前回のブログで村上春樹の新作を読んで、その内容に価値があるのなら
感想を書こうと思ってはいたのだけれど・・・
「騎士団長殺し」は第1部が「顕れるイディア」、第2部が「遷ろうメタファー」
両巻ともに読んでみて発見があった
それは私が日頃ここに書いている事がこの作品のメタファーだったのではという事。
巡る~巡る~よ♪ 思想は巡る~♪
まあね、全く関係のないと思われる様な出来事が、物理的に全く関係のないと思われる
環境で同時多発的に発生する事もあるのがこの世の常。
人間、いや生命体は根っこの根っこで思想が繋がっていると説いた人もいるものね~
なぜに私の文がメタファーだと思ったのか?
それはこの作品の最初の最初の章「プロローグ」はこう始まるから。
「今日、短い午睡から目覚めたとき、」
私の記憶が正しければ・・・半年ほど前に私は「午睡(ごすい)」という言葉を使った。
別に「お昼寝」で良かったのだけれど「午睡」と書くと「お昼寝」という行為から
即座に感じる怠惰という負のイメージを取り払う事が出来るから~
それどころか、高尚さまでお昼寝という行為に付加されるような、ありがたーい言葉だから。
しかしね、それを私が使うのはともかく、ノーベル賞よ、ノーベル賞。
その呼び声も高い一流作家がとっぱじめから使う言葉選びのセンスがどうなのって思うね。
この小説を読んで一番辛かったのが(←辛かったのかよ~)第2部の中盤に差し掛かった頃。
何度も「もうだめだ・・・」「まだ続くのかよ~」「飽きちゃったよ~」と挫折しそうになった事。
しかし忍耐強い私は自分を励ましながら最後まで読みました~
読んでの感想を一言で言うと「村上春樹は’90代で終わった」
私が村上春樹に異変を感じたのは「海辺のカフカ」だった。
究極のやっつけ小説
しかし世の中の彼への評価は高く「 1Q84」が出版された時にもハルキスト???なんてものが
存在しまるでハリーポッターシリーズの様に発売日には待ちきれないファンが
夜を徹して本屋に並ぶなんていう映像を見せられ(ハリーポッターシリーズは面白いよね~)
すっかり世の中で騒がれなくなってから、図書館で借りやすくなってからが正解だけど、
うんじゃあ、読んでみるか~と手に取った。
まあまあ、今回の作品よりは面白かったかな?
ただ雑な作品だという感想は持った。
確か、なにかしら不思議な力を持った女の子が主要な登場人物だったと思う。
なんだか雑なストーリーの組み立てで、読み手が「あれ???」と思う様な場面では
「だって~この女の子は超能力が使えるから~」ってなエクスキューズで、
納得するしかない作品だった。整合性が無くなると、そこは超能力が整合性を持たせる役割ってね~
じゃあ、なんでもありじゃ~んだったのだけれど、
今回のこの作品もその「なんでもありじゃ~ん 」は無くなるどころか、ほぼ主要な働きをしていた
いくらなんでも、これだけの人気作家だ。
それも日本だけではないらしいグローバルに人気作家だ。
ライトノベルの作家ではなくノーベル賞の呼び声も高い作家だ。
逆に、なにか深遠な意図が隠されているのだろう
私の様なバカな読者にやすやすと分かるはずもない意図が。
そうだそうなのだ
物語の最後の方に、これまたやっつけ仕事の様に東日本大震災を持ち出してきたけれど、
「やっつけ仕事」と感じたのはその震災当日のリアリティがないからなんだけれど・・・
ここからはチョイとしたネタバレになるのでごめんなさいね~
この物語は主人公である肖像画家が6年間結婚生活を送った女性と別居している間に起こった話で
最終的には復縁し自分の子かどうかわからないが法律的には自分の子である女の子と
3人で暮らしており日常的に家事や保育園の送り迎えはこの主人公が行っているらしい。
そして震災が起こった当日に主人公は自分が旅をした東北の沿岸が津波に襲われている
映像をリアルタイムでTVで見ていた。
「何もすることが出来ず、言葉を失ったまま 、私はTVの画面を何日もただ眺めていた」
その後で「夕方の五時になると、子供を保育園に迎えに行った」
「私は津波の押し寄せる光景をできるだけ見せないようにした(中略)津波の映像が映ると
私はすぐに手を伸ばして娘の両目を塞いだ」(中略)「きみは見ない方がいい。まだ早すぎる」
「でもほんとのことだよね?」「そうだよ。遠くで起こっている事だ・・・」
「彼女には地震や津波というような出来事も理解できなかったし・・・」
主人公は子供に「遠くで起こった事だ」ではなく「遠くで起こっている事だ」と言っている。
ならばこれは地震が起きた当日の事なのではないだろうか
子供は保育園に通っている、そして父親の語った事に対して「でもほんとのことだよね?」と
疑問を投げかける能力があるのだから小学校の就学年齢に遠くはないだろう。
彼らは都心に住んでいるわけなのね、あの日の地震の経験はその位の年齢の子供ならば、
かなりの恐怖を感じただろうし「五時になると、子供を保育園に迎えに行った」などの
呑気な描写にはならないはずだ。それからの数日も日常を直ぐに取り戻したわけではなかったし。
阪神淡路大震災を扱った「アンダーグラウンド」のルポルタージュで村上春樹の作家としの
力量というものにいたく感心した者にとって肩透かしをくらった気がした。
東日本大震災という誰にも忘れようのない大きな出来事をこのような形で挿入してきたことに
唖然としたというのが本音
「やっつけ仕事」と感じるのはもちろん全体を通してなのだけれど、
中でも辟易としてしまうのは読み手の想像力を全てシャットアウトしてしまう事。
物語っていうのはね、非現実的でも読み手の想像力で現実と見分けがつかないという
楽しさがあると思うのね。
想像力を誘う言葉、表現の巧みさがあればなんだけど。
この作品では逆に想像させないという分かりやすい手法に驚いたよ~
例えば、色々な不思議な出来事が起こるとする。主人公は思案する・・・
色々な可能性を考える・・・そして最終的に「○○に違いない!」に収まるわけだ
もうさ「違いない」って言われちゃったらさ読んでる私はね「あーーなんだか単純な
類推だけれど、違いないって言われちゃったらそれに違いないんだね~」と思うしかないのだ。
前作の1Q84は「それは超能力だから~」って言われちゃって、それに同調するしかなかったけれど、
今度は「○○に違いない!」で想像力を与えてもらえないんだよ
そりゃあね、作品は作家のもので、ドキュメントと違うんだから、どういう成り行きになるのか
予想がつかないってないと思うんだ。
作品の取っ掛かりで、予定調和にせざるを得ないだろうから。
でもね、その予定調和を読み手に感じさせちゃあダメなんじゃないの???
この作品の中で「南京事件」について語られる場面があるのだけれど、
それも作者の「違いない!」に満ちている南京事件の解釈が示される。
私はこれについての真実を知らない。歴史的にも真実と定義できるだけの考証をまだ
経ていないのではないだろうか?
それでも作者は「違いない!」と彼自身の史観で読み手の想像力を拒否するのね。
このオリジナルの物語についてはどう決めつけようと作者の勝手だと思うけれど、
史実の判定を断じてしまうのは、はたしてフェアなのかな~と疑問に思ったな。
第2部は「遷ろうメタファー」とサブタイトルが付いているけれど、
この作品は第1,2部とおしてメタファーなんて無い
第1部「かたちを変えた祝福」の章に出てくる「Blessing in disguise」という言葉は
メタファーになるのかも?と思っていた。
「一見不幸そうに見えて実は喜ばしいもの」なんからしくない???
それが一向にこの言葉が生きる場面は読み取れなかった・・・
ただ全体を通して大震災まで持ち出してきたところを見ると、これが主題なのかもね?とも思う。
終盤になっていよいよクライマックスを迎え起こった事が収束していくのだけれど、
これも「えーーーあの事とこの事は繋がってないじゃん・・それぞれの身に起きた事は
関係ないじゃん」という結末だった。
第1部のサブタイトル「顕れるイデア」となっていて「イデア論」にはとても興味があったのだけれど、
それが語られる事は無い。
語られているっぽいのかもだけれど、薄い
仮に「一見不幸そうに見えて実は喜ばしいもの」が主題だとしたら、
この作品は、あえて凡庸な構成を取り、読み手から想像力を奪い、読書に忍耐を強いて、
この世界のマクロを体現させているのかもとも思う。
歴史や個人の一生は、あらゆるメタファーに溢れており、その中で混乱し適切な選択を
しなかったと後悔しても、イデアにより、まだまだ「喜ばしいもの」に変容できる可能性を
歴史や人生は秘めているのだという賛歌なのかもという非常にポジティヴな感想で終わるのが賢明かな
でもねこのノーベル賞級の大先生に意見するのもなんだけど、
クラッシック、ジャズ、ロックの楽曲と奏者をちりばめたり、車の車種と特徴の見識、
そこはかとなく、登場人物はエスタブリッシュメントを匂わせる手法はもうオサレじゃないよ???
なんでも子宮に回帰すれば良いってもんじゃないよ?
あーそうか~古臭いって分かっていて(注、私は古いものもハッとさせられるオサレで新しさを
感じる芸術がある事を実感しております)あえて「不幸そう」に見せて(作品的に)実は喜ばしいもの
という壮大な実験的作品かもな~