日々雑感

心に浮かんだこと何でも書いていく。

神の計らい

2008年12月04日 | Weblog
               神の計らい081204。

 たとえ自分が何かお役に立ちようなことをしても、それは神の計らいであるから自分のせいにしてはいけない。

 少なくとも「生かされて、生きている。」と、思う人ならば、
やはり、何事も、神の計らいと心得て、淡々と、生きるのが望ましい。























































































フアジャンシル

2008年12月03日 | Weblog
          
               フアジャンシル 081203

もぉかれこれ30分も動かない。たとえ走ったとしても、せいぜい100メートルぐらい。
1体前方に何が起こったのか。事故か、工事中か、自然渋滞か。
私の乗ったバスの4,5台前の自家用車から、幼稚園ぐらいの子供を連れた若い女が降りて、高速道路の土手の方へ走っていった。土手と言っても高い斜面ではないから、彼女の肩から上はバスの窓から見えた。

女の子は、道路の端に、しゃがみこむなり、パンツをおろしてオシッコをし始めた。奥さんはさすがに人目をはばかって子供のようなまねはしなかったが、しゃがみこんでいるあのスタイルからすると、用をたそうとしているふうだった。

車の人々の目をはばかりながら、用をたそうとするところを見ると、よほど辛抱ができない状態だったんだろう。
 バスの乗客は、と見ると、クスクス笑いながら奥さんの方を見ている。そして、隣どうして何か話しあっていた。

 突然、車の列が動き出し、前方100メートルぐらいのところまで走った。奥さんの乗っていた車もクラクションを鳴らしながら走りだした。奥さんより、先に車に戻った子供は大声で母親をよんでいる。たぶん「お母さん早く早く、車が動きだしたから、帰ってこなくちゃ」。きっとこんな内容だったに違いない。
 それでも奥さんが土手の斜面にしゃがみ込んで、用足しのスタイルをとってから、ほんのわずかな時間、おそらく何十秒の出来事なので、奥さんが心ゆくまで用を足したとは思えない。たぶん中途半端だったはずである。あるいは、今からというときだったはずである。たまったものをすべて放出した後のあのさわやかな開放感など味わえ時間は無かったことに間違いない。

ソウルを出てから2時間半もたとうというのに、まだ50キロも走っていない、本来ならどこかのサービスエリアについていなければならない時間であるが、奥さんも運が悪い。

 そうかと言って、車の中で用足しもできないから土手の斜面まで走ったのであろうが、よほどツラかったに違いない。さもないと衆人注目の前で用足しなどできるものではないから。

 奥さんは若い。まだまだ羞恥心がある年頃である。それが証拠にしゃがみ込んだとき、彼女は、あたりをきょろきょろとする仕草をしていた。バスの乗客たちはそれを見てニヤニヤしている。

 ずらりだんご状に連なった車の人の目をはばかりながら、半ば公然と用足しに走るだということは、よほど辛抱ができなかったことを物語る。

羞恥心対生理現象という構図だろうが、用を足すのは羞恥心を打ち破る勇気ではなくて、辛抱できなかったという生理現象のしからしむるところである。
 諸君。私が目にした光景を想像したまえ。そして奥さんの心中を察したまえ、。


ピリピリと、締め込んできた。
した腹はごろごろ鳴っている。トイレをさがさなくちゃ。やばい。

 私は足早に歩き出した。歩くと体を揺するせいか締めこみはグッグっと強くなってくる。ものの、300メートルほど歩き出した頃には、空襲警報のサイレンがなったような心境になった。

言葉も話せないし、字も読めない。たとえ近くに公衆便所があったとしてもそれを捜しあてるのは、あてにならない勘を働かせる以外にはない。到底無理なことである。

危機にさらされた私は、思わず交番に飛び込んだ。
そして、「トイレを貸してほしい。」と身ぶりで、おまわりさんに、頼んだ。

3人いた中で、1番年の若い警官が、トイレとおぼしき場所を指さした。僕は救われた気分になって、「さあ来い、下痢め」
と心の中の叫んだ。
ところが、引き戸を開けてみると、男性用の小はあったても大はない。

「アレー。」僕は慌てた。「さあ来い、」と思った強気はどこかへ吹っ飛んだ。

 ドアを締めながら、私は警官に、尻をたたいて、「大の方だ」
という仕草をした
彼らはゲラゲラ笑いながら「それはない」と手を振った。

 私は困った顔をして立ち止まってしまった。私の様子を見て気の毒に思ったのだろうか、先ほどの警官は、交番の前にある商店街を指さした。

 商店街は良いのだけれど、トイレをなんと言えばよいのか分からないから、切羽詰まった私の今の状況を解決することとてもできない。

私は困った顔をした。親切な警官はしきりに前を指す。ともかくも、私は頭を下げて交番を出て、指示された商店街に飛び込んだ。

 表は日本の問屋のような造りだが、中に入ってみると、デパートだった。私は助かった気がした。デパートなら各階のどこか隅には必ずトイレ・化粧室があるはずだ。

 どんな標識を探せばよいのか、そんなことを考えながら、私はキリキリ痛み、刺し込んでくる腹を手で押さえながら、足を引きずるようにして階段を上がった。

 女店員は、コーナーには立っているが、「トイレはどこですか。」と、聞くのにどういったよいのか分からない。が、とにかくトイレトイレと話しかけた。
返事は意味不明の怪訝な顔だった。

 身ぶりで、前を指すか、後を指せば通じるとは思うが。なんせ相手は女性ばかりで、身ぶりで示すこともはばかられた。

 私は攻め寄せてくる腹痛に、額にあぶら汗をニジマセながら、自分でさがすよりほかはなかった。

 1階2階うろついたが、ー実は必死で探していたのだが、結果はうろついたことになる。ー挙句、私は3階まで足を引きずりながら行って、ヤケ気味で、
「ウエア イズ レストルーム?」と英語で話しかけた。
ネクタイ売り場の女店員は「?」顔をしたが、陳列棚からネクタイを取り出そうとした。

 私は慌ててノーノー、を連発して手を振った。私はイライラして、「馬鹿たれ 、トイレだよ。トイレ、トイレだよ。」と心の中で声を荒げた。

 私と女店員の様子を見ていた年配の店員が私のほうへ歩みよってきて、何か話しかけてきた。私はもう辛抱できないところまで切羽詰まってていたので、恥も外聞もなく、尻を指さして、「トイレ、トイレ、レストルーム、レストルーム」を連発した。

 彼女は、フアンジャンシルといった。私にはそう聞こえた。
私は何でも良かった。やけくそで、フアンジャンシルとオウム返しに言った。彼女は人差し指で、上の階をさした。
何?この期に及んで、便所は上階というのか。私は腹が立った。しかし4階でトイレを探しに行くほかはない。

 キリキリと攻めてきて、もう飛び出しそうな下痢をぐっとこらえながら、足を引きずって4階に上がった。
「ああ、神様。トイレまで、持ちますように、神様。」
困ったときの神頼み。一瞬にして、神様の信者になった。
誰でも良い。とにかくきかなくちゃ。歩き回って捜す余裕はない。私は又、女店員に英語で聞いた。彼女は英語で、「この突き当たりを右へ曲ると、あります。」と答えてくれて、その方向を指さした。お礼もそこそこに、私は、トイレに向かって急いだ。彼女に教えてくれたとおり、トイレは見つかった。

扉を開けるなり、ベルトを緩めのももどかしく、しゃがみ込んで漏れそうになったものを力いっぱい放出した。
「神様。神様はやっぱりおられた。私を救って下された。神様ありがとうございます。」
私は子供じみたこんなセリフを実感を込めて呟いた。

 便器につかまりながら、私は今までのことを走馬燈を見る思いで思い返した。
交番のおまわりさんは親切だった。用はたせなかったが、危機を乗り越えた今は
やはり有り難かった。今、私がいるところを教えてくれたのは紛れもなく、あのおまわりさんだったからである。この親切がなかったら、時を追って攻めてくるしぶりバラを私はどうしたであろうか。そんなことを思い返しているとき私は、はっと気がついた。

 昨日、ソウルから釜山へ来るまで、向かう途中で見たあの奥さんの土手での出来事である。
つい先ほどまで、私が味わったのと同じような思いだったに違いない。恥も外聞もないというけれども、普通ならやっぱり気になって体裁を繕うものである。ところが待ったなしの生理現象は羞恥心や外聞を吹き飛ばしてしまう。

 私は今回つくづくあの土手で座りションして、バスの乗客から笑いものにされたあの奥さんの心中が手に取るようにわかった。そしてバスの乗客のともども奥さんに同情する前に笑ったことを恥じた。後悔した。

 国内ならともかくも、韓国に来てまで私は自分の体験を通して、「わが身をつねって、他人の痛さをしれ」という貴重な教訓を味わうものとは夢にも思わなかった。

 時には、ふらっと自分の国を離れてみるのもいい。どんなことを発見するかもしれないから。それが私が自分に下した結論である。








































































































































































紅葉 

2008年12月02日 | Weblog
          
紅葉 081202

 寒くなってきた。あれだけ暑かった、今年の夏だったけど、どこかへ行ってしまった。今は、吐く息も白い。指の先は冷たくて、手袋をはめている。それでも、紅葉が真っ赤に紅葉しないところをみると、、寒さはまだ足りないということか。
 今日は11月最後の日曜日で、12月と隣り合わせだ。やっぱり行ってみよう。どんなに素晴らしい紅葉が見えるかもしれないから。

 私はそう自分に言い聞かせて家を出た。嵐山にしようか。それとも、東山にしようか。
どちらもみるところがあるので迷ったが、最後は、八橋が販売されているという理由で、東山にした。八橋くらいなら、嵐山でも売っているから、これは理由にならない理由だった。

 四条河原町を降りると、もう人波は大変なもので、歩行者天国の新宿みたいだ。その人波に、乗り込んで、僕は東山を目指した。八坂神社を横切って、上手の方に上がって行くと、円山公園に出る。ぐるりと1周すると、紅葉は木によって赤さが違う。
 紅葉も人間と同じで、いろいろあるなあと思いながら歩いていると、知恩院さんの前に出た。

 正面の道を西をさして歩いてゆくと、とつぜん胸を横切ったものがある。ハッと、思い返してみると、今からだと、もう何年前になるか。少なくとも10年はとうに過ぎているはずだが。

 寂しそうな顔立ちだったが、眼鏡をかけた顔はまじめそのもの。美人いえば言い過ぎになるかもしれないが。決して不美人ではない。
 教壇に立つとま正面に座っている。彼女は、いやがおうでも、目に入る。その彼女がある日を境にして、いつも顔を机に伏せて寝ているような格好で、授業を受けるようになった。
 おかしい。一体何があったんだろう。僕は担任の先生に事情を聞いてみたところ、お母さんガンらしいという話だった。

 彼女は一人っ子で、聾唖者である。彼女の話は僕には半分も理解できなかった。通じ合わなくて、お互いに歯がゆい思いをしたのは、幾たびとなく経験している。

 推測するに、彼女の思いを百パーセント理解し合えることができたのは、実の母親たった一人だったのではなかろうか。
 すなわち、何が何でも彼女には母親が必要だったのである。
それはあたかも人という文字が、お互いを支えあってはじめて成り立っているように、どちらかが一人が抜けてることは許されない関係つまり、どちらかが、いなくなれば、両方がなくなる。倒れるという関係になっていた。
そういう中で、母親がガンにかかってしまい、床に伏すという事態になってしまったんだ。

 僕が最初に気がついてから半年目に、母親は他界した。彼女はひどくとり乱したふうでもなく、ある程度覚悟はできていたみたいだった。

 年が明けて3学期が始まると、彼女は姿勢を伸ばして、授業を受け始めた。どこか淋しい影が宿っていたが、それはみるも、無残というようなものではなかった。2月の末には、卒業式があった。

 学校は彼女の人並み以上の努力とがんばりに対して、賞状でもって応えた。
しかも、身体のハンディを乗り切って、彼女は京都にある短期大学に進学が決まっていた。おそらく、大学側は彼女の体のハンディを考慮しても、なお勉強できると、判断していたのだろう。そしてその判断は正しいと僕は思った。健常者と同じように授業を受けていて、何ら不都合なことは無かったし、成績はいつも上位にいて、成績で勝負するというのなら、堂々と勝てると思っていたから。大学の入学試験に合格したのも当然だと思った。

彼女の自殺の方に接したのは、1時間目の授業が始まる直前だった。電話はお父さんからのものであった。
昨夜、夜中に小用に起きた。
ガス管が彼女の部屋に引き込んである。不気味な予感が走って、しまったと思って部屋に飛び込んだが、間に合わなかった。体はまだ暖かかったが呼吸は完全に止まっていた。すぐ救急車を呼んだが、結末は帰らない人になっていたというのだ。

 いったいどこまで不幸が付きまとうのだろうか。この一報聞いたとき僕はやり場の無い怒りに体を震わせた。この悲しみをどこへぶつけて良いのか。この腹立たしさをどこへ持っていけば良いのか。
 人間が生きて行く上で起こってくるさまざまな不条理に、心が切り刻まれる感じがした。その感覚は今も鮮やかに僕の胸の内にある。

どこをどう歩いたのか知らない。車の警笛でびっくりして、はっと我に返ったとき、僕は
華頂短大の前の道を山門の方に向けていうターンしていた。

紅葉も人波もそんなものは全然目に入らない。今は彼女がどの辺りにいるのだろう。
ここに出てきて、僕に思い出して欲しいと催促してくるからには、近くにいるはずだ。
 確かに死んだら肉体はなくなるが、魂までなくなるとは、思えない。僕はこう自問自答した。

 10年以上も昔ことであるにもかかわらず、まるで映画のスクリーンを見るかのような鮮やかさで、頭の中に繰り広げされるストーリー展開に、僕は夢を見ているかのような錯覚に陥った。
 紅葉は今日でなくてもいつでも見れる。そう思って、足早に、帰宅の途についた。