退屈しないように シニアの暮らし

ブログ巡り、パン作り、テニス、犬と遊ぶ、リコーダー、韓国、温泉、俳句、麻雀、木工、家庭菜園、散歩
さて何をしようか

法頂 無所有より

2012-12-23 15:41:41 | 韓で遊ぶ
19 忘れられない人

水然僧様!彼は情け深い道伴(共に仏道を修行する友)であり、禅知識だった。慈悲が何であるかを口で言うのでなく行動して見せてくれたそんな人だった。道端に無心に咲いている名前も知らない草花が時には私たちに足を止めさせるように、彼は小さなことで私を感動させたのだ。
水然僧様!彼は言葉が少なかった。いつも静かに微笑んでいるだけで、尋ねたり答えてくれた。そんな彼を15年がたった今も忘れることができない。忘れられない人だ。1959年、冬、私はチリ山のサンケ寺塔殿で、一人、安居に入ろうと準備をしていた。準備というのは、冬の3ヶ月間の安居の間、食べる食料と薪、そして少しのキムチを作った。お仕えしていた恩師ヒョボン禅師がその年の冬、ネパールで開かれる世界仏教大会に参席するため旅立ったので、私は一人で過ごすしかなかったのだ。
陰暦の10月初旬、河東、岳陽という農村に行き托鉢をした。5日間の托鉢で冬の間の食料としては十分だった。托鉢を終えて戻って見ると誰もいないはずの庵に夕食を作る煙が立ち上っていた。
背嚢を下ろして台所に行って見た。見慣れない僧が一人火を焚いていた。旅の僧は、つぎはぎだらけの服を着て、色白のすっきりした顔に、静かに微笑んで食事の支度をしていた。その時、初めて彼と私は出会ったのだった。人はそのように瞬間的に縁が結ばれるようだ。互いが出家した僧であるために、より、そうだった。
チリ山で冬を越してきたという彼の話を聞いて私はうれしかった。一人で安居するのは自由なようだが、精進しようと思うと障害が多い。特に、出家してから浅い時の私としては、一人でいると誤って怠惰になってしまう恐れがあったからだ。
10月15日、冬の安居に入る結制の日、私たちはいくつかの仕事について協議だけしておいた。彼はすべてのことを私の意志に従ってついていくと言った。しかし、精進する時には主客があってはならない。ただ二人で生活するといっても二人の意思をひとつにしておけば円滑に過ごすことができる。彼はまったく自分の意思を主張しなかった。そのままついて従うということだった。
実際の年齢は私より1歳少ないが、出家したのは彼のほうが1年早かった。彼は学校教育を多く受けていないようだったが、天性が落ちついた人格だった。どこが故郷なのかどこで出家したのか、互いに聞かないことが僧の家の礼節であることを知っている私たちは、過ぎてきた跡のようなものは知ることができない。そして知る必要もないのだ。ただ、彼の言葉使いやイントネーションで、故郷と出身地を推測するだけだ。彼は私と同じ全羅道なまりを使っていたのだった。そして消化の機能がよくないようだった。
私は供養主(ご飯を炊く任務)をして彼は汁物とおかずを作る菜供をすることにした。汁を煮ておかずを作る彼の腕前は並大抵のものではなかった。おいしくない柿でも彼の手にかかると甘露の味がした。そして私たちは一日に一食しか食べず、参禅だけをすることにした。その時、私たち初発心した新米の僧たちは戒律に対してぎらぎらしていて、屋外の仕事に時間を売ることなく一生懸命精進した。
その年の冬の安居を私たちは無事に終えることができた。その後に知ったことだが、何の障害もなく純粋に安居を送るということは決して簡単なことではなかった。この次の正月15日、安居が終わる解制の日、解制になったら一緒に行脚に行ってあちこち歩いて見物しようと、私たちはその解制を前にしてひたすら胸を膨らませていた。
しかし、解制の前の日から私は具合が悪くなった。何日か前に冷たい水で沐浴したのがいけなかったようだ。解制にはなったが、旅立つことができなかった。
山で病気になるとやきもきすることこの上ない。僧は元気なときもいつも一人だが、病んで見るとそんな事実を具体的に感じさせられる。薬があるわけでもなく、近くに医療機関もない。ただ病むだけ病んでよくなるのを願うだけだ。そして、その時、私たちは徹底的に無所有だった。夜になると、うわごとを言う私の枕元で、彼はずっと座っていた。のどが渇いたというと湯を沸かしてきて、額のつめたいタオルをとり代えてくれ眠らなかった。
そんなある日の朝、彼はしばらく下の村に行ってくると出て行ったのに昼になっても帰らなかった。日が傾いてもまったく連絡がなかった。炊いておいたお粥を、夕食まで食べた。私はとても気になった。夜の10時近くになって台所で人の気配がした。その間、私はしばらく寝ていたようだ。彼が部屋の戸をあけて入って来たとき、手には薬の入った茶碗を持っていた。とても遅くなったと言いながら、薬を飲みなさいということだった。この時のことを私は忘れることができない。彼の献身的な真心に私は幼い子供のように泣いてしまった。その時、彼は何も言わないで私の手をしっかりと握ってくれた。
庵から一番近い薬局でも40里余りのところにあるクレの町だ。その頃の交通手段というものはクレの町に市場が立つ日、市場を利用したい人たちを乗せて通うトラックがあるだけ。だけど、その日は市の立つ日ではなかった。彼は長々と80里の道を歩いて行って来たのだ。互いにお金が一銭もない身の上であることを知っていた。彼はクレまで歩いていって托鉢をした。そのお金で薬を準備したのだ。彼はクレまで歩いて行ってそれから托鉢をした
のだった。そのお金で薬を買ったのだ。遠い、遠い夜の道を歩いて薬をくれたのだった。
慈悲が何であるかを私は生涯初めて全心身で切々と感じることができた。そして、道伴の情けがどんなものなのかも、やっと体験することができたということだ。そのように懇切な真心に対し治らない病気がどこにあろうか。足が少しふらついたがその次の日、動けるようになった。
その時私たちが起居していた庵から5里余り奥に入って上がっていくと滝の横に洞窟があって参禅をしている老僧が一人いらした。老僧が何かの用事で洞窟の外に出かけてくると必ず私たちのところに立ち寄った。その時ごとに、老僧が背負ってきたものが老僧よりも先に洞窟へ帰って行った。彼が何も言わないで背負って行ってあげたのだ。彼はこのように、どのようなことでも彼ができることならば何も言わないで気軽にやってしまうのだった。
ひと時の間、私たちは会えないまま、それぞれ雲水の道を歩んでいた。手紙のやり取りもなく、どこで過ごしているのか互いに知る方法がなかった。雲水達の間では知らせのないのがよい知らせということで通っていた。世間の人が考えると、どうしてそのように無関心でいることができるのか、と思うかもしれないが、互いが学習することに妨害になってはならないと配慮しているのだ。
人情が多ければ、仏を信じる心が粗くなるという昔の禅師たちの言葉を借りることもない。執着は私たちを不自由にする。解脱ということは苦から抜け出した自由自在の境地を言うのだ。ところが、その苦の原因は他のところにあるのではなく執着にあるのだ。ものに対する執着よりも人情に対する執着は数倍も強いものだ。出家はそのような執着の家から旅立つという意味だ。そのために出家した僧は斜めから見て見ると悲壮なくらい金属に近い。しかし、そのような冷気はどこまでも肯定の熱気に向かう否定の気流だ。肯定の地平に立った菩薩の慈悲は春の日差しのように暖かいのだ。私がヘイン寺に入って堆雪禅院で安居した夏、聞こえた噂では、彼はオデ山の上院で祈りを捧げているということだった。夏のお勤めが終わったら彼を訪ねてみようかと心に決めていたら、彼が先に訪ねてきた。チリ山で別れて以来、また会えて私たちは互いにうれしかった。彼は例の静かな微笑を含んだ顔で、私の手をしっかりと握った。ともにいた時よりも顔色が悪かった。
どこか悪いのかと聞いたら、胃腸の調子が悪いと言った。ならば薬を飲まなければならないのではないかと言うと、大丈夫だと言った。彼が堆雪堂に来てから靴を脱ぐときの踏み石の上には前に見られなかった変化が起こり始めた。5、6足あるゴムの靴が皆同じように白く磨かれ整然とおかれていたのだ。もちろん彼が隠れてやったことだった。僧たちが洗濯しようと脱いでおいた服を、いつの間にかきれいに洗って糊を付けてアイロンをかけて置くのだった。このような彼を見て僧たちは「慈悲菩薩」と呼んだ。
彼は供養をとても小さく行った(彼の食事はとても少なかった)。もちろん今は私たちも3食を僧様とともにいただいて過ごしている。ある日、私は事務室へ話をして、彼を連れて無理やりテグへ出かけた。いずれにしても彼の胃腸の調子が尋常ではなかった。診察を受けて薬を買わなければならないようだった。バスの中だった。彼はポケットから小さなナイフを出して窓枠から抜けそうなねじくぎ2つをきっちりと締めた。無心に見ていた私は心の中で感動した。彼はこのように小さな事で私を揺さぶるのだ。彼には、私のこと、他人のことという区別がないようだった。ややもすると、すべてのことが自分の事だと考えるのかもしれない。そのために、実はひとつも自分の所有でないということもできるのだ。
その年の冬、私たちはヘイン寺でともに過ごすことになった。彼の健康を心配した僧たちは自由に過ごせるように別の房を使うように言った。しかし、彼は大衆と同じ大きな房で精進して作業からも抜けることはなかった。そうしたら、安居期間の半分が終わる頃に彼は持ちこたえることができないくらいに弱った。
治療のためには山の中よりも街中が便利だ。晋州にあるポキョ堂に彼を連れて行った。そこで泊まって治療を受けるようにするためだった。3日すぎた頃、彼は私に安居の途中だから帰るように言った。彼の病状が回復したようだったので親しい人のいるポキョ堂の主事僧と信徒一人に看護を頼んだ。彼がとても私を心配するので私は一週間ぶりに寺に帰ってしまった。
置いてきた彼が気にかかった。伝え来た知らせではとてもよくなったと言っていたが。その冬、カヤ山には雪がたくさん降った。1週間余り交通が途絶えるくらい降り積もった。夜になるとこの谷、あの谷から木の倒れる音が響いてきた。一抱えもある松の木が雪に折られていくのだ。
あの頑固で青々とした松の木が一房、二房と積もった雪の重みに勝つことができず折れてしまうのだ。ひどい雨風にも問題なかった木が柔らかい物の前で折れていく妙理を山ではありありと見ることができたのだ。折れた木を背負って持ってきたが、私は右の手首をくじいてしまった。しばらくの間、針を受けるなど苦労した。ある日、私は小さな小包をひとつ受け取った。あけて見るとシップが入っていた。どうして知ったものか彼が買って送ったのだ。何も言わない彼は理由もないままだった。
私は悲しい彼の最後を繰り返し思い出したくない。彼が発った後、明らかに彼は私のひとつの分身だということをわかったようだった。ともにいた期間は1年にも満たないが、彼は多くの教えを残して行った。どの禅師よりも、見識の広い経師よりも私には本当の道伴であり明るい禅知識であった。
求道の道で「知る」ということは「行う」に比較する時、どれだけ値がないかということだ。人が他人に影響を及ぼすことは知識や言葉によるものではないことを彼は悟らせてくれた。澄んだ目と静かな微笑みの、暖かい手とそして何も言わない行動によって、魂と魂がぶつかることを彼は身を持って見せたのだ。
水然!その名前のように彼は自分の周囲をいつもきれいに洗ってくれた。平常心が真理であることを行動で見た。彼が腹を立てたところを私は一度も見たことがない。彼は一言で言って、慈悲の化身だった。彼を思う時ごとに、人は長らく生きることが問題ではない。どう生きるかが問題だということだ。(新東亜1970,4)


長かった
最後まで読んでいただきありがとうございます
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする