今日も長くて終わらなかった、、、
途中までですが、、、
眠くなりました
また明日お願いします
21人形と人間
私の考えの糸口はしばしばバスの中で完成する。通勤時間の混雑する市内バスの中で私は暮らしの密度のようなものを実感する。禅室とか木陰でする思索は静かではあるが、ある固定観念に縛られて空虚で無機的になりやすく、走っているバスの中では生きて動いているという生動間を感じることができる。
終点に向かってずっと走っているバスはその中に乗せていく私たちに人生の意味を付与するところが少なくない。生きるということは一種の燃焼であり、自己消耗だという表現に共感が行く。そして一緒に乗っていく人々のその善良な目つきが、それぞれに何かの考えに浸って無心に窓の外を眺めている、だから少しさびしげに見えるその目つきが私自身を清らかに照らしているのだ。その人々の目は連帯感を持っている。この時代と社会で喜びと痛みをともにしているというそんな連帯感を。私は少し前からいくら忙しいことがあってもタクシーには乗らない。乗り方を知らないからではなく、乗りたくないからだ。懐具合もそうさせるのだが。どんどん上がる物価に対して自分なりに抵抗するためだ。そして、より重要な理由はタクシーの中では連帯感が感じられないという点にある。お金をもっと出したなら、楽に迅速に自分を運んでくれるけれど。その時ごとに隣人との断絶をいつも感じる。
混雑した車の中で時々足を踏まれることも、上着の紐が引っ張られることもあるけれど、そんな中で一層生命の活気のようなものを感じることができ、耐えるに値するのだ。そしてバスに乗ると運転手と乗客の間の関係を通して今さらながら共同運命体を感じるようになる。
彼がボーっとしていたり、危険な運転をしたならば、それによる被害は私たち皆のものだ。だから、彼の技術と苦労を認めながらも車をちゃんと動かして行くか、当初の約束通りに路線を守りながら行くのかにも無関心ではいられないのだ。頭の上でギャーギャーと吐き出す流行歌と笑えない漫談が私たちをひどく疲れさせても運転手と車掌が好きなものだから、我慢して耐えるしかない。終わりのない忍耐を身に付けた私たち小市民の身の上だから。
人を土をこねて作ったという宗教的な神話はいろいろと象徴的な意味がありそうだ。古代インド人も私たちの身体の構成要素を、土と水と火と風を挙げていたが、金属やプラスチックを使わないで土で作ったというところはそれだけの理由があることだ。
私たちに、大地は永遠の母性。土から食べ物を育てその上に家を建てる。その上を直接歩きながら人生の生態。そして土は私たちの生命の乳腺であるだけでなく私たちに多くのことを教えてくれる。種をまけば芽が出て、葉と枝が広がりそこに花と実がなる。生命の発芽の現象を通して不可視的である領域にも目を開けさせる。そのため、土の近くにいれば自然に土の得を学び純朴で謙虚になり、信じて待つことを知る。土には嘘がなく、無秩序もありえない。
セメントと鉄筋とアスファルトには生命が芽生えることができない。雨が降る自然の音さえ都市は拒否する。しかし、土は雨を、そしてその音を受け入れるのだ。土に降る雨の音を聞いていると、私たちの心は故郷に帰っていくように清らかになり穏やかになる。
どこが楽しいのか。靴と靴下を脱いで掘り起こした畑の土を素足で感じて見なさい。そして土の香りをかいで見なさい。それは躍動する生の喜びになる。しかし、しかし、いい暮らしをしようという口実の元に産業化と都市化で上に駆け上っている今日の文明はややもすると土を遠ざけようとするところに矛盾があるのだ。生命の源である大地を遠ざけて、穀物を作る善良な農民を踏みつけてどうして、いい暮らしをすることができるのか。生きるということは抽象的な観念ではなく、具体的な現象。よって、どこに根を下ろしているかによって暮らしの状態がいろいろに変わるのだ。
最近の食糧難は尋常なことではないようだ。それが世界的な現象であり、その展望は決して明るいものではないという。その理由は増えていく人口にだけあるのではない。土を遠ざけた報いによるものに間違いない。土を離れた人間に実情が何なのかを警告している知らせではないか。もしかしたら幸運なことかもしれない。わからなくなった人類に、土を見捨てた私たちに、土の恩恵を重ねて認識させる契機になったなら。現代人たちは以前の人間に比べて知っていることが本当に多い。自分の専攻分野でなくても、新聞、雑誌と放送などの大量媒体を通して多くのことを知る。だから、賢くて営利的である。利害と打算に敏感で外側と内が同じではない。いつもすばしっこいだけでなく性急で辛抱強さが足りない現代人に、根気とか底力、あるいは信義のようなものははじめから期待することができない。波に洗われた小石のように磨り減るだけ磨り減ってつるつるしている。
ある禅師の畑の開墾の話を思い出して見たら愚かさと、知恵に満ちているということが決して無縁ではないということを知ることができる。ヘウォル禅師は寺の横に畑を開墾した。使い道のない捨てられた土地を見て、畑を作ったらと思った。ちょうど凶年で村の人々が生きていくのが苦しくなっているのを見て、その人たちを呼んで仕事をさせた。
1ヶ月、2ヶ月
途中までですが、、、
眠くなりました
また明日お願いします
21人形と人間
私の考えの糸口はしばしばバスの中で完成する。通勤時間の混雑する市内バスの中で私は暮らしの密度のようなものを実感する。禅室とか木陰でする思索は静かではあるが、ある固定観念に縛られて空虚で無機的になりやすく、走っているバスの中では生きて動いているという生動間を感じることができる。
終点に向かってずっと走っているバスはその中に乗せていく私たちに人生の意味を付与するところが少なくない。生きるということは一種の燃焼であり、自己消耗だという表現に共感が行く。そして一緒に乗っていく人々のその善良な目つきが、それぞれに何かの考えに浸って無心に窓の外を眺めている、だから少しさびしげに見えるその目つきが私自身を清らかに照らしているのだ。その人々の目は連帯感を持っている。この時代と社会で喜びと痛みをともにしているというそんな連帯感を。私は少し前からいくら忙しいことがあってもタクシーには乗らない。乗り方を知らないからではなく、乗りたくないからだ。懐具合もそうさせるのだが。どんどん上がる物価に対して自分なりに抵抗するためだ。そして、より重要な理由はタクシーの中では連帯感が感じられないという点にある。お金をもっと出したなら、楽に迅速に自分を運んでくれるけれど。その時ごとに隣人との断絶をいつも感じる。
混雑した車の中で時々足を踏まれることも、上着の紐が引っ張られることもあるけれど、そんな中で一層生命の活気のようなものを感じることができ、耐えるに値するのだ。そしてバスに乗ると運転手と乗客の間の関係を通して今さらながら共同運命体を感じるようになる。
彼がボーっとしていたり、危険な運転をしたならば、それによる被害は私たち皆のものだ。だから、彼の技術と苦労を認めながらも車をちゃんと動かして行くか、当初の約束通りに路線を守りながら行くのかにも無関心ではいられないのだ。頭の上でギャーギャーと吐き出す流行歌と笑えない漫談が私たちをひどく疲れさせても運転手と車掌が好きなものだから、我慢して耐えるしかない。終わりのない忍耐を身に付けた私たち小市民の身の上だから。
人を土をこねて作ったという宗教的な神話はいろいろと象徴的な意味がありそうだ。古代インド人も私たちの身体の構成要素を、土と水と火と風を挙げていたが、金属やプラスチックを使わないで土で作ったというところはそれだけの理由があることだ。
私たちに、大地は永遠の母性。土から食べ物を育てその上に家を建てる。その上を直接歩きながら人生の生態。そして土は私たちの生命の乳腺であるだけでなく私たちに多くのことを教えてくれる。種をまけば芽が出て、葉と枝が広がりそこに花と実がなる。生命の発芽の現象を通して不可視的である領域にも目を開けさせる。そのため、土の近くにいれば自然に土の得を学び純朴で謙虚になり、信じて待つことを知る。土には嘘がなく、無秩序もありえない。
セメントと鉄筋とアスファルトには生命が芽生えることができない。雨が降る自然の音さえ都市は拒否する。しかし、土は雨を、そしてその音を受け入れるのだ。土に降る雨の音を聞いていると、私たちの心は故郷に帰っていくように清らかになり穏やかになる。
どこが楽しいのか。靴と靴下を脱いで掘り起こした畑の土を素足で感じて見なさい。そして土の香りをかいで見なさい。それは躍動する生の喜びになる。しかし、しかし、いい暮らしをしようという口実の元に産業化と都市化で上に駆け上っている今日の文明はややもすると土を遠ざけようとするところに矛盾があるのだ。生命の源である大地を遠ざけて、穀物を作る善良な農民を踏みつけてどうして、いい暮らしをすることができるのか。生きるということは抽象的な観念ではなく、具体的な現象。よって、どこに根を下ろしているかによって暮らしの状態がいろいろに変わるのだ。
最近の食糧難は尋常なことではないようだ。それが世界的な現象であり、その展望は決して明るいものではないという。その理由は増えていく人口にだけあるのではない。土を遠ざけた報いによるものに間違いない。土を離れた人間に実情が何なのかを警告している知らせではないか。もしかしたら幸運なことかもしれない。わからなくなった人類に、土を見捨てた私たちに、土の恩恵を重ねて認識させる契機になったなら。現代人たちは以前の人間に比べて知っていることが本当に多い。自分の専攻分野でなくても、新聞、雑誌と放送などの大量媒体を通して多くのことを知る。だから、賢くて営利的である。利害と打算に敏感で外側と内が同じではない。いつもすばしっこいだけでなく性急で辛抱強さが足りない現代人に、根気とか底力、あるいは信義のようなものははじめから期待することができない。波に洗われた小石のように磨り減るだけ磨り減ってつるつるしている。
ある禅師の畑の開墾の話を思い出して見たら愚かさと、知恵に満ちているということが決して無縁ではないということを知ることができる。ヘウォル禅師は寺の横に畑を開墾した。使い道のない捨てられた土地を見て、畑を作ったらと思った。ちょうど凶年で村の人々が生きていくのが苦しくなっているのを見て、その人たちを呼んで仕事をさせた。
1ヶ月、2ヶ月