退屈しないように シニアの暮らし

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さて何をしようか

法頂 無所有から

2012-12-14 16:43:18 | 韓で遊ぶ
14 東西の視力

自分の体が元気なときは少しもそんなことを思いもしなかったのだが、どうしたものか、病んでみると肉体に対する悲哀を感じる。はじめはたいしたことないと思っていたが、少し過ぎたころ、意を決して、薬局へ行った。そうしていて、ついには頭の重い病院の敷居をまたぐこととなる時その悲哀を感じることになる。診察券を貰い順番を待って座ってぐったりしている時間には、その体がすっかり手におえないほどになる。医者に対したときには、私たちは話をよく聞く素直な子供のようになってしまう。
一昨年の冬だったか、目が痛み、しばらくの間、病院にかかったことがあった。その頃、聖典の刊行に没頭していて右側の目が充血して具合が悪く、とてもよくない状態だった。目薬をさしても効かなかった。ぐずぐずと一日伸ばしにしていたが、意を決して新聞によく広告を出している眼科へ行った。私のように雑で面倒くさがり屋の人が大概そうであるように、広告に誘導されるようだ。
その眼科は患者で混んでおり、診察時間よりも待っている時間が何倍も長かった。医者は押し寄せた患者のせいでそうなのか、競技場から出てきた運動選手のように勇ましく、私の目を調べた。視力には問題がなかった。記帳所のような垂れ幕のかかった所を指差した。待機していた看護婦が尻に注射をさした。そして目薬を一瓶、至極簡単で迅速な治療だった。毎日通いなさいと言ったが、私はその医者の招待を辞退した。毎日通うほどの誠意も時間もなかったからだが、何よりもその医者が信頼できなかったからだ。
次の日、その道の向かい側にある眼科へ行った。落ち着いた雰囲気だ。もちろん勇ましい医者ではない。病名は球結膜浮腫。私たち市民社会の言葉では、白目が少し腫れたという事だ。視力には影響ないから心配せず、ゆっくり休むようにと言った。だが、刊行予定のために目を休ませることはできなかった。しなければならないことが山積みで体がついていけないことが切なかった。
そんなこんなして一週間が過ぎた。医者は心配するなと言ったが、当事者としての私は、よくなる気配がないので、内心不安になるしかなかった。今度は大きな総合病院へ行った。そこは診察券を貰う窓口から混んでいて、廊下ごとに患者であふれていた。世の中の人々が皆、病んでいるのではないかと思うようだった。私も患者の一人だと思った。1時間近く眼科の前で待っていたが、もうあきらめて帰ろうとした時、私の名前が呼ばれた。診察の参考になるかとそれまでの経過を説明したが、担当医師は首をかしげ、私の理解できない文字で書きなぐった。看護婦は私を血液検査室に送った。それから、便を取ってくるように言った。ここでどうしてこんな検査をするんだと思ったが、素直な子供になった患者は言われた通りに従った。そうしながらもこんな思いがかすめた。そうか、総合病院というところは本当に総合的にするところだ。支払いも総合的に公平に分散させるところだと。
血液やら、便の検査結果はもちろん正常だった。そのように正常な私の体を今度は手術室へつれて行ったのだ。組織検査をするということだった。その方面に詳しくない私は組織検査がどういうものか、まったくわからなかった。もし、事前にわかっていたら、それだけは断固として応じなかったのに。手術台に横たわり目の周囲に麻酔注射をした。球結膜を2箇所切って縫った。私の目は拉致犯ではなく医者の手によって徹底的に覆われた。
これも後になってわかったことだが、もし癌だったらと組織検査をしたということだった。1週間後にその結果が判明するということだったが、片方の目に眼帯をした私の姿は息苦しく呆然とした心境だった。帰り道、ふと自分の肉体にすまないという思いがした。普段、よく食べて休ませてやることができず、あまりにも酷使したのだと思ったら、今さらながら、哀れに思った。そして、その報いを受けた体全体が、まさに苦しんでいるという事実を重ね重ね痛感した。検査結果を待っていた1週間の間、不安な日々となった。不必要な想像が自分勝手に翼を広げた。クソォ!生きていたら病身にでもなると言うのか、、、
このときベートーベンがなかったら、何の慰めを受けることができてろうか。どんな病気だとしても、彼が直面したものに比べれば大したことではないように思えた。彼の過酷な運命的な生涯が、病苦に萎縮した冬の私を暖かくそして明るく照らしてくれたのだ。
検査結果は血管が少し収縮したのだと言うこと。それだけのことだった。幸いだと思った反面、けしからんと思った。お金をかけて病気を作っているのではないか。その間にこうむった精神的な被害はさておき、組織検査と称して目をいじくったことになる。医者自身やその家族の場合だったらばそのようにするだろうかと思った。しかし、考え直そうと心に決めた。そうすれば心が落ち着くから。なぜ、よりによって私がその日その病院に行ってその医者の診察を受けることになったのか、それはすべてが因縁ゆえだからだ。仮にその医者の慎重でない臨床試験として私の肉体が被害をこうむったとしても、それは私が受けなければならない報いなのだ。私が切なくて訪ねていったのだから。そして有機体である私の肉体を常に温存しておきたいと望んだことからして報いを受けることだ。目はその後、韓医師の薬を貰って5袋飲んだらすぐに治った。組織検査の後だけが残ったことになる。その韓医師によれば、あまりにも過労だったので心臓に熱が生じて上気したとのこと。上気すると球角膜が腫れる事があると言った。心臓の熱だけ収めるとひとりでに治ると、処方してくれた薬を飲んだら治ったのだ。
ところで、皆が医学博士であるその医者たちが病気の根源がどこにあるのかわからないで、出てきた症状だけを治療していたのだった。その時、私は眼病を通して新しい目を開けることができた。社会現象を、似ている事物の実像を、側面からみることができる、そんな目を。そして、東洋と西洋の視力のようなものを自分なりに計ることができた。漠然とした肉体の悲哀を経験して。(現代文学1973,11)
コメント (2)
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