退屈しないように シニアの暮らし

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さて何をしようか

法頂 無所有から

2012-12-26 21:11:25 | 韓で遊ぶ
22 錆が鉄を食べる

「10尋の水の中は知ることができても、一尋の人の心の中はわからない。」(人の心を知るのは難しいという意味)という諺がある。人の心のように不可思議なものは他にあるだろうか。寛大であるときはすべての世の中を残らず受け入れても、一度こじれると針ひとつ挿す所がないのが心だから。だから、歌手が今日も「私の心、私もわからない、、、」と私たちのこととを代弁する。自分の心を自分がわからないとは。見方を変えると無責任な言葉だ。しかし、これは平凡ながらも間違いのない真理だ。
人々は仕事場で多くの人々に対することになる。ある人とは目が合うだけでその日のやりがいを感じるようになり、ある人とは影を見ただけでも嫌気がさす場合がある。限られた職場での対人関係のように重要なものもないだろう。わからないことだが、なじんだ職場をやめる場合、その原因の中にいくらかはその対人関係もあるのではないだろうか。
どうして同じ人間なのに、ある人はかわいくて、ある人はかわいくないのか。宗教的な側面から見ると前世の事情に縛られているというかもしれないが、常識の世界で見ても何かそんなきっかけがあるようだ。原因のない結果はないものだから。
だからといって職場が「一本橋」になってはだめだ。まずは同じ職場で会った因縁に感謝を感じなければならないようだ。この世の中には30数億にもなるおびただしい数の人々が暮らしている。その中で、東洋、またその中でも5000万を越える韓半島、そして、分断された南側、ソウルだけだとしても600万を越える人々の中で同じ職場に勤めているということは本当に極極まれな比率なのだ。このようなことを考えた時、出会った因縁にまず感謝しないではいられない。
気障りなことがあっても、自分の心を、自分が自ら思いなおすしかない。他人を憎んだならば相手が憎くなるのではなく自分の心が憎くなるから。気障りだと思ったり、憎いという思いを持って暮らしたら、その被害者は誰でもない、正に私自身なのだ。一日一日をそうやって暮らしてしまったら自分の人生自体が汚れてしまう。
だから、対人関係を通して私たちは人生を学び、自分自身を磨くのだ。改心、すなわち思い直すということで自分の人生の意味を深化させるということなのだ。結ばれるということはいつか解けなければいけない。今生で解けなければそのいつかまで持続できるのかわからないこと。だから職場はいい機会であるだけでなく新和力を育てるよりどころでありうる。仕事の偉大性は何よりも人々を結合させる点だ。仕事を通して私たちは結ばれることができるということだ。憎いと思うことも自分の心で、かわいいと思うことも自分の心によるところだ。
「華厳経」で一切唯心造ということも正にこの意味だ。そのどんな修道や、修養をしたとしても、この心を離れなければありえない。それは心がすべてのことの根本であるためだ。「法句経」にはこんな比喩も出てくる。「錆は鉄から出てくるものだが、だんだんその鉄を食べてしまう。」これと同じようにこの心根が表立たないならば、その人自身がさびてしまうという意味だ。
私たちが完全な人になろうとしたら、自分の心を自分が使えるようになってこそできることだ。それは偶然にできることではなく日常的な対人関係を通してだけ可能なことだ。なぜ私たちが互いに憎悪しなければならないのか。私たちは同じ舟に乗せられ同じ方向に航海する旅人なのに、、、(心1973,7)
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法頂 無所有から

2012-12-26 10:40:14 | 韓で遊ぶ
21人形と人間

私の考えの糸口はしばしばバスの中で完成する。通勤時間の混雑する市内バスの中で、私は暮らしの密度のようなものを実感する。禅室とか木陰でする思索は静かではあるが、ある固定観念に縛られて空虚で無機的になりやすく、走っているバスの中では生きて動いているという生動間を感じることができる。
終点に向かってずっと走っているバスは、その中に乗せていく私たちに、人生の意味を付与するところが少なくない。生きるということは一種の燃焼であり、自己消耗だという表現に共感が行く。そして一緒に乗っていく人々の、その善良な目つきが、それぞれに何かの考えに浸って無心に窓の外を眺めている、だから少しさびしげに見えるその目つきが私自身を清らかに照らしているのだ。その人々の目は連帯感を持っている。この時代と社会で喜びと痛みを共にしているというそんな連帯感を。私は少し前からいくら忙しいことがあってもタクシーには乗らない。乗り方を知らないからではなく、乗りたくないからだ。懐具合もそうさせるのだが。どんどん上がる物価に対して自分なりに抵抗するためだ。そして、より重要な理由はタクシーの中では連帯感が感じられないという点にある。お金をもっと出したなら、楽に迅速に自分を運んでくれるけれど。その時ごとに隣人との断絶をいつも感じる。
混雑した車の中で時々足を踏まれることも、上着の紐が引っ張られることもあるけれど、そんな中で一層、生命の活気のようなものを感じることができ、耐えるに値するのだ。そしてバスに乗ると運転手と乗客の間の関係を通して、今さらながら共同運命体を感じるようになる。
彼がボーっとしていたり、危険な運転をしたならば、それによる被害は私たち皆のものだ。だから、彼の技術と苦労を認めながらも車をちゃんと動かして行くか、当初の約束通りに路線を守りながら行くのかにも無関心ではいられないのだ。頭の上にギャーギャーと吐き出す流行歌と、笑えない漫談が私たちをひどく疲れさせても、運転手と車掌が好きなものだから、我慢して耐えるしかない。終わりのない忍耐を身に付けた私たち小市民の身の上だから。
人を、土をこねて作ったという宗教的な神話はいろいろと象徴的な意味がありそうだ。古代インド人も私たちの身体の構成要素に、土と水と火と風を挙げていたが、金属やプラスチックを使わないで土で作ったというところは、それだけの理由があることだ。
私たちに、大地は永遠の母性。土で食べ物を育て、その上に家を建てる。その上を直接歩きながら人生の生態。そして土は私たちの生命の乳腺であるだけでなく私たちに多くのことを教えてくれる。種をまけば芽が出て、葉と枝が広がり、そこに花と実がなる。生命の発芽の現象を通して不可視的である領域にも目を開けさせる。そのため、土の近くにいれば自然に土の得を学び、純朴で謙虚になり、信じて待つことを知る。土には嘘がなく、無秩序もありえない。
セメントと鉄筋とアスファルトには生命が芽生えることができない。雨が降る自然の音さえ都市は拒否する。しかし、土は雨を、そしてその音を受け入れるのだ。土に降る雨の音を聞いていると、私たちの心は故郷に帰っていくように清らかになり穏やかになる。
どこが楽しいのか。靴と靴下を脱いで掘り起こした畑の土を素足で感じて見なさい。そして土の香りをかいで見なさい。それは躍動する生の喜びになる。しかし、しかし、いい暮らしをしようという口実の元に産業化と都市化で上に駆け上っている今日の文明は、ややもすると土を遠ざけようとするところに矛盾があるのだ。生命の源である大地を遠ざけて、穀物を作る善良な農民を踏みつけて、どうして、いい暮らしをすることができるのか。生きるということは抽象的な観念ではなく、具体的な現象。よって、どこに根を下ろしているかによって暮らしの状態がいろいろに変わるのだ。
最近の食糧難は尋常なことではないようだ。それが世界的な現象であり、その展望は決して明るいものではないという。その理由は増えていく人口にだけあるのではない。土を遠ざけた報いによるものに間違いない。土を離れた人間に実情が何なのかを警告する知らせではないか。もしかしたら幸運なことかもしれない。わからなくなった人類に、土を見捨てた私たちに、土の恩恵を重ねて認識させる契機になったなら。現代人たちは以前の人間に比べて知っていることが本当に多い。自分の専攻分野でなくても、新聞、雑誌と放送などの大量媒体を通して多くのことを知る。だから、賢くて営利的である。利害と打算に敏感で外側と内が同じではない。いつもすばしっこいだけでな、性急で辛抱強さが足りない現代人に、根気とか底力、あるいは信義のようなものは、はじめから期待することができない。波に洗われた小石のように磨り減るだけ磨り減ってつるつるしている。
ある禅師の畑の開墾の話を思い出して見たら、愚かさと、知恵に満ちているということが決して無縁ではないということを知ることができる。ヘウォル禅師は寺の横に畑を開墾した。使い道のない捨てられた土地を見て、畑を作ったらと思った。ちょうど凶年で村の人々が生きていくのが苦しくなっているのを見て、その人たちを呼んで仕事をさせた。
1ヶ月、2ヶ月かかっても畑は簡単にはできなかった。見ている人たちは、その労賃でもっと多くの畑を買うことができるからと、やめるように言ったがやめなかった。とうとう彼は狂った老人だと笑われるようになった。禅師は聞かなかった振りをして夜があけると仕事場に出て人夫たちと共に仕事をした。これと同じようにして何百坪の畑を作った。しかし、そこにかかった労賃は出来上がった畑の時価よりも何倍もかかった。しかし、禅師は今までなかった畑を新しく作ったことを喜んだ。彼は世俗的な目で見る時、明らかに算術を知らない愚かな人だった。しかしその愚かさを持って凶年に多くの人たちが飢えることがないようにできたのだった。そのような事情がまつわる畑として寺ではその畑を単純な土地ではなく、今日でも士風の象徴のように大切に思っている。
一様に小ざかしく磨り減っていく世の中だから、そのように愚かで馬鹿正直なことが私たちを暖かく包んでくれるのだ。大愚は大地に通じるという言葉が決して空言ではないようだ。どの宗派ということでなく、今日の宗教が宗教本来の機能を遂行することができずにいる要因は一言で言うのが難しいように複合性を帯びている。昔の聖人たちの教えは一様に簡単で明瞭だった。聞けば誰でも皆理解できるような内容だった。しかし、学者(この中には勿論、神学者も含まなければならない)という人々が、飛びでてくる必要のない接続詞と修飾語で言葉の筋を割って分けて、明瞭な真理を難しく作ってしまった。どう生きなければならないかということに対しする自分自身の問題は隠しておいたまま、埋めてしまった言葉のグズをせせこましくいじくって、ああだこうだと問い詰めようとする。生動していた言動はこうやって知識のウールの中に閉じ込められてしまった。これと同じ学問とか知識を私は信用したくない。現代人は自分の行動はなく、他人の悪口ばかりを言いながら生きようとするところに盲点があるのだ。思索が伴わない知識を、行動がない知識人をどこで使うのだろうか。いくら、底が露見した世の中だといっても、真理を愛して実現しようとする知識人まで曲学阿世(学問の真理をまげて世間や権力者に気に入られるような言動をすること)や卑怯な沈黙で身を処そうとするとは、知恵のあることではなく真理に対する裏切りである。
無学という言葉がある。まったく学ぶことがないとか学ばなかったという意味ではない。学問に対する無用論でもない。多く学びながらも学んだ跡がないことを指しているのだ。学問とか知識を鼻にかけずに知識過剰から来る観念性を警戒する意味で出てくる言葉である。知識とか情報に縛られないで自由に溌剌とした生き方が大切なのだという言葉だ。いろいろな知識から抽出された真理に対する信念が日常化できないことには知識本来の機能を遂行することはできない。知識が人格と断絶されたときその知識人はいかさまであり偽善者になってしまうのだ。
責任を取ることを知っているのは人間だけだ。この時代の実情を知らない振りをしようとする無関心は卑怯な回避であり一種の犯罪だ。愛するということは共に分け合って担うということだ。私たちには私たちの隣人と喜びと痛みに対して分け合う責務があるのだ。私たちは人形でなく生きて動く人間だ。私たちは引かれていく獣でなく、信念を持って堂々と生きていく人間なのだ。(現代人1974,7)


すごく難しい
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