妻との争いも増え、やがて子供の泣き声に我慢ができなくなり始めた。わしは生来子供が苦手
だったが、自分の子供が出来てからは、はっきりと嫌いになった。
何よりも我慢がならなかったのは、あの泣き声。赤子が泣き出すと、神経が狂い出す。
世の中でこれほど腹立たしいものはないと思った。
妻との争いの大概は、次の仕事に出かける話しが始まった時なんだが、その時のは場所も遠く
だったし、期間も一年以上にわたるものだったので、妻の反発も強かった。
和美が泣き始め、これが妻の怒りがそっくり、乗り移ったかと思うほど激しかった。
とうとうわしは逆上して完全に自制を失い、気がついたら妻がわしの胸倉に飛びこみ、振り上げ
た右手に武者ぶり付いていた。
わしの右手には今まで飲んでいた、ビール瓶が握られ、その下では和美が泣き叫んでいた。
我に返ったわしは、自分が何をしょうとしていたかを知り、次の瞬間思わず外に飛び出した。
その夜は一晩中街中をうろつき、翌日には家を離れた。
行先は予定されていた現場のある街とは逆の、未だ一度も出向いたことのない所だった。
その時のわしの頭の中は、もうここにはいられない、いてはいけないとの考えだけが渦巻いてい
た。
なあに魂胆は、ただ単に妻子のめんどうをみるのが、いやになったのさ。
気ままに自分のことだけを考えて、生きていきたかったのさ。
それまでは自分はごく普通の、言わば善良な人間だと思っていた。
まっとうに仕事をして、経済的にも自立して、年相応に結婚して家庭を持って、穏やかに暮らし
ていく人間だと思っていた。
そのことに対して何の疑いも迷いもなく、改めてそんな生き方について、考えることすらなかっ
た。