退屈しないように シニアの暮らし

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さて何をしようか

法頂 無所有より

2012-12-08 20:27:17 | 韓で遊ぶ
8 誤解

世のなかで対人関係ほどに複雑で微妙なものが他にあるだろうか。訳のよくわからない他人の噂の種になり、時にはこちら側の考えとはとんでもなく異なった誤解を受けることもある。そうでありながらも隣人に自分を理解させようと、いつも私たちは忙しい。理解と言うことは本当に可能なのだろうか。愛している人たちは互いが相手を理解しようと嘘をつく。そういう瞬間の中で永遠に生きていきたいと思う。しかし、理解が真実ならばいつも不変でなければならないのに、往々にして誤解の穴に落ちてしまう。私はあなたを理解していますという言葉はあくまでも言語のうえだ。他人が自分を、または自分が他人をどうやって完全に理解できると言うのだ。
ただ、理解したいだけだ。そして、私たちは皆が他人、人はそれぞれに自己中心的な固定観念を持って生きているものだ。そのためにどのような事物に対する理解も問うてみれば、観念の伸縮作用に過ぎない。ひとつの現象をしてなんだかんだと言葉の多いところを見ると、それぞれに自分なりの理解をしていると言うことだ。自分なりの理解と言うことはすなわち、誤解のきっかけだ。だから、私たちはひとつの偏った見方をするに過ぎない存在だ。しかし、世の中では偏った見方をする者が、また違った見方をする者に向かって理解してくれないとやきもきする。恋人たちは自分だけが相手を隅々まで理解しようと盲目的な熱気で誤解の霧の中に迷い込む。
そうしてみると愛すると言うことは理解ではなく想像の翼に便乗したあでやかな誤解だ。「私はあなたを死ぬほど愛しています。」と言う言葉の正体は「私はあなたを死ぬほどに誤解しています。」ということだ。いつか、こんなことがあった。宗教団体の機関紙に何か文章を載せたのだが、それを見た事務僧が私の内面の神経がかゆくなるほどにすばらしいを連発した。その時、私は心の中でこのように思った。「あなたは私を誤解しているね。あなたが私をどのように理解しているといるのだ。もし、あなたの気に障ることでもあったら、今私をほめていたその口で私を中傷するだろうに。やめておきなさい。やめなさい。」
その通り、まさにその次の号に載った文章を見たとき、口角に泡を飛ばしながらとんでもないやつだと歯をむいたのである。心の中で笑うしかなかった。「ほれ見なさい、私が何と言った。それは誤解だと言わなかったか。それは完全な誤解だと。誰かが私をおだて上げたとしてもうぬぼれることもなく中傷することも怒ることもできない。そのすべてが一方だけを見て性急に判断した誤解だから。誤解と言う理解以前の状態ではないか。問題は私が今どのようにいるかにかかっているのだ。実像は言外にあることで真理は誰が何と言っても動じないものだ。完全な理解は、観念からではなく知恵の目を通してだけ可能なのだ。それ以前にはすべてが誤解であるだけ。私はあなたを愛しています。まったく!それは完全な誤解だってば。(中央日報1972,1,31)
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