日々雑感

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唐人お吉5-52

2019年05月05日 | Weblog

唐人お吉:


1992年年10月13日未明、伊豆は、伊東港の桟橋から一台の乗用車が海中に転落した。乗っていた4人のうち、3人までが助かったのに、大地喜和子、一人だけが、帰らぬ人になった。享年48歳。役者としてまだまだこれからと、嘱望されていたからその死は惜しまれて余りある。


運転者は、大地喜和子さんが飲みに行った。スナックのママさんで、斎藤静江さんという人。なんとの運の悪い事故に巻き込まれたことか。
大地喜和子さんは、10月12日に伊東で、「唐人お吉物語」の公演を済ませ、よく13日には、史上初めて。この演劇をお吉ゆかりの地・下田で公演することになっていたそうである。


唐人お吉は歌になったし、芝居にも取り上げられた。詳しくは知らないまでも、名前ぐらいは誰でも知っている。
そのお吉 本名は、斎藤きち 事故当時の車の運転者も斎藤さん。


資料によれば、お吉は、幕末、ペルーによって結ばれた。日米和親条約発効の後に続く日米通商修好条約締結のために、1857年に、伊豆下田に赴任した。米国の初代の駐日総領事ハリスの身の回りの世話をするために、下田奉行所によって送り込まれた、17歳のサービスガールだった。


役向きは給仕で仕事は夜勤。ハリスのベッドサイドの用事だけだったのか。ベッドインの役目も果たしたのか。真実は二人しか知らないが、お吉にとっては苦痛な務めだったに違いない。


一説によると、当時相思相愛の彼氏がいたという。
奉行所は、ハリスの世話係として、お吉に、白羽の矢を立てて、二人の仲を、無理矢理にさいて、人身御供として、お吉を差し出したというのである。


お吉という女は美人で、才気煥発機の強い性質であったので、この冷酷非情な運命をどれほど呪ったことだろう。
死んでも死にきれないような思いを経験したお吉は、お役御免になっても、自分の運命を呪い、嘆いたことだろう。


お役目を済ませて、ハリスの元から放免されたお吉は、人々からは、洋妾ラシャメンと蔑みまれ、横浜に出たこともあったそうだが、いずれ舞い戻り、髪結 居酒屋を転々とし、船大工との家庭でも、うまくいかず、離婚し、あれやこれやの苦難に耐えかねて、深酒に溺れ、挙げ句の果てには中風になり、明治23年、下田を流れる川に身を投げて、恨みだけを残してこの世を去った。


春は弥生3月の豪雨の晩のことである。享年48歳  大地喜和子も、48歳。奇妙な符号だ。
身を投げた川には、お吉が淵 があり、ほこらが建てられて、身寄りのない遺体を引き取って懇ろに弔ったのが、宝福寺の当時の住職だった。墓は、宝福寺にある。