退屈しないように シニアの暮らし

ブログ巡り、パン作り、テニス、犬と遊ぶ、韓国、温泉、俳句、麻雀、木工、家庭菜園、散歩、卓球
さて何をしようか

法頂 無所有より

2012-12-22 23:12:40 | 韓で遊ぶ
19 忘れられない人

水然僧様!彼は情け深い道伴(共に仏道を修行する友)であり、禅知識だった。慈悲が何であるかを口で言うのでなく行動して見せてくれたそんな人だった。道端に無心に咲いている名前も知らない草花が時には私たちに足を止めさせるように、彼は小さなことで私を感動させたのだ。
水然僧様!彼は話をしなかった。いつも静かに微笑んでいるだけで、尋ねたり答えてくれた。そんな彼を15年がたった今も忘れることができない。忘れられない人だ。1959年、冬、私はチリ山のサンケ寺塔殿で、一人、安居に入ろうと準備をしていた。準備というのは、冬の3ヶ月間の安居の間食べる食料と薪、そして少しのキムチを作った。お仕えしていた恩師ヒョボン禅師がその年の冬、ネパールで開かれる世界仏教大会に参席のため旅立ったので私は一人で過ごすしかなかったのだ。
陰暦の10月初旬、河東、岳陽という農村に行き托鉢をした。5日間の托鉢で冬の間の食料としては十分だった。托鉢を終えて戻って見ると誰もいないはずの庵に夕食を作る煙が立ち上っていた。
背嚢を下ろして台所に行って見た。見慣れない僧が一人火をくべていた。旅の僧は、つぎはぎだらけの服を着て、色白のすっきりした顔に、静かに微笑んで食事の支度をしていた。その時、初めて彼と私は出会ったのだった。人はそのように瞬間的に縁が結ばれるようだ。互いが出家した僧であるために、よりそうだった。
チリ山で冬を越してきたという彼の話を聞いて私はうれしかった。一人で安居するのは自由なようだが、精進しようと思うと障害が多い。特に、出家してから浅い時の私としては、一人でいると誤って怠惰になってしまう恐れがあったからだ。
10月15日冬の安居に入る結制の日、私たちはいくつかの仕事について協議だけしておいた。彼はすべてのことを私の意志に従ってついていくと言った。しかし、精進する時には主客があってはならない。ただ二人で生活するといっても二人の意思をひとつにしておけば円滑に過ごすことができる。彼はまったく自分の意思を主張しなかった。そのままついて従うということだった。
実際の年齢は私より1歳少ないが、出家したのは彼のほうが1年早かった。彼は学校教育を多く受けていないようだったが、天性が落ちついた人格だった。どこが故郷なのかどこで出家したのか互いに聞かないことが僧の家の礼節であることを知っている私たちは過ぎてきた跡のようなものは知ることができない。そして知る必要もないのだ。ただ、彼の言葉使いやイントネーションで、故郷と出身地を推測するだけだ。彼は私と同じ全羅道なまりを使っていたのだった。そして消化の機能がよくないようだった。
私は供養主(ご飯を炊く任務)をしてからは汁物とおかずを作る菜供をすることにした。汁を煮ておかずを作る彼の腕前は並大抵のものではなかった。おいしくない柿でも彼の手にかかると甘露の味がした。そして私たちは一日に一食しか食べず、参禅だけをすることにした。その時、私たち初発心した新米の僧たちは戒律に対してぎらぎらしていて、屋外の仕事に時間を売ることなく一生懸命精進した。
その年の冬の安居を私たちは無事に終えることができた。その後に知ったことだが、何の障害もなく純粋に安居を送るということは決して簡単なことではなかった。この次の正月15日、安居が終わる解制の日、解制になったら一緒に行脚に行ってあちこち歩いて見物しようと私たちはその解制を前にしてひたすら胸を膨らませていた。
しかし、解制の前の日から私は具合が悪くなった。何日か前に冷たい水で沐浴したのがいけなかったようだ。解制にはなったが、旅立つことができなかった。
山で病気になるとやきもきすることこの上ない。僧は元気なときもいつも一人だが、病んで見るとそんな事実を具体的に感じさせられる。薬があるわけでもなく、近くに医療機関もない。ただ病むだけ病んでよくなるのを願うだけだ。そして、その時私たちは徹底的に無所有だった。夜になると、うわごとを言う私の枕元で、彼はずっと座っていた。のどが渇いたというと湯を沸かしてきながら、額のつめたいタオルを代えてくれ眠らなかった。
そんなある日の朝、彼はしばらく下の村に行ってくると出て行ったのに昼になっても帰らなかった。日が傾いてもまったく連絡がなかった。炊いておいたお粥を、夕食まで食べた。私はとても気になった。夜の10時近くになって台所で人の気配がした。その間私はしばらく寝ていたようだ。彼が部屋の戸をあけて入って来たとき、手には薬の入った茶碗を持っていた。とても遅くなったと言いながら、薬を飲みなさいということだった。このときのことを私は忘れることができない。彼の献身的な真心に私は幼い子供のように泣いてしまった。その時彼は何も言わないで私の手を失火ライト握ってくれた。
庵から一番近い薬局でも40里余りのところにあるクレの町だ。その頃の交通手段というものはクレの町に市場が立つ日、市場を利用したい人たちを乗せて通うトラックがあるだけ。だけど、その日は市の立つ日ではなかった。彼は長々と80里の道を歩いて行って来たのだ。互いにお金が一銭もない身の上であることを知っていた。彼はクレまで歩いていって托鉢をした。そのお金で薬を準備したのだ。彼はクレまで歩いて行ってそれから托鉢をした
のだった。そのお金で薬を買ったのだ。遠い、遠い夜の道を歩いて薬をくれたのだった。
慈悲が何であるかを私は生涯初めて全心身で切々と感じることができた。そして、道伴の情けがどんなものなのかもやっと体験することができたということだ。そのように懇切な真心に対し治らない病気がどこにあろうか。足が少しふらついたがその次の日動けるようになった。
その時私たちが起居した庵から5里余り奥に入って上がっていくと滝の横に洞窟があって参禅をしている老僧が一人いらした。老僧が何かの用事で洞窟の外に出かけてると必ず私たちのところに立ち寄った。その時ごとに老僧が背負ってきたものを老僧よりも先に洞窟へ持っていった。


つづく
まずはできたところまで
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする