退屈しないように シニアの暮らし

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さて何をしようか

法頂 無所有から

2012-12-13 08:19:45 | 韓で遊ぶ
13 卓上時計の話

初めての人と挨拶をかわす時、気まずくぎこちない雰囲気とは別に心の中ではありがたいと感じる時がある。この地球上に36億と言う多くの人が生きているのに、今その中の一人の人と出会えたのだ。まずは、会ったというその因縁に感謝せずにはいられない。
同じ空の下、または同じ言語と風俗の中で生きていながらも、互いに通り過ぎてしまう人間社会であるからだ。仮に私に危害を与える人だとしても、その人とそれほどの因縁があって出会ったということではないか。多くの人々の中で、なぜ、よりによって私と出会ったのだろうか。仏教的な表現をすると時節因縁が近づいたのだ。
このような関係は物と人との場合も同じだ。多くの物の中のひとつが私のところに来たのだ。今、この文章を書いているテーブルの上には、私の生活を動かす国籍不明の時計がひとつある。それを見ていると物と人の因縁も本当に奇遇だと思うようになる。だから、その時計が単純な物としては見えないのだ。
去年の秋、明け方の礼拝の時間に事が起こった。大きな法堂の礼拝を終えて板殿に立ち寄って降りてくると1時間ぐらいかかった。帰ってみると部屋の戸が開いていた。泥棒が入ったのだ。普段、鍵をしない私の癖のおかげで泥棒はやすやすと入って行ったのだ。調べてみると、普段必要なものばかりを選んで持って行った。私にとって必要なものは泥棒にも必要だったらしい。
それでも、持って行ったものよりは残ったものの方が多かった。私に失う物があったということが、他人が見てほしいと思う気持ちを起こさせる物を持っていた、という事実が少なくなく恥ずかしかった。物と言うものは元々私が持っていたものではなく、何かの因縁で私のところに来て、その因縁が尽きるとなくなってしまうものだから、考えてみると、少しも惜しいことはなかった。もしかしたら、私が前世で他人のものを盗んだ報いかもしれない、と考えるとむしろ借りを返しているようで満足する気分だった。
しかし、泥棒はたいしたものでもあるのかと思って、何でもかんでも隅々までひっくり返したのだった。失ったものに対しては少しも惜しくはないのだが、散らかして行った服を一つ一つ片付けていると、今さらながら人間社会の悲しさを感じた。
すぐに惜しいものは他でもない卓上に置かなければならない時計だった。泥棒に入られた何日か後に時計を買いに出かけた。今度は誰もほしいと思わないような安物を買わなければ思いながら、清渓川にある時計屋に行った。ところが、ホホ、どうしたことか、何日か前になくなってしまった私の部屋の時計がそこで私を待っているではないですか。それも、ある男と店の主人が正に取引中だったのだ。
私を見るなり男はさっと顔を背けてしまった。慌てた様子を隠すことができなかった。彼に負けないくらい私も慌てた。結局、その男にお金1000ウォンを与え私の時計を買ってしまった。私が何の慈善家だと、その男を許すとか許さないと言うことができようか。問いただしてみると、似たり寄ったりの過ちを持って生きている人間の身の上で。意外にも再び出会えた時計との因縁がまずは、ありがたかった。私の心を自分で振り返るだけだ。許しというものは他人に施す慈悲の心というよりも、崩れていく自分を自分自身で取り治めることではないかと思う。(泉1972,4)
コメント
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