退屈しないように シニアの暮らし

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さて何をしようか

法頂 無所有から

2012-12-11 08:28:28 | 韓で遊ぶ
11人生の終わりから見てみて

人間の日常生活はひとつことの繰り返しだ。昨日も今日も大概、似たようなことを繰り返しながら生きている。面白くない雑談と少しの好奇心とあいまいな態度で行動するのだ。ここには自分を振り返ってみるようなものはほとんどなく、ただ与えられた中で暮らしを営みながら生きていく平凡な日常があるだけだ。だから、自分の意思ではなく惰性の流れに身をゆだねたまま、流されていくのだ。模倣と常識と因習の枠の中で楽に無難に生きていけばいいのだ。だから、自分が持っている生き生きとした色合いはだんだん色あせてしまうものだ。考えてみるとうんざりして、息苦しく、息の詰まるようなことであるけれども、それでもあれやこれやと虚しく生きていっているのだ。このような日常性から抜け出すために人々は時に、旅に出るのだ。あるいは、漢江の歩道橋の欄干のてっぺんに登ってニュースになってみたりするのだ。しかし、いくらも行かないうちに自分の影を引き連れて戻ってきてしまう。
自分の人生をもう一度はじめからやり直せたらいい、という変わった人がいた。筆者は彼を連れてマンウリへ行った。意地悪な性格からではなく、性格が合わないという考えの彼の生を死んだほうから光を当てて見せてやりたかったのだ。余地のない墓はそこにそのままあった。
マンウリ!と言うと、そこにはすべての心配事を忘れてしまい、松風の音が聞きながら横たわっているところというか。冷たくたっている墓石さえなければ本当に至極平穏な感じだった。死んで見た彼らが生きているならば、私たちに話したい言葉はなんだろうか。もし、彼らを深い眠りから呼び起こしたならば彼らは取り戻した生をどう生きるだろうか?
死刑囚には1分1秒が生命、それ自体が実感されると言う。彼らには明日がないからだ。そしていつも今日を生きているのだ。しかし、私たちは今日を生きていながらも、たびたび次の日に伸ばしながら明日に生きようとする。生命の一切れである一日、一日をおろそかにし浪費しながらも後悔しないのだ。
バッハを好きだと言う人は彼の音楽から荘厳な落日のようなものを感じる。単調な繰り返しの中に深みがあるからだ。私たちの日常が深みのない平凡な繰り返しだけなら、2回半聞けば十分な「聞きやすい歌」になってしまう。日常がうんざりした人は、時には人生の終わりから自身の生を見てみるのも必要だ。それはひとえに繰り返しの中の深みを知るために。(キョンヒャン新聞1970,5,30)
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