退屈しないように シニアの暮らし

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さて何をしようか

法頂 無所有より

2012-12-03 20:19:04 | 韓で遊ぶ
4 非読書の季節

秋夕を過ぎてからこの頃の天気は、昼と夜を問わず典型的な秋だ。このように澄んで晴れた空の下に、人である私は何をするべきか?木の下でただうろうろしていて、黄色く色づいた野原を見るだけでも私の中の血は清らかな樹液が回る。バラのとげを手の甲を刺して丸一ヶ月苦労した。自分の思い通りに動いていてくれた手に問題が生じるとは、とても不自由だった。ドイツのあのリルケを思って、時には怖いと思ったが、すべての病気がそうであるように、時が来ればよくなるようだ。たまった服をやっと自分の手で洗えるようになって何よりもほっとした。今日のように澄んで晴れた日には井戸端へ行って選択でもする日だ。私たちのように簡単明快に暮らしている独り者(단수)にはこんな日は一挙両得になるから。
こんな快晴の日に私は何の仕事をするべきか?壁に向かって座禅を組むか。埃をかぶってむっとする経典を広げるか。そんなことはいずれにしても貧相だ。それにそんなことはこのように晴れた青い秋の天気に対して礼を欠くことになる。ただうろうろしてばかりいながらも私の中に太る音が聞こえてくるのに、このほかに何を受け入れろと言うのか。
秋になると読書に季節だと連想するという友人に会って昨日楽しく論戦を交わした。私の反論はすなわち、秋は読書をするのに一番不適当な非読書の季節ではないかと言う事。もちろん、暑くも寒くもない秋の夜長にページをめくるその意をわからない訳ではないが、その道が紙と活字でできた本にだけあるというのか。
こんなよい日には、それはそれなりの情報と知識から少し開放されることができないのか。こんな季節には外部の音より自身の内から聞こえる音に耳を傾けるのにふさわしいのではないか。読書の季節が他になければならないと言うことからおかしい。いくら本との縁が遠くなっていると言うことで強調週間のように別に設定しなければならないのか。読書が趣味だと言う学生のようにそれは本当にこっけいだ。労働者とか政治家や軍人の趣味が読書と言うならばいざ知らず、本を読んでそこから学ぶことが本分である学生が、読書を趣味ぐらいに考えているとは本当にこっけいなことではないか。実のところ、単行本を出してもせいぜい1,2千部しか売れないのに、どこかの国の百科事典は3万部を超えて売れたと言うわが国の読書風土ではあるが。
そうだとしても、私はこの秋に何冊かの本を読むだろう。すらすら本ではなくしばしば伏せるようなそんな本を選んで読むだろう。いい本と言うのはもちろん支えることなく読める本だ。しかし、本当の良書は読んでいてしばしば伏せる本だ。ひとつ、二つの句節が私たちに多くの考えを与えてくれるからだ。その句節を通して私自身を読むことができるからだ。このように良書とは鏡のようなものでなければならない。だからその1冊の本が時にははっと自分の目を開かせて、安易になろうとする自分の日常を覚ましてくれるのだ。
それと同じように本は知識とか文字として書かれたものではなく、宇宙の影響力のようなものによって書かれているようだ。そんな本を読む時私たちはよい友達に会って楽しい時のような、時間の外で完全に休むことができる。(ソウル新聞1973,9,15)
コメント (3)
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