延命十句観音経
c 清姫ってストーカーじゃないの
紀州路線走ると、御坊の次が道場寺である。ここには、安珍・清姫物語伝説が、ある。
恋にくるう女が男を追いかける。思いついたら、彼が隠れている釣鐘を恋の炎で、焼き尽くす。
何もかにも忘れて、命をかけた恋の情熱は一体どこから出てくるのであろうか。
この物語は、何を語ろうとしているのか、
1,女の恋の情念の激しさ
2,なぜそこまでエネルギーを集中して、釣鐘を焼き尽くすのが、女の内なる世界は、閉鎖的だから、一点集中したエネルギーはすべてを焼き尽くすほどのパワーを持っている。
女にかかわらず、恋という情念のもつエネルギーの大きさ。そこには、男と女という差は無いと思うが、
一点集中となると女の情念の方が、大きいのかもしれない。
命をかけてもという。望みが、押しつぶされて、解放されない情念の塊は、今年という形をとれば、幽霊になる。
清姫は、死んでから、蛇になるのではなくて、生きて、情念の炎を安珍が隠れたとする釣鐘を焼き尽くす。
現代の清姫に、この問題を尋ねたら、彼女達は何と答えるであろうか。
安珍代わりはいくらでもいるよ。 さっさと、乗り換え、するのだね。それが、かなわないのなら、生涯独身で過ごす。
結婚しても、離婚率が高くなる現代だったら、結婚していてもいなくても大差は無い。(本当は大差がある。)
離婚したと思えば、独身でいても、なんらさしつかえない。
女の執念
清姫 おいわ お菊
昔昔、熊野権現へ参詣に来た男前の旅の僧 安珍が、
紀伊の国牟婁郡 眞砂の庄司の家に一泊させてもらうことになった。その家の娘 清姫が、安珍に恋をし夜半に寝床まで行って積極的に迫った。
驚いた安珍は「修行中の身なので、熊野からの帰りにはもう一度ここに寄るので、それまで待って欲しい」とその場は免れた。
世間というものは
Sさんが自殺したという衝撃的な話を新聞報道でしった。 私は「やはり」とあたかも彼の自殺を予感してきたかのように、そしてこの悲劇が当然であるかのごとく、素直に受け止めた。
彼は京都大学の工学部をトップの成績で卒業した、スーパーエリートであるという話を私はあちこちで耳にした。また実際に彼と交わした会話の中でも、その噂が単なる風評でないことをしばしば感じた。 しかし、私は彼と交わした会話から「果たしてこのままでよいのだろうか」と首をかしげたことが一再ならずあった。
自分に対して自信を持つことはよいことだが、それが昂じて、他人との調和を欠いて、自信過剰になり、うぬぼれが強くなると、必ずや他人が馬鹿に見えたり、世の中のことすべてが矛盾に満ちて、不平不満しか残らないように思えるようになる。そうなれば、自分もこの世も疎ましく、えーい面倒くさいと捨て鉢とも、やけともつかない気分に襲われて、取り返しのつかないことをする危険性があると私は感じていたのである。
小学校に上がる年齢から彼はおそらく群を抜いて、学業成績が良かったことだろう。親からも、教師からも級友からも常に良い子、よくできる子とチヤホヤされそういう雰囲気の中で、己の知的才能のみを磨くだけで、この世はバラ色に輝いていたのであろう。 だが、玉石混交の実社会は、知的能力だけで勝負ができるほど単純なものではないし、狭くもない。 百人百様という言葉があるが、人は何か一つの特技を思ってそれだけを武器にして、他を圧して生きるなんてことは、普通のビジネス社会では至難の業である。 実社会は総力戦、いわばすべての能力を集約した人格で勝負するのが現実で、京都大学工学部をトップで卒業したというだけではどうにもならない。 知的能力よりはむしろ現実社会で要求されるのは、現実との対応の上手下手で、その方が大きなウェートを占めているように私には思えてならない。
案の定、彼は会社の中で、色々な部署を渡り歩いて、そのいずれにも満足ができず、会社を辞めた。 それ以降、いくつかの会社を転々としたらしいが、その何処にも安住の地を見いだすことはできず、結局死を選んだようである。
表面上、友人たちは彼の死をいたんだが、誰もが彼に釈然としない気持ちを持った。 本音を言えば「世の中そんなに甘くはない。そんなことぐらい50歳を過ぎて、分からなくては大人じゃないよ。東大や京大を出た人間ならば、誰だって我こそはというプライドは持っているし、その辺を内側に隠して表面を繕い、ないしは忍び難きをしのんで、うまくやっているのが世の中の現実というもんじゃないか。」という冷ややかな反応である。 よしんば彼の弁護を試みようとしても、心の虚ろは隠せない。 世間ではあまり頭が良くても困りものだというが、案外こういうことを指して言っているのではないか。
私が思うに、要は知的才能を上手に使う、つまり、にっちもさっちもいかないほど、自分を追いつめるないように、できるだけ事実を客観的に眺められるように、訓練することがたいせつである。 ひるがえって、もし彼が心の底から神仏の存在を固く信じていたとすれば、この悲劇は起こらなかったのではないか。 なぜならば、神仏の次元の世界を、この現世に導入しておくと、自分の未熟さや、無力さを知ると、同時に思いあがりを目覚めさせる効果があるからである。
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地平線に太陽が沈むように、自分の命も生から死に向かってひた走りに走っている。 近頃は命についてよく考えることがある。そして生命現象の不思議に突き当たる。
そこでまた考える。生きていることを全てが、歓喜に満ち溢れ、明るい明日しかないと思うのも人生で、その逆もまた人生である。
そして確たるプラス思考があっても、それが現実の場面で貫けるかと言えば、弱いもので、挫けては立ち上がり、立ち上がってはくじける日々である。 日常生活がどのように波うとうとも、信念を大切にしたい。なぜなら信念は未来について大きく影響するからだ。
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