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日本人の知的能力を増進するための提案をするブログです。

日本弱体化政策  

2021-08-25 17:11:51 | 文化

>369914        「アメリカGHQが行った日本弱体化政策」公民館、黒塗り教科書  >姜ヨセフ ( 29 会社員 )       21/08/23 PM10 【印刷用へ】

>いまから75年前、日本を占領したGHQは、「二度と強い日本にさせない!」と考えて、日本が再び米国の脅威とならないことを確実にするため、徹底した「日本弱体化政策」を強制しました。  

 

意地・根性・大和魂の日本人は強いですからね。だがしかし、先の戦争には負けた。    

 '敗因について一言いはしてくれ。我が国人が あまりの皇国を信じ過ぎて 英米をあなどつたことである。我が軍人は 精神に重きをおきすぎて 科学を忘れたことである'  (昭和天皇)     

 

>リンク

>当時GHQは日本の強さの秘密として天皇を中心とした強固な共同体にあり、その共同体を維持しているのが「国家神道」だと考えていました。

 

我が国は序列社会ですからね。   

日本語には階称 (言葉遣い: hierarchy) というものがある。だから日本語を発想する場合には、‘上と見るか・下と見るか’ の世俗的な判断が欠かせない。上下判断 (序列判断) には、通常、勝負の成績が用いられる。近年では偏差値なども都合の良い資料として利用されている。わが国が学歴社会であるというのも、実は序列社会の言い換えに過ぎない。だから、わが国の学歴社会は学問の発展には何ら貢献していない。   

日本人の礼儀作法も、序列作法に基づいている。だから、序列社会の外に出たら序列なきところに礼儀なしになる。礼儀正しい日本人になる為には、世俗的な序列順位を心得ている必要がある。'人を見損なってはいけない' という想いが強迫観念の域に達していて、人々は堅ぐるしい日常生活を送っている。こうした観念は天皇制・家元制度・やくざの一家の構造にまで固いきずなでつながっている。

日本人は序列の存在を知れば、それが一も二も無く貴いものであると信ずる共通の序列メンタリティを有している。これは序列信仰の域に達している。日本人の尊敬は、序列社会の序列順位の単なる表現に過ぎないため、個人的精神的な意味がない。下々の衆は上々の衆の祟り (仕返し) を恐れて神妙にしている。上々が無哲学・能天気である事については、下々にとって何ら気になることではない。だから、日本人の尊敬には浅薄さが付きまとう。   

政治家にも、政治哲学がない人が多い。我々の未来社会の有様を相手に言って聞かせる術がない。それは非現実 (考え) の内容を盛り込むための構文が日本語に存在しないからである。序列人間は人間の序列を作っている。上位の者 (先輩) と下位の者 (後輩) の間に自分を差し挟むことにより自分たちの存在を確認し合っている。だから、自己の所属する序列に並々ならぬ帰属意識を持っていて義理 (序列関係から生じる義務) を果たすことにより仕事にやりがいを感じている。周囲の序列仲間が自分たちの序列に対する貢献度を評価する。これにより自己の順位は上昇する可能性がある。それが日本人の人生における楽しみである。だから日本人の世界は小さい。

 

>だからこそGHQは占領開始直後、「神道指令」を発して、>・神道や神社に対する公的な財政支援 >・学校での神道に関する教育 >・役所や学校等での神棚設置 >などを禁止していったのです。  

 

これは日本文化全般に言えることであるが、日本人の宗教にも作法があって教義がない。これは国民が無哲学・能天気の為でしょうね。      

 

>ただ問題は、神道指令の対象が学校教育だけではなかった、ということです。>神道指令は、神社を中心とした伝統的な地域共同体の破壊を目論んでいたのです。

 

序列社会は人間の序列を破壊すれば、弱体化します。しかし、 上と見るか・下と見るかの判断は、日本語にしっかりと結びついていますね。         

 

>戦前まで、地域共同体の中心には神社がありました。 >その年の豊作を祈る行事から、実りに感謝する秋祭りまで、一年のサイクルを通じて、人々は、天地の恵みと神々への感謝という宗教的情操を自らの内に育み、氏神様を中心として精神的な結束を固めていたのです。>地元の揉め事の解決から、お祝い事まで地元のあらゆる問題は、神社で開催される寄り合いにおいて解決されており、神社は精神的支柱であると共に、行政拠点の役割も果たしていました。

 

序列人間は自己の属する人間序列が究極のよりどころですからね。万事が序列信仰によりますね。      

 

>神道指令は、神社が果してきたこれら社会的機能を否定したことを意味していたのです。

 

そうですね。序列人間が人間序列を離れて生活をするのは大変なことですね。それは異国に移民するようなものでしょう。非国民になり外人になる。    

 

>神社を支援したら逮捕される! >地方自治体関係者も地元の有力者たちも怒りに震え上がったに違いありません。>しかし、GHQの策謀はこれだけでは終わりませんでした。>神社と地域社会とを分離させ、地域共同体をまとめていく力を奪っていく一方で、神社に代わる地域共同体の中心として構想されたのが「公民館」だったのです。

 

そうですね。始終神がかっていては良くないですね。でも、縦社会の住民が横社会の風習に馴染むことができるのか。GHQの苦労話は尽きることがありませんね。           

 

>公民館で行われたのは、映写機を持ち込んでの映画会で­した。 >上映される映画は、もちろんハリウッド映画であり、豊かな資本主義社­会が描かれており、欧米の民主主義、自由主義、個人主義、資本主義の浸透が行われたのです。 

 

そうですね。日本人に民主主義や自由主義を教えるのは、アフガニスタン人やベトナム人に主義を教え込むようなものでしょうね。効果が上がらない。    

言語は伝達の手段であるばかりでなく、思考の重要な手段でもあります。ですから我々の考えの疎かな所は日本語のせいであることもあります。   

非現実 (考え) の内容は、英語の時制のある文章により表される。非現実の内容はそれぞれに独立した三世界 (過去・現在・未来) の内容として表される。その内容は世界観と言われている。これらの三世界は時制により構文が異なるので、同次元で語ることができない。それで独立した三世界になっている。この規則を the sequence of tenses (時制の一致) と呼ぶ。日本人の初学者が英論文を書くときに難渋する規則である。 

世界観は、人生の始まりにおいては白紙の状態である。人生経験を積むにしたがって、各人がその内容を自分自身で埋めて行く。自己の 'あるべき姿' (things as they should be) もこの中にある。来るべき世界の内容を語ることは、時代を先取りすることである。

自己のその内容 (非現実) を基準にとって現実 (things as they are) の内容を批判 (縦並びの比較) すれば、批判精神 (critical thinking) の持ち主になれる。批判精神のない人の文章は、ただ現実の内容の垂れ流しになる。全ての事柄は他人事になる。これは子供のようなものである。日本語の文法には時制がない。だから、日本人には世界観がない。そして、日本人には批判精神がない。残念ながらマッカーサ元帥の '日本人12歳説' を否定できる人はいない。  

意見は比較の問題である。現実の内容と非現実の内容があれば批判精神が発揮できる。英米人の意見はこれである。これは縦並びの比較ということができる。建設的である。進歩が期待できる。希望が持てる。現実の内容だけであれば、その比較は '現実' '現実' の上下判断 (横並びの比較) になり、'どっちもどっちだ' がある。無力感に苛まれる。この種の比較は復讐に復讐を重ねる民族同士の争いの原動力にもなっていて進歩が期待できない。

非現実の内容は人様々である。非現実の内容がなければあるのは現実だけで、その正解は一つである。日本人がともすれば異口同音の内容を語るのはこのためである。     

わが国のマスコミも現実の内容をただ垂れ流す。個人の価値判断が抜け落ちている。現実の正解はただ一つであるから、どんぐりの背比べで個性がない。それで、日本人は個人主義が何であるかを理解することが難しい。本人にも相手にも何を考えているのかわからない。だから、誰からも信頼されない。世界観に基づく協力者が得られないので社会に貢献する度合いが限られる。  

イザヤ・ベンダサンは、自著 <日本人とユダヤ人> の中で ‘自らの立場’ について以下のように述べています。   

何処の国の新聞でも、一つの立場がある。立場があるというのは公正な報道をしないということではない。そうではなくて、ある一つの事態を眺めかつ報道している自分の位置を明確にしている、ということである。 読者は、報道された内容と報道者の位置の双方を知って、書かれた記事に各々の判断を下す、ということである。 ・・・・日本の新聞も、自らの立場となると、不偏不党とか公正とかいうだけで、対象を見ている自分の位置を一向に明確に打ち出さない。これは非常に奇妙に見える。 物を見て報道している以上、見ている自分の位置というものが絶対にあるし、第一、その立場が明確でない新聞などが出せるはずもなければ読まれるはずもない。・・・・・ (引用終り)    

 

>映画の合間には、国際ニュースが上映され、同様のプロパガンダが行われました。 >・神道指令による神話・神社の否定 >・映画による洗脳...等々   

 

ご苦労様なことですね。言語の仕組みから説き起こさないと序列社会の仕組み (mechanism) は解けることがないですね。   

 

>GHQのこれらの手口によって日本人は戦後75年たった今でも、学校で「神話」や「神社」について一切教わることはなく、 まるで、脳の一部を切り取られてしまったかのように、日本人としてのアイデンティティが失われてしまったのです。  

 

日本の文化には形式があって内容 (教え) がない。だから、特に形式には拘る必要があります。 あるのは日本人が良い気分・雰囲気を求める姿だけ。すると、生まれた時には宮参り。結婚式はキリスト教会。死んだときには葬式仏教の厄介になる。無哲学・能天気の日本人は内容などの矛盾を苦にすることはない。       

 

>しかし、「日本最古の神社の""を読み解くことで、日本人が失われた神話や神道の記憶が蘇る」と言います。  

 

宗教の原初的な形態は霊的存在への信仰ですね。   

 

>その為にもボクたちは神社という""から先人たちの歴史を学ぶ事によって日本本来の思想が呼び起こされ、GHQによって失われた日本人のアイデンティティを取り戻すことができるのです。      

 

アニミズム (animism) は原始 (未開) 宗教の特徴ですね。   

我々日本人は日本語と英語の両言語を良く学び、思考における時制の大切さを十分に理解する必要がありますね。英語にある時制 (tense) を使った考え方を会得すれば、我々は自己の意思 (will) を明らかにすることも可能になるし、自分自身の世界観 (world view) を持つことも出来ます。さすれば我々は国際社会において相手の理解も得られ、未来社会の建設に協力することも可能になります。かくして、我々日本人は、人類の進歩に一層の貢献が可能になるでしょう。  

 

『有能な人材が世界から日本に集まり、ここで世界に向けてサクセスストーリーが生まれるという国家を目指すべきです。 このための具体的な政策課題として (1)英語を第2公用語にする (2)定住外国人に地方参政権を与える (3)インターネットの接続料はじめ知的生産活動の基本コストを諸外国並みにする (4)日本の制度やシステムの中で国際基準と合致しないものを一括して見直す―の4点を提案したいと思います。』 (茂木敏充外務大臣)   

 

 

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変わらぬ教室 2/2  

2021-08-25 03:19:38 | 文化

 

>■日本の教育と海外の教育の違い      

>海外の教育スタイルは、日本の教育とは大きく異なります。>1つ例を言えば、アメリカなどでは日本には存在しない「飛び級」ができる制度があったりしますよね。 

 

大人を越える子供の出現も夢ではありませんね。     

 

>それぞれの国の教育スタイルは背景に宗教や文化などが大きく影響しており、日本が丸ごとマネをすることが不可能な部分もありますが、参考になる部分などはたくさんあります。  

 

我々日本人は日本語と英語の両言語を良く学び、思考における時制の大切さを十分に理解する必要がありますね。英語にある時制 (tense) を使った考え方を会得すれば、我々は自己の意思 (will) を明らかにすることも可能になるし、自分自身の世界観 (world view) を持つことも出来ます。さすれば我々は国際社会において相手の理解も得られ、未来社会の建設に協力することも可能になります。かくして、我々日本人は、人類の進歩に一層の貢献が可能になるでしょう。  

 

『有能な人材が世界から日本に集まり、ここで世界に向けてサクセスストーリーが生まれるという国家を目指すべきです。 このための具体的な政策課題として (1)英語を第2公用語にする (2)定住外国人に地方参政権を与える (3)インターネットの接続料はじめ知的生産活動の基本コストを諸外国並みにする (4)日本の制度やシステムの中で国際基準と合致しないものを一括して見直す―の4点を提案したいと思います。』 (茂木敏充外務大臣)   

 

>■参加型の授業形式       

>授業形式で言うと、海外では日本と違い「生徒参加型の授業」が一般的です。 >小学生でも全員の前に一人で立ち自分の意見をプレゼンテーションして、その後クラスメイトとディスカッションします。 >そうやって自ら発信する力をつけ、自分という人物に自信を持つことができるのです。 

 

見ることのできる内容は本当の事である。見ることのできない内容は嘘である。誰しも嘘つきにはなりたくない。だから、自分の頭の中にある非現実の内容は語らない。これが、日本人の思考停止の原因である。

現実と非現実 (考え) は区別して語らなければならない。そうでなければ、現実の内容は白昼夢と区別できない。これはキチガイ沙汰に違いない。だから、日本人は自分の持つ非現実 (考え) を語らない。これは子供と同じ状態である。日本人の考えの内容は哲学にはならずして、支離滅裂な空想・妄想の類になる。だからわが国では英米式の高等教育が成り立たない。お陰様で、わが国は '漫画・アニメ' の大国になった。  

現実の内容は頭の外にある。だから、見ることが可能である。見ればわかる。(Seeing is believing.) アニマルでもわかる。だから、考える必要はない。これは楽ちんである。正解はただ一つである。これは人とアニマルが共有する非言語の世界である。

非現実 (考え) の内容は頭の中にある。だから、見ることができない。それは、ただの話である。その内容を知るには文法に基づいて単語の内容を逐一理解しなくてはならない。これは、骨の折れる仕事である。だから、通常、日本人は理解をしない。忖度 (推察) で代用して済ませている。理解は人間だけが持つ言語の世界である。その対極は ‘なれ合い’ とか‘なあなあ主義’ である。これらは、真の意味での検討や意見の交換などをせず、お互いに「なあ、いいだろう」ぐらいの話し合いで全てを済ませることである。理解と忖度は似て非なるものであるから注意が必要である。忖度 (推察) は聞き手の勝手な解釈であるから、話し手には何の責任もない。たとえ両者の間に齟齬が存在しても議論にもならない。現実直視になっていないことを忖度の主に指摘しても、'だって、私は本当にそう思ったのだから仕方がないではないか' と懸命に反発するので話にならない。かくして、日本人の対話は不可能になる。  

関東軍参謀であった東條英機は、戦後の東京A級戦犯裁判の法廷で、「自分は天皇の忠実な臣下として戦ったまでだ」と答え、ならばこの戦争は天皇の意思・命令によったのかと尋ねられると、「自分が独断でやった」と言葉を変えている。これは日本人に意思の疎通が欠けていることを示す実例である。日本人には意思がない。だから東條といえども天皇の意思・命令を確認することはできない。それで、東條は天皇に対して忖度を使ったのである。

司馬遼太郎は、<十六の話>に納められた「なによりも国語」の中で、片言隻句でない文章の重要性を強調しています。

 「国語力を養う基本は、いかなる場合でも、『文章にして語れ』ということである。水、といえば水をもってきてもらえるような言語環境 (つまり単語のやりとりだけで意思が通じ合う環境) では、国語力は育たない。、、、、、、ながいセンテンスをきっちり言えるようにならなければ、大人になって、ひとの話もきけず、なにをいっているのかもわからず、そのために生涯のつまずきをすることも多い。」   

 

>海外では日本のように先生が前に立ってずっと話をしているのをノートにとるという一方通行的な授業スタイルではありません。  

 

受け身スタイルは流行りませんね。日本人は受け身の練習に余念がありませんね。         

 

>日本のような授業スタイルでは子供が自ら発信する力が全く養えませんし、意見交換もできません。

 

そうですね。日本スタイルでは自己実現 (創造的活動の慾求) を満たすことは難しいでしょうね。     

 

>その子がこの内容についてどう思っているのか、この内容の疑問点はどこなのか、みんなはどう感じているか、先生もそれを把握できないまま流れるように授業だけが進んでしまうことが懸念されます。

 

そうですね。時は流れる。ああ空しい。     

言語は伝達の手段であるばかりでなく、思考の重要な手段でもあります。ですから我々の考えの疎かな所は日本語のせいであることもあります。   

非現実 (考え) の内容は、英語の時制のある文章により表される。非現実の内容はそれぞれに独立した三世界 (過去・現在・未来) の内容として表される。その内容は世界観と言われている。これらの三世界は時制により構文が異なるので、同次元で語ることができない。それで独立した三世界になっている。この規則を the sequence of tenses (時制の一致) と呼ぶ。日本人の初学者が英論文を書くときに難渋する規則である。 

世界観は、人生の始まりにおいては白紙の状態である。人生経験を積むにしたがって、各人がその内容を自分自身で埋めて行く。自己の 'あるべき姿' (things as they should be) もこの中にある。来るべき世界の内容を語ることは、時代を先取りすることである。

自己のその内容 (非現実) を基準にとって現実 (things as they are) の内容を批判 (縦並びの比較) すれば、批判精神 (critical thinking) の持ち主になれる。批判精神のない人の文章は、ただ現実の内容の垂れ流しになる。全ての事柄は他人事になる。これは子供のようなものである。日本語の文法には時制がない。だから、日本人には世界観がない。そして、日本人には批判精神がない。残念ながらマッカーサ元帥の '日本人12歳説' を否定できる人はいない。  

意見は比較の問題である。現実の内容と非現実の内容があれば批判精神が発揮できる。英米人の意見はこれである。これは縦並びの比較ということができる。建設的である。進歩が期待できる。希望が持てる。現実の内容だけであれば、その比較は '現実' '現実' の上下判断 (横並びの比較) になり、'どっちもどっちだ' がある。無力感に苛まれる。この種の比較は復讐に復讐を重ねる民族同士の争いの原動力にもなっていて進歩が期待できない。

非現実の内容は人様々である。非現実の内容がなければあるのは現実だけで、その正解は一つである。日本人がともすれば異口同音の内容を語るのはこのためである。     

わが国のマスコミも現実の内容をただ垂れ流す。個人の価値判断が抜け落ちている。現実の正解はただ一つであるから、どんぐりの背比べで個性がない。それで、日本人は個人主義が何であるかを理解することが難しい。本人にも相手にも何を考えているのかわからない。だから、誰からも信頼されない。世界観に基づく協力者が得られないので社会に貢献する度合いが限られる。  

 

>リンクに続く   

>以上    

 

 

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変わらぬ教室 1/2  

2021-08-25 02:57:44 | 文化

>369958        日本の教育問題はどこにあるか  >匿名希望 ( 27 会社員 )           21/08/24 PM09

>日本の教育問題は、社会状況が変化していく中で何も変わっていません。 >昔から変わらぬ教室、教科書、授業方式、カリキュラム。 >このような体制で本当に子供たちの将来に役に立つのか。 >疑問に思うところが多くあるように思います。

>----------------------------以下引用----------------------------

>リンク

>日本の教育は150年もの間、変化をしていないというのは本当のようです。

 

日本人のメンタリティ (考え方) は不動のようですね。   

言語は伝達の手段であるばかりでなく、思考の重要な手段ですね。日本語が変わらないから、日本人のメンタリティも変わらない。       

 

>日本は戦前戦後、海外のさまざまな文化を取り入れて発展を遂げてきました。 >そんな中でも150年も変わらない日本の教育システムがあります。

 

そうですね。取り入れるの文化は変わらなかった。暗記の文化ですね。      

 

>■日本の教育の問題点その①「集団&受け身スタイル」   

>日本では集団教育や一方的な講義スタイルの授業が特徴的です。

 

伝達があって、思考がない。   

信じて丸呑みするためにも読むな。話題や論題を見つけるためにも読むな。しかし、熟考し熟慮するために読むがよい。’     フランシス・ベーコン   

読書は、他人にものを考えてもらうことである。本を読む我々は、他人の考えた過程を反復的にたどるにすぎない。’   アルトゥル・ショーペンハウエル   

 

>先生の授業をクラスの生徒全員で聞き、学期末にテストを実施し、その結果で成績を決めるというスタンスです。

 

日本の教育の目的は人間序列の形成にありますね。   

 

>諸外国の教育方法とは全く異なる、常に生徒が受け身の姿勢となる教育です。

 

日本人には意思がない。だから、受動があって能動がない。   

日本人には意思 (will) がない。意思は英語の未来時制の文章内容であるが、日本語の文法には時制 (tense) というものがないので、日本人には意思がない。

意思のあるところに方法 (仕方) がある。Where there's a will, there's a way. 日本人には意思がない。仕方がないので無為無策でいる。優柔不断・意志薄弱に見える。能動がなくて受動ばかりの生活を送っている。戦時中は玉砕するまで戦い抜いた日本兵であった。生きる力 (vitality) が不足している。困った時には '他力本願・神頼み' になる。

 ' やってみせ、言って聞かせて、させてみせ、ほめてやらねば、人は動かず' 山本五十六 (やまもと いそろく)    

 

>授業は生徒が分からなくても勝手に進み、反対に分かっていても飛ばすことはできません。

 

個人の都合は完全に無視されていますね。個人主義 (individualism) は利己主義 (egotism) と間違えられますね。        

 

>子供一人一人の能力を伸ばすよりも集団で足並みを揃えることに重点が置かれています。      

 

集団で足並みをそろえるためには、出る杭を打たなければなりません。没個性が日本人の理想ですね。       

 

>このような集団&受け身スタイルの教育では個人個人の得意な分野や眠っている才能を開花させたり伸ばしたりすることが難しいと思われます。   

 

そうですね。   

 

>■日本の教育の問題点その②「偏差値重視の勉強」     

>「入試に合格するため」または「偏差値が高い学校に入るため」の教育がまさしく日本スタイルです。

 

日本人には上と見るか・下と見るかの判断が最重要ですからね。 

日本語には階称 (言葉遣い: hierarchy) というものがある。だから日本語を発想する場合には、‘上と見るか・下と見るか’ の世俗的な判断が欠かせない。上下判断 (序列判断) には、通常、勝負の成績が用いられる。近年では偏差値なども都合の良い資料として利用されている。わが国が学歴社会であるというのも、実は序列社会の言い換えに過ぎない。だから、わが国の学歴社会は学問の発展には何ら貢献していない。   

日本人の礼儀作法も、序列作法に基づいている。だから、序列社会の外に出たら序列なきところに礼儀なしになる。礼儀正しい日本人になる為には、世俗的な序列順位を心得ている必要がある。'人を見損なってはいけない' という想いが強迫観念の域に達していて、人々は堅ぐるしい日常生活を送っている。こうした観念は天皇制・家元制度・やくざの一家の構造にまでつながっている。

日本人は序列の存在を知れば、それが一も二も無く貴いものであると信ずる共通の序列メンタリティを有している。これは序列信仰の域に達している。日本人の尊敬は、序列社会の序列順位の単なる表現に過ぎないため、個人的精神的な意味がない。下々の衆は上々の衆の祟り (仕返し) を恐れて神妙にしている。上々が無哲学・能天気である事については、下々にとって何ら気になることではない。だから、日本人の尊敬には浅薄さが付きまとう。   

政治家にも、政治哲学がない人が多い。我々の未来社会の有様を相手に言って聞かせる術がない。それは非現実 (考え) の内容を盛り込むための構文が日本語に存在しないからである。序列人間は人間の序列を作っている。上位の者 (先輩) と下位の者 (後輩) の間に自分を差し挟むことにより自分たちの存在を確認し合っている。だから、自己の所属する序列に並々ならぬ帰属意識を持っていて義理 (序列関係から生じる義務) を果たすことにより仕事にやりがいを感じている。周囲の序列仲間が自分たちの序列に対する貢献度を評価する。これにより自己の順位は上昇する可能性がある。それが日本人の人生における楽しみである。    

 

>偏差値や有名大学のブランドばかりを気にして、そこが最終目標のゴールと認識しており、そのゴールを目指すための勉強が日本では実施されています。>日本の親御さんや先生の多くは子供の志望校を選ぶ時も、偏差値を基準として判断し、偏差値重視で決定します。

 

そうですね。日本人の社会は序列社会 (上下社会・縦社会) ですからね。  

 

>その子供の個性を見るのではなく、偏差値を基準として学校選びをするという現状です。

 

そうですね。何でも序列判断ですね。    

 

>試験で成績や点数の高かった生徒が「優秀なすばらしい生徒」と考えられているため、試験で高い点数を取るための教育を保護者も求めているのです。

 

今でも見栄と外聞の世の中ですね。     

 

>このような教育スタイルでは子供の個性が重視されず、試験のため、偏差値のための勉強という、本来の「自ら学ぶ」という勉強の姿勢からはかけ離れているという意見もあります。

 

そうですね。個人主義が完全に無視されていますね。だから、わが国には偉大な個人が育たない。        

 

>■日本の教育の問題点その③「暗記学習に重点」    

>日本の教育では「記憶する学習」=「暗記学習」に重点を置いているため、勉強内容は暗記することがほとんどで、子供が自ら考えたり疑問に思ったり、提案したりする能力が伸びないと言われています。

 

日本人は思考を停止していますから、内容を増やすためには暗記しかありませんね。暗記して受け売りするのが日本人の稼業ですね。     

イザヤ・ベンダサンは、自著<ユダヤ人と日本人>の中で、我が国の評論家に関して下の段落のように述べています。

評論家といわれる人びとが、日本ほど多い国は、まずあるまい。本職評論家はもとより、大学教授から落語家まで (失礼! 落語家から大学教授までかも知れない) 、いわゆる評論的活動をしている人びとの総数を考えれば、まさに「浜の真砂」である。もちろん英米にも評論家はいる。しかし英語圏という、実に広大で多種多様の文化を包含するさまざまな読者層を対象としていることを考えるとき、日本語圏のみを対象として、これだけ多くの人が、一本のペンで二本の箸を動かすどころか、高級車まで動かしていることは、やはり非常に特異な現象であって、日本を考える場合、見逃しえない一面である。 (引用終り)  

 

>暗記する項目の背景や経緯などはあまり触れることは無く、ただそれを大量に覚えれば良いというスタンスです。  

 

それを詰め込み主義の教育というのでしょうね。   

 

>英語に関しても同じことが言えて、スピーキングやリスニングよりも文法から学ぶことに重点を置いています。 >日本史についても同じです。「〇年〇月に○○の乱」が起こったという事実を覚えることが先行し、その背景や何故そのような事になったのか、それで日本はどう変わったのか、などはほとんど勉強しません。 

 

我が国では学生個人のリーズン (理性・理由・適当) を育てないですね。   

 

>日本の教育ではテストの点数を上げることが一番重要とされているので、テストのために全て丸暗記してテストに備えるという学習方法なのです。

>これではテストが終われば忘れてしまうことが多く、社会人になった時には学校で学習した事はほとんど覚えていない(役に立たない)という結果になってしまうのです。

 

日本の教育は単なる処世術 (損得勘定) の習得ですからね。本物の学問とは何ら関係がない。国際社会での日本の大学のランクは落ちて行くばかり。      

 

 

 

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学者犬教育  

2021-08-22 16:39:58 | 文化

>369826        日本ではなぜ「学者犬」教育が続けられるのか >匿名希望  21/08/21 PM09 【印刷用へ】

>リンク

>□明治の教育方法が続けられる日本     

>明治以後に始まった日本の教育は、欧米に追いつけというキャッチアップ教育であった。>欧米という主人のやることを常にまねること、これが学ぶということの真相であった。 

 

日本語の学ぶとは、真似てすることですね。   

 

>西欧に追いつくには、何も考えないでひたすら物まねをすることが効果的である。  

 

そうですね。自分で新しく考えだすよりも他人の真似をする方が簡便で進歩が早いですからね。   

 

>とりあえず欧米の学問はすべて真実であると仮定し、それをかつての文部省が各学校に流布し、教師がそれを教え込むのである。>知識は一方的に教壇から伝えられ、生徒はそれに疑いをはさむことなく、反芻していく。

 

それはスプーン・フィード (spoon-feed) ですね。生徒に自主性を持たせずに押し込むように教えることですね。   

 

>今でも全国で行われている教育方法は、たいがいこれである。>先生の知識は絶対的に正しく、それに疑義をはさむことは、師への冒涜であり、それを行うと厳しい評定、すなわち最低の成績がつく。   

 

権威主義の世の中ですね。権威者の発言をゆめゆめ疑うことなかれ、、、ですね。    

 

>だから疑いをはさまずひたすら与えられた知識を覚え、先生の前で学者犬よろしく、先生の顔色をうかがいながら正解を選ぶのである。

 

顔色を窺うのは忖度 (推察) の表れですね。     

理解と忖度は似て非なるものであるから注意が必要である。忖度 (推察) は聞き手の勝手な解釈であるから、話し手には何の責任もない。たとえ両者の間に齟齬が存在しても議論にもならない。現実直視になっていないことを忖度の主に指摘しても、'だって、私は本当にそう思ったのだから仕方がないではないか' と懸命に反発するので話にならない。かくして、日本人の対話は不可能になる。 

 

>しかし、日本ではなぜ教育は受動的になっているのだろうか。

 

それは、日本人に意思がないからです。意思がなければ能動もない。だから、受動ばかりの生活になり、積極性が無く消極的である。それで日本人はおとなしい。  

日本人には意思 (will) がない。意思は英語の未来時制の文章内容であるが、日本語の文法には時制 (tense) というものがないので、日本人には意思がない。

意思のあるところに方法 (仕方) がある。Where there's a will, there's a way. 日本人には意思がない。仕方がないので無為無策でいる。優柔不断・意志薄弱に見える。能動がなくて受動ばかりの生活を送っている。戦時中は玉砕するまで戦い抜いた日本兵であった。生きる力 (vitality) が不足している。困った時には '他力本願・神頼み' になる。

 ' やってみせ、言って聞かせて、させてみせ、ほめてやらねば、人は動かず' 山本五十六 (やまもと いそろく)   

 

>確かに儒教的教育による「読書百遍、自ずから見る」の教えからであるが、これは教育に限ったはなしではない。

 

そうですね。 どんなに難解な書物でも、繰り返して読むうちに自然に意味が分かるようになるということですね。それは書物によりけりでしょうね。         

 

>□役に立つ教育の恐ろしさ   >もちろんこうした権威的教師による、従属型の教育は日本にだけ存在していたわけではない。  

 

そうですね。考えさせる教育は難しいですからね。      

 

>19世紀においては、イギリスでも、生徒の質問など受け付けず、ただ機械的に知識を詰め込む授業が一般的であった。>工場で大量生産される商品のように、どの生徒も同じ規格で「金太郎あめ」のような人間として生産される。

 

工業による大量生産の始まった時代でしたね。   

 

>イギリスの教育も、下層階級のものには単純な、役に立つ知識の暗記教育を義務付け、けっしてその内容について質問させないという教育を施していたのである。>マルクスは『資本論』第1巻の「分業とマニュファクチュア」の中で、アダム・ファーガソンの言葉を引用しているが、その言葉はこうだ。>「無知は迷信の母であるように産業の母である。>熟慮と想像力は誤謬をつくりだす」と。 

 

正しい考え方がまだ普及していなかった時代ですね。    

全ての考えは、文章になる。文章にならないものは考えではない。矛盾を含んでない文章は、全て正しい考えを表している。矛盾を含んでいる考えも、その矛盾を取り除けば正しい考えになる。矛盾を発見し取り除くためには議論・対話が有効である。議論・対話を普及させよう。考えの内容は、人によりまちまちである。だから、正解は一つではない。幾らでもあるから、人間は個性的になる。考えのない人達は没個性的である。だから、自己実現が難しい。

 

>つまり、無知ほど産業発展に結びつくものはないと述べているのだ。 >労働者はつべこべ言わずに、ただ暗記すればいいということだ。

 

そうですね。アニマルの調教と同じですね。狩猟・牧畜の民族にとって調教は非常に重要な技術ですね。      

 

>しかし、さすが21世紀には、こうした教育はまったく役に立たなくなっている。 >今必要なものは、知識ではなく、知識をどう使うかである。

 

ビッグ・データの時代になりましたね。個人主義の普及が創造力を育てる時代になりましたね。       

 

>知識であればいつでも携帯電話のホームページなどを使って、ただちに調べることができる。  

 

そうですね。記憶装置の大容量は人間の暗記力を上回りましたね。   

 

>必要なのは、知識の意味であり、その知識は本当に使えるものなのかどうかという熟慮、本当に役に立つものはなにかという想像力のほうである。

 

それは創造力でしょうね。現実の内容を現実の中で再現すれば、それは模倣をしたことになる。非現実の内容を現実の中で実現すれば、それは創造になる。特亜三国の民は、模倣が得意で創造が苦手である。だから、模倣の競争には参入者が多く、創造には少ない。模倣の競争は没個性の競争であり過酷なものになりがちである。アニマル風の競争である。個性を伸ばそう。創造力をつけよう。そして、ゆとりある人間らしい生活をしよう。     

 

>熟慮とは知識の意味するところを知ることであり、その知識が生まれた背景を、根源までさかのぼって、しっかりと知ることである。  

 

 ‘読書は、他人にものを考えてもらうことである。本を読む我々は、他人の考えた過程を反復的にたどるにすぎない。’  アルトゥル・ショーペンハウエル  

 ‘信じて丸呑みするためにも読むな。話題や論題を見つけるためにも読むな。しかし、熟考し熟慮するために読むがよい。’  フランシス・ベーコン   

 

>そうなると教師はそれを説明しなければならないし、答えられなければ弟子と一緒に考え、場合によってはそんな知識など捨ててしまう勇気を持たざるをえない。     

 

そうですね。思考停止と暗記だけの学生は、受け売り専門の人になるしかありませんね。    

 

>□教師はむやみに教えようとするな    >教師の役割は熟慮するよう仕向けることである。      

 

優秀な人は「純粋によく観察する」が、凡人は「自分の期待したもの」しか見ようとしない。

よく観察するとは現実のただ一つの内容 (事実) と非現実の多数の内容 (考え) を勘案して判断することですね。オオカミと七ひきの子ヤギたちの話では後者に熟慮が足りなかったのが禍のもとです。

 

>生徒は自分で考えるものなのだ。  

 

そうですね。非現実 (考え) の内容は、英語の時制のある文章により表される。非現実の内容はそれぞれに独立した三世界 (過去・現在・未来) の内容として表される。その内容は世界観と言われている。これらの三世界は時制により構文が異なるので、同次元で語ることができない。それで独立した三世界になっている。この規則を the sequence of tenses (時制の一致) と呼ぶ。日本人の初学者が英論文を書くときに難渋する規則である。 

世界観は、人生の始まりにおいては白紙の状態である。人生経験を積むにしたがって、各人がその内容を自分自身で埋めて行く。自己の 'あるべき姿' (things as they should be) もこの中にある。来るべき世界の内容を語ることは、時代を先取りすることである。

自己のその内容 (非現実) を基準にとって現実 (things as they are) の内容を批判 (縦並びの比較) すれば、批判精神 (critical thinking) の持ち主になれる。批判精神のない人の文章は、ただ現実の内容の垂れ流しになる。全ての事柄は他人事になる。これは子供のようなものである。日本語の文法には時制がない。だから、日本人には世界観がない。そして、日本人には批判精神がない。残念ながらマッカーサ元帥の '日本人12歳説' を否定できる人はいない。  

意見は比較の問題である。現実の内容と非現実の内容があれば批判精神が発揮できる。英米人の意見はこれである。これは縦並びの比較ということができる。建設的である。進歩が期待できる。希望が持てる。現実の内容だけであれば、その比較は '現実' '現実' の上下判断 (横並びの比較) になり、'どっちもどっちだ' がある。無力感に苛まれる。この種の比較は復讐に復讐を重ねる民族同士の争いの原動力にもなっていて進歩が期待できない。

非現実の内容は人様々である。非現実の内容がなければあるのは現実だけで、その正解は一つである。日本人がともすれば異口同音の内容を語るのはこのためである。      

わが国のマスコミも現実の内容をただ垂れ流す。個人の価値判断が抜け落ちている。現実の正解はただ一つであるから、どんぐりの背比べで個性がない。それで、日本人は個人主義が何であるかを理解することが難しい。本人にも相手にも何を考えているのかわからない。だから、誰からも信頼されない。世界観に基づく協力者が得られないので社会に貢献する度合いが限られる。  

 

>次から次へと熟慮せず西洋の学問を追い求め、自らの哲学思想もなくことにあたり、受け売りの知識だけを肥大化させた小賢しい人々、こうした人々を養成することをいますぐやめ、自分で考える「活きた人民」をつくりあげろというのだ。  

 

そうですね。思考を停止して暗記に励む学生は社会に出てから受け売り専門の人となる。   

イザヤ・ベンダサンは、自著<ユダヤ人と日本人>の中で、我が国の評論家に関して下の段落のように述べています。

評論家といわれる人びとが、日本ほど多い国は、まずあるまい。本職評論家はもとより、大学教授から落語家まで (失礼! 落語家から大学教授までかも知れない) 、いわゆる評論的活動をしている人びとの総数を考えれば、まさに「浜の真砂」である。もちろん英米にも評論家はいる。しかし英語圏という、実に広大で多種多様の文化を包含するさまざまな読者層を対象としていることを考えるとき、日本語圏のみを対象として、これだけ多くの人が、一本のペンで二本の箸を動かすどころか、高級車まで動かしていることは、やはり非常に特異な現象であって、日本を考える場合、見逃しえない一面である。 (引用終り)    

 

 

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詰め込み教育の弊害 2/2  

2021-08-22 03:51:52 | 文化

 

>陸軍士官学校はどうだったでしょうか。 >それは1918年のシベリア出兵でよく見えます。 >ロシア革命の列強国による干渉戦争だったこの派兵は海軍長老の山本権兵衛や原敬首相の日米共同歩調の政策・指令に対して、陸士-陸大出身者により率いられた陸軍参謀本部はこれを無視し、列強国が撤兵した後も何の展望も戦略もなく駐留し続けました。 >目的もなく極寒の地に駐留させられる兵士達の中に不満が渦巻きました。 >このときの陸大卒の司令官津野一輔は荒んだ兵士達の略奪強姦を鎮めるために陸軍公認の慰安所を設置しました。 >従軍慰安婦問題の先駆けです。 >結局この派兵は当時の国家予算12億円に対して9億円を浪費し、尼港事件のような多数の日本人の命が失われ、その挙句に日米関係の悪化と世界的な孤立という歴史的に全く馬鹿げた派兵に終わりました。  

 

日本人には文民政治の価値がわからなかったのですね。 国民が思考を停止している国にはどのような特徴があるでしょうかね。

 'どのような状況にも普遍的に通用する真理や法則、基本概念や倫理がありうるという考え方が、日本にはほとんど存在しない。' (カレル・ヴァン・ウォルフレン)    

周りの影響を受けずに、真に独立した考えができる知識人がいない。’ ( グレゴリー・クラーク)

 '日本人は政治にそれほど関心がないのに政府に依存し、国からの発言を待っている。'  (ウスビ・サコ)   

 

>国内では高騰する米価の調整に官僚主導の行政が失敗し、軍需品にかこつけた買占めが横行して日本経済は深刻なインフレと不景気に見舞われました。 >米騒動という国民の暴動が各地に起こりました。 >また、この派兵をめぐる国際外交では、後に首相となる幣原喜重郎駐米大使の失敗につぐ失敗の外交が挙げられていますが、幣原は陸軍に対して外交は外務省一元外交である旨を通告し、現在の省庁縦割り行政の先駆けになりました。

 

序列社会においては縦割り行政しか能率よく稼働できませんね。   

 

>陸軍は「戦争遂行に素人は口を出すな」、海軍は「海戦に素人は口を出すな」の首相や元勲をも超える縄張り意識が難関出身者達の間で深刻に形成されていった時でもありました。  

 

わが国では、難関出身者がもてはやされる。国民にリーズン (理性・理由・適当) というものがないからである。日本人からはリーズナブルな答えは期待できない。  

日下公人氏は、<よく考えてみると、日本の未来はこうなります。> の中で、日本人に関するW.チャーチルの感想を以下のごとく紹介しています。

日本人は無理な要求をしても怒らず、反論もしない。笑みを浮かべて要求を呑んでくれる。しかし、これでは困る。反論する相手をねじ伏せてこそ政治家としての点数があがるのに、それができない。

 それでもう一度無理難題を要求すると、またこれも呑んでくれる。すると議会は、今まで以上の要求をしろと言う。無理を承知で要求してみると、今度は笑みを浮かべていた日本人が全く別人の顔になって、「これほどこちらが譲歩しているのに、そんなことを言うとは、あなたは話のわからない人だ。ここに至っては、刺し違えるしかない」と言って突っかかってくる。

 英国はその後マレー半島沖で戦艦プリンスオブウェールズとレパルスを日本軍に撃沈され、シンガポールを失った。日本にこれほどの力があったなら、もっと早く発言して欲しかった。日本人は外交を知らない。(引用終り)     

 

>さて、シベリア出兵後のインフレ不況から大正13年に関東大震災が起き、日本経済は更に打撃を受けました。 >ここで山本権兵衛が再度内閣を組織しますが、摂政時代の昭和天皇暗殺未遂事件が起きてまたも退陣し、選挙管理内閣の清浦の後をついで東大首席の加藤高明が首相になりました。 >次のやはり東大首席の若槻礼次郎内閣のときに昭和の金融恐慌が起こりました。 >これは震災手形と呼ばれた債権が文字通り不良債権化したことから起きた恐慌で、破綻する銀行が相次ぎましたが若槻内閣は有効な手を打てず、総辞職します。  

 

天下の秀才ばかりで、わが国はどうにもなりませんね。序列信仰による我が国民への天罰ですね。        

 

>昭和天皇は明治天皇と同様に文官官僚による政治運営を希望したと伝えられていますが、東大卒外交官の幣原喜重郎の曖昧自由主義外交や若槻の経済失政の混乱で、長州閥陸大出身の田中義一内閣の登場を許すことになりました。

>田中は一転して文官官僚の政策を軟弱とみなし、外交方針も軍縮も全て反故にし、シベリア出兵の教訓を生かすことなく満州侵略の野望を膨らます満州関東軍参謀の陸大出身板垣征四郎や石原莞爾の暗躍を許すことになります。

>同じ関東軍参謀であった東條英機は、戦後の東京A級戦犯裁判の法廷で、「自分は天皇の忠実な臣下として戦ったまでだ」と答え、ならばこの戦争は天皇の意思・命令によったのかと尋ねられると、「自分が独断でやった」と言葉を変えています。 >これが真実だと思いますが、明治維新後に嘱望された日本のエリート達は陸士、海兵、或いは東大卒以外の人間の言葉には耳を貸さないという想像を絶するエリート意識の権化となり、それは天皇にまでも及ぶ凄まじいものになっていたのです。

 

我が国民の序列信仰のすさまじさですね。ちなみに、昭和天皇が送ったとされる手紙の全文はこちらにあります。

  『手紙をありがたう しつかりとした精神をもつて 元気で居ることを聞いて 喜んで居ます。 

   国家は多事であるが 私は丈夫で居るから安心してください 今度のやうな決心をしなければならない事情を早く話せばよかつたけれど 先生とあまりにちがつたことをいふことになるので ひ かへて居つたことを ゆるしてくれ 敗因について一言いはしてくれ   我が国人が あまりの皇国を信じ過ぎて 英米をあなどつたことである   我が軍人は 精神に重きをおきすぎて 科学を忘れたことである   明治天皇の時には 山県 大山 山本等の如き陸海軍の名将があつたが 今度の時は あたかも第一次世界大戦の独の如く 軍人がバツコして大局を考へず 進むを知つて 退くことを知らなかつたからです   戦争をつづければ 三種神器を守ることも出来ず 国民をも殺さなければならなくなつたので 涙をのんで 国民の種をのこすべくつとめたのである   穂積大夫は常識の高い人であるから わからない所があつたら きいてくれ   寒くなるから 心体を大切に勉強なさい   九月九日           父より   明仁へ』 

 

>まさにおのれの自尊心や虚栄のためならこの国が滅びようとも変えないという「詰め込み教育欠陥人間」と呼ぶにふさわしい最低の日本人に成り果てた姿でした。  

 

そうですね。見栄と外聞の世の中ですね。 無哲学・能天気の人では困ります。   

我々日本人は日本語と英語の両言語を良く学び、思考における時制の大切さを十分に理解する必要がありますね。英語にある時制 (tense) を使った考え方を会得すれば、我々は自己の意思 (will) を明らかにすることも可能になるし、自分自身の世界観 (world view) を持つことも出来ます。さすれば我々は国際社会において相手の理解も得られ、未来社会の建設に協力することも可能になります。かくして、我々日本人は、人類の進歩に一層の貢献が可能になるでしょう。  

 

『有能な人材が世界から日本に集まり、ここで世界に向けてサクセスストーリーが生まれるという国家を目指すべきです。 このための具体的な政策課題として (1)英語を第2公用語にする (2)定住外国人に地方参政権を与える (3)インターネットの接続料はじめ知的生産活動の基本コストを諸外国並みにする (4)日本の制度やシステムの中で国際基準と合致しないものを一括して見直す―の4点を提案したいと思います。』 (茂木敏充外務大臣)   

 

>張作霖爆殺にはじまる満州事変の勃発で、昭和天皇から叱責されて退陣した田中内閣の後を東大次席の浜口雄幸が引き継ぎますが、彼が片腕と頼む井上準之助の緊縮経済や金解禁は見事に失敗に帰して、日本経済は破綻寸前に追い込まれました。>浜口は恐ろしいほどの頑迷実直さで、井上はその傲岸不遜のためにテロに倒れますが、日本経済を救うのはまたしても金融恐慌のときの大蔵大臣、かのヘボンが創立した明治学院出身の高橋是清の積極経済政策でした。   

 

‘私は絶対に日本人を信用しない。昨日までの攘夷論者が今日は開港論者となり、昨日までの超国家主義者が今日は民主主義者となる。これを信用できるわけがない’  (あるアメリカの国務長官

変わり身の早さは日本人の得意芸ですからね。目先・手先の事柄に神経を集中させていますね。現実があって非現実 (考え) の無い人間の特徴ですね。    

 

 

 

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