退屈しないように シニアの暮らし

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さて何をしようか

法頂 無所有より

2012-12-28 20:23:59 | 韓で遊ぶ
24 沈黙の意義

現代は本当に言葉の多い時代だ。食べて吐き出すことが口の機能ではあるが、今日の口は不必要な言葉を吐き出そうと、いつの時代よりも多くの仕事をしているようだ。以前は、人同士が出会ったときに言葉を交わしたのだが、電子媒体とか言うのが出てきてからは、一人でいてもいくらでもしゃべることができるようになった。民主共和国である大韓民国では、流言飛語や緊急措置に違反しないならば、そして治めている人たちの政策から抜け出していなければ、その言葉の内容が、お世辞であろうと、嘘であろうと、あるいは脅迫であろうが勝手にしゃべることができる。いわば、言論の自由が保障されている風土なのだ。
ところが、言葉が多いと使う言葉が特にないということが私たちの経験だ。一日一日私たち自身の口から吐き出される言葉を一人でいる時間の中で見ると大部分がつまらない騒音である。人が言わなければならない言葉というものは、必要な言葉とか、「本当の言葉」でなければならないのだが、不必要な言葉と嘘が大半であることを見ると憂鬱だ。つまらない言葉を言うと、中にある光が少しずつ抜け出してしまっているようで、言葉の終わりにいつも寂しい感じになる。
いい友達というのは何を持って見分けることができるだろうかを、ときどき考えるが、一番目、一緒にいる時間に対する意識によって見分けることができるようだ。一緒にいる時間が退屈に感じるならば、そうではないと言うことだ。もう、そんな時間になったの?というぐらい、一緒にいる時間が早く流れて行ったならば、それは親密な間であるということだ。なぜならば、いい友達とは、時間と空間の外で暮らすからだ。私たちが祈りをあげるならば、もっとよくわかることができる。祈りが純粋にうまくいく場合は、時空の中で生きている日常の私たちであるが、明らかに時空の外にいるようになり、そうできないときはしょっちゅう時間を意識するようになる。時間と空間を意識するならばそれはうわべだけの祈りなのだ。
私たちはまた、何を持って友達を見分けることができるだろうか。そうだ!言葉がなくても、退屈だとか、味気ないとかそんな仲はいい友達ではない。口を広げて持っているものを出さなくても豊かで清らかな庭を互いが頻繁に行ったり来りできることだ。声が外に出ない分、玉のように曇りのない言葉が沈黙の中で終わりなく来ては行く。そんな境地には時間と空間が至ることはできない。
言葉というものはいつも誤解を伴うことになる。同じ概念を持っている言葉を持ってしても意思疎通がうまくいかないことは、互いが言葉の後ろに隠れている意味を知らないでいるからだ。幼い子供の下手な言葉をすぐに聞き分けることのできるのは、言葉よりも意味に耳を傾けるからだ。このように愛は沈黙の中にできあがるのだ。
事実、沈黙を背景にしない言葉は騒音に他ならない。考えなくぺらぺらとむやみににじむ言葉を消して見ると、私たちは言葉と騒音の限界を知ることができる。今日、私たちの口から吐き出される言葉が、地位の高下を問わず、ややもすると荒く野卑になっていく現象は、それだけ内面が貧しいという証拠であるということだ。
よって、性急な現代人たちは自分の言語の使い方を知らない。政治権力者が、タレントが、歌手が、コメディアンが吐き出す言葉を何の抵抗もなく、そのまま真似をしているのだ。だから頭の中が空っぽになっていく。自分の思惟が奪われている。
修道者に寡黙とか沈黙が美徳だと思われることも、正にその点に問題があるからだ。黙想を通して私たちの中に溜まっている言葉を初めて聞く。内面から聞こえてくるその音は、いまだ編集されない聖書なのだ。私たちが聖書を読む本質的な意味はまだ、活字化されていない、その言葉までもよく理解して、それと同じ暮らしのためではなかろうか。
我有一巻経
不因紙墨成
展開無一字
常放大光明
人それぞれに一冊の経典がある
それは紙や活字で成る物ではない
広げて見ても一つの文字もない
いつもこうこうと光を発している
仏教にある言葉だ。日常の私たちは目に見え、耳に聞こえ、手につかめるものとしてだけどんな事物かを認識しようとする。しかし、実情はあの沈黙のように、見えも、聞こえも、つかむこともないところにあるのだ。自己中心的な固定観念から抜け出し虚心坦懐としたその心から大きな光明が発せられるいう言葉だ。
座禅をする禅院には禅室の内外に「黙言」と書いた紙がはってある。話をしないということ。話をすると互いが精進の妨害となるためだ。集団生活をして見ると時には是か非か分けることがある。
是非を問いただして見ると、集中することができない。禅は純粋な集中でありと同時に徹底した自己凝視である。すべての是非と分別妄想を離れたときにだけ三昧の境地に入ることができるのだ。言葉は意思疎通の口実ではあるが、時には、同時に不必要な雑音の逆機能もしている。口是禍門、口を指して禍の門だということも、その逆機能面を指摘するものだ。ある禅僧たちは3年、10年、ずっと無言を守っている。彼が黙言中である時は、大衆も彼には声をかけない。
修道者たちがこれと同じように沈黙することは、沈黙それ自体に意味があるからではなく、沈黙という、ろ過過程を通してやっと「本当の言葉」だけを話すようになるためである。言葉がしゃべれない人と黙言者の違う点は正にここにある。
カルリル ジブランは私たちがしなければならない言葉は「声の中の声で、耳の中の耳に」話す言葉だと言った。事実、言語の極致は言葉よりも沈黙にあるようだ。あまりにも感激が強いときには私たちは言葉を失う。
しかし、人である私たちは、言うことは言わなければならない。ところが、口を開いて正に話をしなければならないと場合にも沈黙を固守する人がいる。それは美徳ではなく卑怯な回避だ。そのような沈黙は時には犯罪の性質を帯びる。正しいか正しくないか分けて見なければならない立場の人の沈黙は卑怯な沈黙だ。卑怯な沈黙が私たちの時代をよこしまにする。沈黙の意味は、使いようのない言葉をしない代わりに堂々と本当の言葉をするためなのであり、卑怯な沈黙を固守するためではないのだ。何も気にかけるものがない人だけが堂々と話をすることができる。堂々とした言葉が、ばらばらになった人間を結合させ明るい道を貫くことができるのだ。修道者が沈黙を修行する、その意味も正にここにあるのだ。(サモク1974,9)


原文はこちら
結構誤字、脱字あり、
それにしても難しい
コメント
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