4月1日。
午前中のうちに、関が原の石田三成戦陣跡を後にした・・・
私達でしたが。
本来の目的である・・・
「公園・アスレチック・サッカー・自転車」をするために
天候の良い太平洋側を目指すことにしました。
旧中山道を大垣方面に進みました。
大垣市街に入り、車が薄々渋滞気味になってきた頃から
すっかり天候は小春日和に・・・
大垣では、桜満開!
(伊吹山では、「ツボミ膨らむ・梅が満開期」でしたから、不思議です・・・)
(10~20キロほどの移動で、この変化です)
目指す公園は、適当な場所が見つかりましたので。
そこを目指して・・・
大垣市街、国道258号線との分岐で、伊勢湾・長島方面に右折しました。
(このへんから、今回の・・・妻!の罠中に入ります
)
大垣では、大垣城
の横を通り過ぎ
ちょっと後ろ髪引かれながら。
(ついでに言うと、国道21号線、そのまま直進すると・・・
有名な墨俣一夜城の記念館があります
)
国道258号線、名神道の高架下をくぐってから、しばらくしたところから、右折。
揖斐川を渡って、長良川沿いに、下流方面に向かって移動しました。
着いたところは・・・
海津市にある、国営木曽三川公園センターでした。
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(木曽三川公園と、シンボルのタワー)
着いてみると、何の変哲も無い、ふつ~の大きな公園でしたが。
なぜ、私がここに来てみたかったかと言うと・・・
こことここ
漫画「風雲児たち」(みなもと太郎)第3,4巻で・・・
江戸幕府・薩摩藩による木曽川河川改修事業について知り。
そのあまりの残酷さと
過酷な状況でもやり通した・・・事業の意義の深さ
もう、胸の詰まる内容でして。
一度、この地を訪れてみたいと思っていたからでした。
しかし。
着いてみたけど・・・
ほんと、ふつ~の公園で拍子抜け
特に歴史的経過については、触れられていないようでした。
(後から気付きましたが、公園内に輪中農家のモデルハウス?ありました。)
それでは、と思って・・・
(一番何かがありそうな)
長女と一緒に、タワーに登ってみることにしました。
(大人600円)
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タワーに上がって、伊勢湾(下流)を望むと・・・
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(見えにくいですが、右から、揖斐川・長良川・木曽川です)
(写真・右下角の松林が治水神社、油島提が長細く続いています)
たしかに、木曽三川・・・
揖斐川・長良川・木曽川、三つ並んでいるのだと、分かりました。
(地上に居たら、まっ平らで、全然実感ありません)

(上流方面:奥が木曽川、手前が長良川です)
(間に、なが~い背割提が続いています)
このタワー、すごく眺めが良いけど・・・
本当に木曽三川の眺めを見るためだけのもので、平日閑散期は採算取れているのか、ちょっと心配。
でも、ここに登ると、河川改修の意義を確認できますので
有効利用していってもらいたいものです。
タワーの一階には、パネル展示。
なぜだか、子供向けのテレビゲームみたいなもの・・・
(なまずがでてくるとか、そんなゲーム)
河川改修に関するものは、お堅いイメージで敬遠されているのか。
あまりありませんでした。
が。
パネルシアター?室があって、定時放映がありました。
江戸時代と明治時代の・・・河川改修、1部と2部がありましたが。
あいにく、放映を見るには、若干時間が余っていて・・・
長女の退屈は避けられないので、泣く泣く
あきらめました。
家に帰ってから。
ネット検索で、にわか勉強しましたよ。
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(見えにくいですが・・・
濃い青色の線が、木曽三川
ちょうど3つが交わるところに、三川公園があります)
(その1)
まず、中央に位置するのが、木曽川(一番右側の青線)
木曽山脈から流れ込む、暴れ川です。
何度となく、下流域の人は水害に悩まされてきました。
そこで、水害から尾張を守ろうと奮起したのが、豊臣秀吉です。
見てのとおり、木曽川に沿って、ぐるっと尾張(愛知県)を囲った・・・
御囲提(おかこいつつみ:ピンク線)が作られました。
飛騨川と木曽川が合流して、河口に向けて大きく蛇行する愛知県犬山市から
河口部の弥富まで、御囲堤が作られています。
江戸幕府では、他藩から尾張藩を警護するための意味合いもあったため
手厚く保護されてきました。
(その2)
しかしながら、御囲堤が出来たことによって。
木曽川の増水時には、美濃(岐阜県)側に水があふれ、前にも増して、水害に苦しめられるようになりました。
これは、木曽川よりも、長良川・揖斐川の方が海抜が低いことにも起因します。
ですから、長良川・揖斐川流域にも、より強固な堤を作る必要性が出てきました。
しかし、「木曽川よりも高い堤を作ってはいけない」という不文律も存在していたようで。
住民は、輪中集落を形成することで、水害に備えるしかありませんでした。
その間にも、何度となく幕府への陳情が続けられ・・・
それがようやく認められて行われたのが
薩摩藩による河川改修:宝暦治水でした。
(なぜに地縁のない薩摩が美濃へ?と疑問を持たれた方、是非リンクをお読みください!)
その第4期目で最大の難工事だった・・・
油島千本松締切提。
写真の赤線、木曽三川公園の麓の治水神社から河口に向けて、長細く続いています。
(その3)
私達が車で大垣市から公園まで移動してくる途中・・・
長良川の東側にずっと続いていたのが、背割提(せわりてい)。
(羽島市から長島町まで:黄色線)
いったい、いつ作られたのだろう?と思い、気になっていました。
宝暦治水には出てこないし、御囲堤とも違うし・・・
なかなか、背割提の地名を思い出せずに苦労しました
やっとこさ、地名を思い出して、検索にかけ、判明しました。
宝暦年間の治水工事が完了したものの。
根本的な水害の歯止めにはならず、その後も、度々水害がおこった濃尾地方。
明治時代になって、ようやく、近代的土木技術を生かした治水事業が行われました。
政府は、オランダ人のヨハネス・デレーケを招き、明治20年から25年かけて、工事を完了しました。
デレーケは・・・
・水害多発の原因は、木曽三川をはじめとする諸川の流出する土砂の堆積にある
・それは、河川流域における樹木の伐採によって引き起こされている
と述べ、「川を治めるにはまず山を治めるべし」という言葉を残しています。
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さて。
私と長女は、タワーを出てから。
油島千本松締切提の始まりに位置する・・・
治水神社に行ってみました。
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(治水神社全景)
すると、思ったとおり
まる印に十字マークの、薩摩藩の家紋と思しきマークが!
あちこちに見受けられました。
(瓦も、このマーク入り)
宝暦治水事業の経緯を説明する看板や、銅像などありました。
治水事業下の過酷な状況で病死された藩士
幕府のひどい仕打ちに抗議して亡くなった者
幕府側でも、薩摩藩に同情して、幕府に抗議・自害した者
治水に貢献された方々に感謝し、手厚く祀り、防水を祈願するための神社とお見受けしました。
(そろそろ、長女の機嫌が悪くなり、ゆっくり出来ませんでした)
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(中には鶏、外には野良猫、動物の多い神社でした)
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超!不機嫌の長女。(魔の二歳児)
「じゃあ、帰る?」
「いや~」
「じゃあ、まだ居る?」
「いや~」
「じゃあ、どうするの?」
「いやいや~」
魔の二歳児、炸裂していました。
その後、ご希望通り、公園に行ってひと遊び。
長男と一緒に遊んでました。
入れ違いにタワーに行った、次男と若!
いつまでも帰ってこないと思ったら・・・
タワー頂上から階段で降りてきて。
一階でずーっとお絵かき(なまずの絵)をしていたんだそうです。
それはそれで、良い思い出が出来て良かったね。

今回は、なんだか、私の行きたいところばかり行ってもらい・・・
感謝!感謝!でした。
ますます、家族奉仕に精を出さなきゃーね!
午前中のうちに、関が原の石田三成戦陣跡を後にした・・・
私達でしたが。
本来の目的である・・・
「公園・アスレチック・サッカー・自転車」をするために
天候の良い太平洋側を目指すことにしました。
旧中山道を大垣方面に進みました。
大垣市街に入り、車が薄々渋滞気味になってきた頃から
すっかり天候は小春日和に・・・
大垣では、桜満開!
(伊吹山では、「ツボミ膨らむ・梅が満開期」でしたから、不思議です・・・)
(10~20キロほどの移動で、この変化です)
目指す公園は、適当な場所が見つかりましたので。
そこを目指して・・・
大垣市街、国道258号線との分岐で、伊勢湾・長島方面に右折しました。
(このへんから、今回の・・・妻!の罠中に入ります
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大垣では、大垣城
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ちょっと後ろ髪引かれながら。
(ついでに言うと、国道21号線、そのまま直進すると・・・
有名な墨俣一夜城の記念館があります
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国道258号線、名神道の高架下をくぐってから、しばらくしたところから、右折。
揖斐川を渡って、長良川沿いに、下流方面に向かって移動しました。
着いたところは・・・
海津市にある、国営木曽三川公園センターでした。
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(木曽三川公園と、シンボルのタワー)
着いてみると、何の変哲も無い、ふつ~の大きな公園でしたが。
なぜ、私がここに来てみたかったかと言うと・・・
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漫画「風雲児たち」(みなもと太郎)第3,4巻で・・・
江戸幕府・薩摩藩による木曽川河川改修事業について知り。
そのあまりの残酷さと
過酷な状況でもやり通した・・・事業の意義の深さ
もう、胸の詰まる内容でして。
一度、この地を訪れてみたいと思っていたからでした。
しかし。
着いてみたけど・・・
ほんと、ふつ~の公園で拍子抜け
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特に歴史的経過については、触れられていないようでした。
(後から気付きましたが、公園内に輪中農家のモデルハウス?ありました。)
それでは、と思って・・・
(一番何かがありそうな)
長女と一緒に、タワーに登ってみることにしました。
(大人600円)
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タワーに上がって、伊勢湾(下流)を望むと・・・
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(見えにくいですが、右から、揖斐川・長良川・木曽川です)
(写真・右下角の松林が治水神社、油島提が長細く続いています)
たしかに、木曽三川・・・
揖斐川・長良川・木曽川、三つ並んでいるのだと、分かりました。
(地上に居たら、まっ平らで、全然実感ありません)
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(上流方面:奥が木曽川、手前が長良川です)
(間に、なが~い背割提が続いています)
このタワー、すごく眺めが良いけど・・・
本当に木曽三川の眺めを見るためだけのもので、平日閑散期は採算取れているのか、ちょっと心配。
でも、ここに登ると、河川改修の意義を確認できますので
有効利用していってもらいたいものです。
タワーの一階には、パネル展示。
なぜだか、子供向けのテレビゲームみたいなもの・・・
(なまずがでてくるとか、そんなゲーム)
河川改修に関するものは、お堅いイメージで敬遠されているのか。
あまりありませんでした。
が。
パネルシアター?室があって、定時放映がありました。
江戸時代と明治時代の・・・河川改修、1部と2部がありましたが。
あいにく、放映を見るには、若干時間が余っていて・・・
長女の退屈は避けられないので、泣く泣く
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家に帰ってから。
ネット検索で、にわか勉強しましたよ。
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(見えにくいですが・・・
濃い青色の線が、木曽三川
ちょうど3つが交わるところに、三川公園があります)
(その1)
まず、中央に位置するのが、木曽川(一番右側の青線)
木曽山脈から流れ込む、暴れ川です。
何度となく、下流域の人は水害に悩まされてきました。
そこで、水害から尾張を守ろうと奮起したのが、豊臣秀吉です。
見てのとおり、木曽川に沿って、ぐるっと尾張(愛知県)を囲った・・・
御囲提(おかこいつつみ:ピンク線)が作られました。
飛騨川と木曽川が合流して、河口に向けて大きく蛇行する愛知県犬山市から
河口部の弥富まで、御囲堤が作られています。
江戸幕府では、他藩から尾張藩を警護するための意味合いもあったため
手厚く保護されてきました。
(その2)
しかしながら、御囲堤が出来たことによって。
木曽川の増水時には、美濃(岐阜県)側に水があふれ、前にも増して、水害に苦しめられるようになりました。
これは、木曽川よりも、長良川・揖斐川の方が海抜が低いことにも起因します。
ですから、長良川・揖斐川流域にも、より強固な堤を作る必要性が出てきました。
しかし、「木曽川よりも高い堤を作ってはいけない」という不文律も存在していたようで。
住民は、輪中集落を形成することで、水害に備えるしかありませんでした。
その間にも、何度となく幕府への陳情が続けられ・・・
それがようやく認められて行われたのが
薩摩藩による河川改修:宝暦治水でした。
(なぜに地縁のない薩摩が美濃へ?と疑問を持たれた方、是非リンクをお読みください!)
その第4期目で最大の難工事だった・・・
油島千本松締切提。
写真の赤線、木曽三川公園の麓の治水神社から河口に向けて、長細く続いています。
(その3)
私達が車で大垣市から公園まで移動してくる途中・・・
長良川の東側にずっと続いていたのが、背割提(せわりてい)。
(羽島市から長島町まで:黄色線)
いったい、いつ作られたのだろう?と思い、気になっていました。
宝暦治水には出てこないし、御囲堤とも違うし・・・
なかなか、背割提の地名を思い出せずに苦労しました
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やっとこさ、地名を思い出して、検索にかけ、判明しました。
宝暦年間の治水工事が完了したものの。
根本的な水害の歯止めにはならず、その後も、度々水害がおこった濃尾地方。
明治時代になって、ようやく、近代的土木技術を生かした治水事業が行われました。
政府は、オランダ人のヨハネス・デレーケを招き、明治20年から25年かけて、工事を完了しました。
デレーケは・・・
・水害多発の原因は、木曽三川をはじめとする諸川の流出する土砂の堆積にある
・それは、河川流域における樹木の伐採によって引き起こされている
と述べ、「川を治めるにはまず山を治めるべし」という言葉を残しています。
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さて。
私と長女は、タワーを出てから。
油島千本松締切提の始まりに位置する・・・
治水神社に行ってみました。
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(治水神社全景)
すると、思ったとおり
まる印に十字マークの、薩摩藩の家紋と思しきマークが!
あちこちに見受けられました。
(瓦も、このマーク入り)
宝暦治水事業の経緯を説明する看板や、銅像などありました。
治水事業下の過酷な状況で病死された藩士
幕府のひどい仕打ちに抗議して亡くなった者
幕府側でも、薩摩藩に同情して、幕府に抗議・自害した者
治水に貢献された方々に感謝し、手厚く祀り、防水を祈願するための神社とお見受けしました。
(そろそろ、長女の機嫌が悪くなり、ゆっくり出来ませんでした)
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(中には鶏、外には野良猫、動物の多い神社でした)
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超!不機嫌の長女。(魔の二歳児)
「じゃあ、帰る?」
「いや~」
「じゃあ、まだ居る?」
「いや~」
「じゃあ、どうするの?」
「いやいや~」
魔の二歳児、炸裂していました。
その後、ご希望通り、公園に行ってひと遊び。
長男と一緒に遊んでました。
入れ違いにタワーに行った、次男と若!
いつまでも帰ってこないと思ったら・・・
タワー頂上から階段で降りてきて。
一階でずーっとお絵かき(なまずの絵)をしていたんだそうです。
それはそれで、良い思い出が出来て良かったね。
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今回は、なんだか、私の行きたいところばかり行ってもらい・・・
感謝!感謝!でした。
ますます、家族奉仕に精を出さなきゃーね!