22 錆が鉄を食べる
「10尋の水の中は知ることができても、一尋の人の心の中はわからない。」(人の心を知るのは難しいという意味)という諺がある。人の心のように不可思議なものは他にあるだろうか。寛大であるときはすべての世の中を残らず受け入れても、一度こじれると針ひとつ挿す所がないのが心だから。だから、歌手が今日も「私の心、私もわからない、、、」と私たちのこととを代弁する。自分の心を自分がわからないとは。見方を変えると無責任な言葉だ。しかし、これは平凡ながらも間違いのない真理だ。
人々は仕事場で多くの人々に対することになる。ある人とは目が合うだけでその日のやりがいを感じるようになり、ある人とは影を見ただけでも嫌気がさす場合がある。限られた職場での対人関係のように重要なものもないだろう。わからないことだが、なじんだ職場をやめる場合、その原因の中にいくらかはその対人関係もあるのではないだろうか。
どうして同じ人間なのに、ある人はかわいくて、ある人はかわいくないのか。宗教的な側面から見ると前世の事情に縛られているというかもしれないが、常識の世界で見ても何かそんなきっかけがあるようだ。原因のない結果はないものだから。
だからといって職場が「一本橋」になってはだめだ。まずは同じ職場で会った因縁に感謝を感じなければならないようだ。この世の中には30数億にもなるおびただしい数の人々が暮らしている。その中で、東洋、またその中でも5000万を越える韓半島、そして、分断された南側、ソウルだけだとしても600万を越える人々の中で同じ職場に勤めているということは本当に極極まれな比率なのだ。このようなことを考えた時、出会った因縁にまず感謝しないではいられない。
気障りなことがあっても、自分の心を、自分が自ら思いなおすしかない。他人を憎んだならば相手が憎くなるのではなく自分の心が憎くなるから。気障りだと思ったり、憎いという思いを持って暮らしたら、その被害者は誰でもない、正に私自身なのだ。一日一日をそうやって暮らしてしまったら自分の人生自体が汚れてしまう。
だから、対人関係を通して私たちは人生を学び、自分自身を磨くのだ。改心、すなわち思い直すということで自分の人生の意味を深化させるということなのだ。結ばれるということはいつか解けなければいけない。今生で解けなければそのいつかまで持続できるのかわからないこと。だから職場はいい機会であるだけでなく新和力を育てるよりどころでありうる。仕事の偉大性は何よりも人々を結合させる点だ。仕事を通して私たちは結ばれることができるということだ。憎いと思うことも自分の心で、かわいいと思うことも自分の心によるところだ。
「華厳経」で一切唯心造ということも正にこの意味だ。そのどんな修道や、修養をしたとしても、この心を離れなければありえない。それは心がすべてのことの根本であるためだ。「法句経」にはこんな比喩も出てくる。「錆は鉄から出てくるものだが、だんだんその鉄を食べてしまう。」これと同じようにこの心根が表立たないならば、その人自身がさびてしまうという意味だ。
私たちが完全な人になろうとしたら、自分の心を自分が使えるようになってこそできることだ。それは偶然にできることではなく日常的な対人関係を通してだけ可能なことだ。なぜ私たちが互いに憎悪しなければならないのか。私たちは同じ舟に乗せられ同じ方向に航海する旅人なのに、、、(心1973,7)
「10尋の水の中は知ることができても、一尋の人の心の中はわからない。」(人の心を知るのは難しいという意味)という諺がある。人の心のように不可思議なものは他にあるだろうか。寛大であるときはすべての世の中を残らず受け入れても、一度こじれると針ひとつ挿す所がないのが心だから。だから、歌手が今日も「私の心、私もわからない、、、」と私たちのこととを代弁する。自分の心を自分がわからないとは。見方を変えると無責任な言葉だ。しかし、これは平凡ながらも間違いのない真理だ。
人々は仕事場で多くの人々に対することになる。ある人とは目が合うだけでその日のやりがいを感じるようになり、ある人とは影を見ただけでも嫌気がさす場合がある。限られた職場での対人関係のように重要なものもないだろう。わからないことだが、なじんだ職場をやめる場合、その原因の中にいくらかはその対人関係もあるのではないだろうか。
どうして同じ人間なのに、ある人はかわいくて、ある人はかわいくないのか。宗教的な側面から見ると前世の事情に縛られているというかもしれないが、常識の世界で見ても何かそんなきっかけがあるようだ。原因のない結果はないものだから。
だからといって職場が「一本橋」になってはだめだ。まずは同じ職場で会った因縁に感謝を感じなければならないようだ。この世の中には30数億にもなるおびただしい数の人々が暮らしている。その中で、東洋、またその中でも5000万を越える韓半島、そして、分断された南側、ソウルだけだとしても600万を越える人々の中で同じ職場に勤めているということは本当に極極まれな比率なのだ。このようなことを考えた時、出会った因縁にまず感謝しないではいられない。
気障りなことがあっても、自分の心を、自分が自ら思いなおすしかない。他人を憎んだならば相手が憎くなるのではなく自分の心が憎くなるから。気障りだと思ったり、憎いという思いを持って暮らしたら、その被害者は誰でもない、正に私自身なのだ。一日一日をそうやって暮らしてしまったら自分の人生自体が汚れてしまう。
だから、対人関係を通して私たちは人生を学び、自分自身を磨くのだ。改心、すなわち思い直すということで自分の人生の意味を深化させるということなのだ。結ばれるということはいつか解けなければいけない。今生で解けなければそのいつかまで持続できるのかわからないこと。だから職場はいい機会であるだけでなく新和力を育てるよりどころでありうる。仕事の偉大性は何よりも人々を結合させる点だ。仕事を通して私たちは結ばれることができるということだ。憎いと思うことも自分の心で、かわいいと思うことも自分の心によるところだ。
「華厳経」で一切唯心造ということも正にこの意味だ。そのどんな修道や、修養をしたとしても、この心を離れなければありえない。それは心がすべてのことの根本であるためだ。「法句経」にはこんな比喩も出てくる。「錆は鉄から出てくるものだが、だんだんその鉄を食べてしまう。」これと同じようにこの心根が表立たないならば、その人自身がさびてしまうという意味だ。
私たちが完全な人になろうとしたら、自分の心を自分が使えるようになってこそできることだ。それは偶然にできることではなく日常的な対人関係を通してだけ可能なことだ。なぜ私たちが互いに憎悪しなければならないのか。私たちは同じ舟に乗せられ同じ方向に航海する旅人なのに、、、(心1973,7)