退屈しないように シニアの暮らし

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さて何をしようか

法頂 無所有より

2012-12-24 15:36:16 | 韓で遊ぶ
20 前もって書く遺書

死ぬときには何の言葉もなく死ぬのであり、何をごたごた理由がついてくるのか。自ら命を終えて先立つ人ならば遺書でも添付できるだろうけれども、自分の命のかぎり、生きてきていく人にはその弁明が役にたたないもののようだ。それに、言葉というものはいつも誤解を伴うものだから。
だが、死はいつ私を訪ねてくるのか知ることができないこと。多くの交通事故と、ガス中毒と、そして憎悪のまなざしが、前世が借り返せと私を撃つかもしれない。私たちが生きていくということが死の側から見ると、一歩一歩、死に向かって来ていることであるということを考えた時、生きることは必ず死ぬことであり、生と死は決して絶縁されたものではない。死が、いつどこで私の名前を呼んでも「はい」と気軽にぱっと立ち上がる準備だけはできていなければならないのだ。
だから、私の遺書は文字であるよりは今生きている「生の白書」でなければならない。そして、その肉体としては一回きりでしかない死を迎えても、実際には遺書のようなものを残すほどの身の上ではないので、編集者の請託に、散歩でもするような気分でしたがって見たのだ。
誰を呼ぼうか(遺書にはよく誰かを呼ぶとか)?誰もいない。徹底して一人だったから。まさか今まで帰依して仕えたお釈迦様を、といっても彼は結局、他人。この世に来る時も一人で来て、行く時も私一人で行くしかないのだから。私の影を引き連れて、ふらふら人生の地平を歩いて来て、またそうやって行くのに、呼ぶほどの隣人が、隣人がいるはずがない。もちろん今日まででも、私は遠く、近くの隣人たちと相談相関しながら生きている。また、これからもそうやって生きるだろう。しかし生命自体がどこまでも個別的なことで、人間はそれぞれに一人でいるしかないもの。それは紫色の夕焼けのような感傷ではなく人間の堂々とした本質的で実在的なことだ。
苦悩を突き抜けて歓喜の世界を志向したベートーベンの音を借りなくても、私は人間の善意志以外には人間の優越性を認められない。すべての矛盾と葛藤と憎悪と殺りくでごちゃごちゃになった、この暗い人間の村落で今日も日が昇っていくのは、たたその善意思によるものではないか。
だから、この世を去る前にすることは、まず人間の善意志を破ることに対する懺悔だ。隣人の善意思に対して自分がおろかなために、しでかした過ちを懺悔しないで目を閉じることができないようだ。
時には大きな過ちより小さな過ちが私たちを苦しめるときがある。過ちというのはすごく大きければ、その重みで容赦なく押さえつけられ慙愧の目が遠くなってしまい、小さい時にだけ記憶に残るものだ。ややもすると、それはすごい偽善かも知れない。しかし、私は生涯、そのひとつのことで取り返しのつかない後悔と自責を感じている。それは影のようについてきて、ふと、自分を恥ずかしくし、苦しめ、鞭打った。
中学校1年生のとき、同じクラスの仲間と家に帰る途中だった。飴売りが箱を置いて一休みしていた。その飴売りは校門の外でもよく見かける顔なじみの人で、片腕がなく、言葉がどもる障害者だった。5、6人の私たちはその飴売りを取り囲み、飴を選ぶ振りをしながら少なくない量の飴をこっそりと盗んだのだ。お金は3,4個分しか払わなかった。
障害のある彼はそんなことは全く知らずにいたのだ。このことが、取り返しのつかないこのことが、私を苦しめている。彼がもしも、ふてぶてしく健康な飴売りだったなら、私は、すでにこのことは忘れてしまっているだろう。しかし、彼に障害があったという点に消すことのできないままの自責はより生々しいのだ。
私がこの世を生きてきながら犯した過ちは数えることができない。その中では許しを受けるのが難しい過ちも少なくないだろう。しかし、何の理由か、その時犯したその過ちがずっと影のように私を追いかけているのだ。この次の世には2度とこのように後悔することが繰り返されないように心から願って、懺悔しないではいられない。私が生きているうちに受けた裏切りや陰謀も、あの時の一人の人間の純朴な善意思を破った因果応報だと考えると十分に耐えることができることだった。
「鋭い剃刀を踏んで歩くのは難しい、賢者に至ることに助けを貰うこともまたこのように難しい。」(ウパニシャド)の言葉を十分に理解することだ。
私が死ぬ時は持っている物がないので、何を誰にやるかというわずらわしいこともないだろう。元々、無一物は私たち僧の所有観念だから。それでも、もし生涯楽しく読んだ童話の本が私の枕元に何冊か残っていたら、朝、「新聞ですよ」と私を訪ねてくれるあの子にあげたい。
葬式とか法事のようなことはまるっきり必要ないこと。最近は僧が世の中の人々よりもより大きな葬式を執り行っているが、そのようにわずらわしくつまらない黒い儀式が、もしも私の名前で行われたならば、私を慰めるどころか、ひどく怒らせることだ。普段の食卓のように簡単明瞭なことを喜ぶ気性だから。私に墓というものがあったならば、あの冷たい石碑の代わりに夏に日の朝から楽しませてくれる、けしの花とか牡丹を植えてくれといいたいが、墓もないからそんな手間隙をかけることはない。
生命の機能がなくなってしまった肉体は見苦しく、隣人の荷物になるから少しの遅れもなく、なくしてくれたらありがたい。それは私が脱いでしまった古い服だから。もちろん移動が便利で隣人の妨害にならない所ならばどこでもいいから、火葬してくれてかまわない。遺骨のようなものを残して隣人に面倒をかけることを私は絶対に、絶対にしたくない。
肉体を捨てた後は羽ばたいて飛んで行きたいところが一箇所ある。「星の王子様」が住んでいる星の国だ。椅子の位置を動かしておけば一日に日暮れを何回も見ることができる、とても小さな、その星の国。一番重要なことは心で見なければならないということを知っている王子は、今頃バラの花を仲良く過ごしているのか。その国には面倒なビザのようなものも必要ないということで、行ってみたいのだ。そして、来世にもまた韓半島に生まれたい。誰がなんと言おうと母国語に対する愛着ゆえ、私はこの国を捨てることができない。また出家して僧になり、今生でできなかったことをしたいのだ。(女性東亜1971,3)


疲れた今日はクリスマスイブだというのに硬い話でした
最後まで読んでいただきありがとうございます。
これからクリスマスの準備です。
コメント
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