なぜか平和憲法を押し付けられた戦後の日本人が、一番それを信じているように見える。

要は信心の問題ですか。神州不滅の様なものか。種本があれば、その暗記も心強い。

>まるで世の中のことは何も知らないウブな少女のようだ。>あまりにもマスコミの洗脳が効きすぎて、「それは理想であって現実ではない」と気付かなくなった。

理想 (非現実) と現実の区別は、日本人には難しいでしょうね。現実の世界は一つある。非現実の世界は三つある。日本人には、こうした世界観 (world view) が無い。あるのは、現実と非現実の混乱ばかりである。

>言うまでもないが、「ありとあらゆるものからの自由」というのはあり得ない。>秩序を乱す自由、ルールを守らない自由、物を破壊する自由、他人を殺す自由が認められたら、社会は一瞬にして無法地帯になる。>秩序を維持するために、常識や社会的規則は自由という概念よりも重要なのである。

自由とは、意思の自由のことである。意思は未来時制の文章内容になる。だから、その内容を誰もが理解できる。議論の対象になる。
恣意 (私意・我がまま・身勝手) は、文章にならない。バラバラな単語のままである。文章にならないものは、意味が無い。矛盾を指摘することもできない。恣意の 自由は、’自由のはき違え’ になる。
日本人には意思が無いが、恣意が有る。それで、自己主張というものが出来ない。恣意は、アメリカにおいては、’恥を知れ’ (Shame on you!) との一語で粉砕される。だが、我が国においては忖度 (推測) により生きている。忖度は聞き手の勝手な解釈であるから、発言者には責任が無い。以心伝心として、こうした言語環境をありがたがる人もいるが、無責任な社会であることには変わりない。
司馬遼太郎は、<十六の話>に納められた「なによりも国語」の中で、片言隻語でない文章の重要性を強調している。
「国語力を養う基本は、いかなる場合でも、『文章にして語れ』ということである。水、といえば水をもってきてもらえるような言語環境 (つまり単語のやりとりだけで意思が通じ合う環境) では、国語力は育たない。、、、、、、ながいセンテンスをきっちり言えるようにならなければ、大人になって、ひとの話もきけず、なにをいっているのかもわからず、そのために生涯のつまずきをすることも多い。」

>また、欧米先進国のすべての国家が提唱する「平等」という概念も、「スタートが平等であれば素晴らしい」程度のものでしか考えていない。>「結果が平等であるべき」という共産主義的な考えは完全に消え去っている。>結果が平等というのは現実社会にはあり得ないのである。>そんなものを追及したら、スポーツですらも成り立たない。

そうですね。存在するのは、最低基準の平等ですね。

>「博愛」も理想論であって、現実には成り立たない。>国家は自国の利益を追求するが、その利益はしばしば他国と対立する。>だから、「博愛」などと言っていたら、他国に侵略されて終わりになる。

そうですね。難民救済にも限度がありますね。

>◆現実主義者にならなければ日本が消滅してしまう

足が宙に浮いていたのでは、仕事にならないでしょうね。先の大戦でこの国がひっくり返った時には、責任者も出なかった。とかく、この世は無責任。

>つまり、今まで日本人が信じてきたのは、単なる理想論であって、現実論ではなかった。

現実世界しかないところに、現実と理想の内容を押し込めると、当然日本人の頭に混乱が起こりますね。

>今まではアメリカの傘の下にいて自衛を考えなくても良かったから「軍隊などなくても平和が保てる」という無防備な理想を信じられたのである。

空想・妄想の時代でしたね。頭の中の混乱は、今後も続くか。

>しかし、時代は変わった。>日本の周辺はどんどん危険になっている。>中国は軍拡に邁進し、韓国は反日に凝り固まり、北朝鮮のような小国ですらも核ミサイルを所有しつつある。

そうですね。

>いよいよ、日本人は理想を捨て去り、現実と向かい合う時が来ている。

理想をあっさり捨てる理由が情けない。おつむの弱さか。

>日本を守るためにも、現実的にならなければいけない時がきたのだ。

現実直視が必要な時ですね。日本語脳には、非現実を保持する余地が無い。

>ところで、簡単に現実主義者になる方法がある。>「自由・平等・博愛」が単なる理想論であるのであれば、これをひっくり返すと現実的な考え方になれる。

そうですね。

>つまり、現実的になるというのは、こういうことなのである。
>・世の中は、自由ではないと認識する。

不自由を常と思えば不足なし、ということですか。これでは江戸時代と同じだな。

>・世の中は、平等ではないと認識する。

‘人は平等に作られている’ と考える代わりに、’人間万事不平等’ ということですね。夢も希望も無いですね。

>・世の中は、博愛ではないと認識する。

‘人様に迷惑をかけるな’ と言うことですか。古式ゆかしい礼儀作法か。

>「自由・平等・博愛」をひっくり返したものが現実であると考えれば、現実主義者になれる。

そうでしょうね。

>現実に対応するためには、現実主義者でなければならないのは当然のことであり、そうでなければ世の中から乖離してしまう。

‘右翼 (保守) か、左翼 (革新) か’ といった選択のようなものですね。

>現状認識をするためには、現実主義者になるしかないのである。

処世術一点張りの生活ですか。夢も希望もない生活ですね。

>「反日国家とは仲良くなれる」という理想や、「戦争は起きない」という理想や、「平和は実現する」という理想が先にあると、現実に裏切られて現状が受け入れられなくなる。

現実直視が必要ですね。

>理想はどこかの浮世離れした大学教授の頭の中にだけに存在すればいいのであって、それを現実社会に持ってくるから世の中の捉え方がおかしくなってしまう。

現実と非現実の混乱ですね。

>日本がおかしくなっているのは、日本人の一部があまりにも強く「理想」に洗脳されてしまい、そこから抜け出せなくなっていることに理由がある。

日本人には、世界観が無い。考え (非現実) の世界には、過去・現在・未来の三世界がある。世界観があれば、現実と非現実を脳裏で混乱させることは無い。’時の一致’ (the sequence of tenses) は文法であって、これを間違うと罰点になる。だから、英米人は、世界を厳密に分けて考える。日本語には時制が無いから、日本人はこの種の練習を経験しない。

>もう、私たちはのんきに理想主義を唱えている場合ではなくなっている。

我々は仏教徒になっても前世・現世・来世の三世界を理解することには成功しませんでしたからね。理想主義も空想・妄想になりますね。

>現実主義者にならなければ、日本という国が消滅してしまう。

常に理想 (非現実) と現実を並べて考えて、できるだけ理想の方向に近づける努力するのが、人生というものではありませんか。これを中庸の徳というのですかね。

>世の中は変わったのだ。>現実と向き合う時間がやってきた。

空理空論の時代は終わりましたね。我々は、考える人にならなければなりませんね。



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平和祈願

2018-04-17 12:58:13 | 政治

>◆「平和を祈願すれば平和になる」というのは理想

日本人は、昔から祈願してきました。他力本願・神頼みでは、平和は実現しないでしょうね。

>北朝鮮は絶対に何が何でも核兵器を所有するという目的を捨てない。>好きにミサイルを飛ばし、好きに核実験し、各国の懸念や批判には恫喝で返す。>常識も、説得も、経済制裁も通用しない。>日本のマスコミや野党がいくら「対話しろ」と言っても意味がないというのは、日本人のほとんどが気付くようになっている。

意思のない所には、方法 (仕方) がない。仕方がないから、諦める。

>そして、日本人はようやく「平和」というのは、相手がそれを望んでいなければ実現できないという「当たり前」のことを知ることになった。

意思の発見ですね。
日本人には、意思 (will) が無い。意思は、未来時制の文章内容であるが、日本語文法には時制 (tense) というものがないので、日本人には意思が無い。だから、相手にも意思がないものと思っている。対人関係では、意思の問題が重要である。意思の内容を考慮しない言葉のやり取りは、’オオカミと七匹の子ヤギたち’ の物語の様になって、禍を招く。

>相手が憎悪を持って攻撃してきた時、「平和」などという理想はまったく何の役にも立たない。>「日本は平和を望んでいます」と言えば、弱腰だと理解されてどんどん恫喝や侵略を進められていく。

平和実現のために戦う意思の無いことを表明しても無駄ですね。

>現実社会での「平和」というのは、日本が軍事的オプションを持って相手に攻めてこられないようにした状態で「日本から相手を攻めることはない」と言う状態を指す。

そうですね。同感です。

>もし武力を持っていなければ、相手が攻めてきても守れない。

そうですね。強者の怒りは、抑止力になる。弱者の怒りは、ごまめの歯ぎしりに止まるか。

>下手すれば日本国民は大量殺戮に遭う。>「国民が大量殺戮されるかもしれないが、平和が大切なので軍隊も自衛隊も持つべきではない」というのは、かなり頭がおかしい人である。

そうですね。日本の政治指導者は、無責任ですね。先の大戦で国がひっくり返った時にも、責任者は出なかった。

>◆「それは理想であって現実ではない」と気付くべき

理想は非現実 (考え) であり、その内容は頭の中にある。現実の内容は、頭の外にある。両者は、その所在が異なるから、内容も同じにはならない。

>すべての国が軍隊を捨て、武器を捨て、正義と愛と友情に生きる世界は「理想」だ。>そのような世界が来れば夢みたいだと誰もが思う。

本当にそうですね。

>しかし、それは「夢みたい」だから理想であり、現実ではないのだ。>私たちが生きている「現実」の社会は、それが現実であるがゆえに理想とは程遠い世界となっている。

そうですね。理想 (非現実・考え) は、現実とはその所在が異なりますから、内容も同じにはなりませんね。

>世の中がいつまで経ってもまったく良くならないのは、言うまでもなく世の中が理想通りには動いていないからだ。

希望的観測だけでは、どうにもなりませんね。我々は、自己の意思を示す必要がありますね。

>日本人は今まで平和を語り、対立を避け、謝罪し、自己主張を避けて国際社会で生きてきた。>そうすることによって、日本は素晴らしい国であると認識してくれると日本人はユートピアを思い描いていた。

それは、現実離れした勝手な解釈というものでしょうね。空想か、妄想か。

>しかし、現実はそうはならなかった。>実際には平和を叫んでも、日本に向けてミサイルは飛んでくるし、謝罪しても賠償しても「もっと謝れ」と恫喝される。>自己主張しなければとことん蔑視され、反日をエスカレートされるし、侵略の意図を持った工作員がどんどん日本に入ってきて日本を腐蝕していく。

そうですね。現実直視が必要ですね。我々には、自己主張が必要ですね。自己の ‘あるべき姿’ を主張することが必要ですね。

>日本人の中には、まだ「平和憲法で日本が守れる」と心の底から思っている人もいるかもしれない。>マスコミが朝から晩までそう言っているのだから、そのように思ってしまう人がいたとしても不思議ではない。

日本人には自己の考えというものがないから、洗脳の効果は抜群ですね。平和憲法は日本を護らない。横断歩道が歩行者を護らないようなものである。我らの安全は、相手の意思にかかっている。

>マスコミの洗脳能力は群を抜いているので、「それは理想であって現実ではない」と気付かないほど洗脳される人がいても仕方がないのである。>ここがマスコミの恐ろしいところだ。

日本語では、’あるべき姿’ (things as they should be) と ‘今ある姿’ (things as they are) の区別ができない。つまり、現実の内容と理想の内容を文型で区別できない。言語が不完全 (?) であると、人の考えもおかしくなる。

>朝から晩まで、執拗に繰り返すことで現実感を喪失させてしまう。>しかし、「平和憲法で日本が守れる」というのは、明らかに現実と理想を取り違えてしまっている。

そうですね。日本人には、意思が無い。だから、問題における意思の重要性を見逃してしまう。意思で世界が動くことをとらえていない。

>理想をいくら唱えても、現実が理想通りになっていないのであれば、現実の方を直視すべきである。

そうですね。現実の内容は見ることが出来る。理想 (非現実) の内容は、見ることが出来ない。ただの話である。見ることのできない内容は、日本人にとっては真っ赤な嘘である。かくして、日本人は、無哲学・能天気となる。


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