16 早朝割引
先週の日曜日、用があって市内に出かけた時、劇場の前の長蛇の列を見て、市民も本当に一生懸命に生きているなという思いがした。しかし、真昼の日差しの下、黙って立っている彼らの顔を近くで見た時、かわいそうに思ってうつむいてしまった。遠い道を旅した旅人とかに感じられる疲労と憂いの影のようなものが読み取れたからだ。
久しぶりの休日を他の人々は倦怠感の漂う領域を抜け出し、緑濃い山と、波が打ち寄せる水辺で余暇を楽しんでいるのに、何かの磁力に引き寄せたのか、ただ同じような公害地帯でうろうろしている、その姿が少し悲しかった。
巷の庶民がせいぜい楽しむことができる娯楽として、まさに劇場に回って行っているのだろうが、私たちも時々そんな娯楽の恩恵を受けるときがある。しかし、白昼の長蛇の列に並ぶほどの熱情はもてない。事実、娯楽はその時の気分と直結されているものだという時と、場所が問題である。
いくらか前に韓国映画界でまれに見られる秀作だと、それを見なければ悔いが残るだろうと言うような広告と映画評論に引かれて真昼にウルジロの方に行った。劇場を出てきた足で薬局へ行き胃薬を買って飲んでも不快感は簡単には消えなかった。映画自体も問題以下のものであるが、いやな匂いがする密閉された倉庫のようで30分もたたないうちに頭が痛くなり始めた。楽しみに行ったのに楽しいどころか苦痛を味わったのだ。誤った広告文にだまされたこちら側ではあるが。
私はだから早朝割引が好きだ。その理由は決して割引があるからではなく、早朝の雰囲気にあるのだ。まずは窓口の前に並ぶ必要がないから簡単でいい。行列に並ぶと娯楽は半分ぐらいその幅を失う。
そして、どこにでも座りたい席に座ることができると言う特権がある。案内嬢の心細い小さな懐中電灯に指示されずとも選択した座席が準備されているのだ。せっかく与えられた座席の前に壁のように座った座高の高い人が視野をふさぐような時、私の罪のない首は被害をこうむらなければならない。しかし、早朝ならそんな被害もない。
何よりも早朝の魅力はまばらに座っているその余裕のある空間にあるようだ。私たちが映画とか演劇を見ると言うことは、単調に繰り返される日常的な束縛からぬけだして色の違う世界に自分を投入して楽しもうとすることだ。密接した日常映画館にまで延長されたならば、どうして色の違う世界を成すことができるだろうか。
そのような密接は通勤時間の満員バスや、ぴっちりくっついている隣の家の軒先だけでも十分だ。とてもせちがない世の中でまばらに座る事ができるそんな空間は余裕があっていい。
そうやって座っている後姿を見ると、言いようのない親しさが押し寄せてくる。今朝の隣人たちはどんな人たちだろうか。もしや、とても善良なゆえ仕事場から押しのけられた人たちだろうか。いずれにしても皆、善良な人たちのようだ。誰かが間違って自分の足を踏むことで、そんなことで目をむいたり言いがかりをつけたりする人ではないようだ。低い声で話をすると詰まっていた考えがするするとほどけるそんな隣人たちのようだ。
「25時」を見て出てきた去年の夏の早朝、何人かの顔に涙の後があったとき、私はふと「ヨハン モリッツ!」とその人たちの手を握りたい衝動を感じた。(月間文学1970,10)
原文はこちらから
先週の日曜日、用があって市内に出かけた時、劇場の前の長蛇の列を見て、市民も本当に一生懸命に生きているなという思いがした。しかし、真昼の日差しの下、黙って立っている彼らの顔を近くで見た時、かわいそうに思ってうつむいてしまった。遠い道を旅した旅人とかに感じられる疲労と憂いの影のようなものが読み取れたからだ。
久しぶりの休日を他の人々は倦怠感の漂う領域を抜け出し、緑濃い山と、波が打ち寄せる水辺で余暇を楽しんでいるのに、何かの磁力に引き寄せたのか、ただ同じような公害地帯でうろうろしている、その姿が少し悲しかった。
巷の庶民がせいぜい楽しむことができる娯楽として、まさに劇場に回って行っているのだろうが、私たちも時々そんな娯楽の恩恵を受けるときがある。しかし、白昼の長蛇の列に並ぶほどの熱情はもてない。事実、娯楽はその時の気分と直結されているものだという時と、場所が問題である。
いくらか前に韓国映画界でまれに見られる秀作だと、それを見なければ悔いが残るだろうと言うような広告と映画評論に引かれて真昼にウルジロの方に行った。劇場を出てきた足で薬局へ行き胃薬を買って飲んでも不快感は簡単には消えなかった。映画自体も問題以下のものであるが、いやな匂いがする密閉された倉庫のようで30分もたたないうちに頭が痛くなり始めた。楽しみに行ったのに楽しいどころか苦痛を味わったのだ。誤った広告文にだまされたこちら側ではあるが。
私はだから早朝割引が好きだ。その理由は決して割引があるからではなく、早朝の雰囲気にあるのだ。まずは窓口の前に並ぶ必要がないから簡単でいい。行列に並ぶと娯楽は半分ぐらいその幅を失う。
そして、どこにでも座りたい席に座ることができると言う特権がある。案内嬢の心細い小さな懐中電灯に指示されずとも選択した座席が準備されているのだ。せっかく与えられた座席の前に壁のように座った座高の高い人が視野をふさぐような時、私の罪のない首は被害をこうむらなければならない。しかし、早朝ならそんな被害もない。
何よりも早朝の魅力はまばらに座っているその余裕のある空間にあるようだ。私たちが映画とか演劇を見ると言うことは、単調に繰り返される日常的な束縛からぬけだして色の違う世界に自分を投入して楽しもうとすることだ。密接した日常映画館にまで延長されたならば、どうして色の違う世界を成すことができるだろうか。
そのような密接は通勤時間の満員バスや、ぴっちりくっついている隣の家の軒先だけでも十分だ。とてもせちがない世の中でまばらに座る事ができるそんな空間は余裕があっていい。
そうやって座っている後姿を見ると、言いようのない親しさが押し寄せてくる。今朝の隣人たちはどんな人たちだろうか。もしや、とても善良なゆえ仕事場から押しのけられた人たちだろうか。いずれにしても皆、善良な人たちのようだ。誰かが間違って自分の足を踏むことで、そんなことで目をむいたり言いがかりをつけたりする人ではないようだ。低い声で話をすると詰まっていた考えがするするとほどけるそんな隣人たちのようだ。
「25時」を見て出てきた去年の夏の早朝、何人かの顔に涙の後があったとき、私はふと「ヨハン モリッツ!」とその人たちの手を握りたい衝動を感じた。(月間文学1970,10)
原文はこちらから