23 出世した山
山で暮らす人が山の香水を持っているとしたら、よく知らない人達は笑うかも知れない。しかし、山に暮らす僧は誰よりも山から出る濃い香水を持っている。この山で暮らしながら、過ぎてきたあの山を恋しく思ったり、話を聞いただけでまだ行ったこともない山を思ったりするのだ。
辞書では山を「陸地の表面が周囲の土地よりかなり高くそびえている部分」と解いている。このような山の概念を見て私たちは微笑む。それは形式論理の答案用紙とかに書くかも知れない表情のない抽象的な山であるからだ。
山には高くそびえる峰だけではなく深い谷もある。木と岩と小川の水と、あらゆる鳥であり、獣、霧、雲、風、こだま、そして崩れていく古寺、このほかにも無数の物が私たちの想念と共にひとつの山をなしているのだ。
山が好きで山に暮らすという言葉があるけれども、それは嘘ではない。山が嫌いなら山に住むはずがない。しかし、一度、山に入って暮らすと、その山を気軽に離れることができない愛着が生じる。
山は四季を置いていつも新しい。その中でも夏が過ぎた秋の山は永遠な男である私たちをときめかせてくれる。色づく葉、山葡萄とサルナシとアケビが森から手招きしている。だから仕事が終わった秋の日の午後には、禅院であれ、講院であれ寺の中はガランとして誰もいなくなる。皆、森の中に入っていって獣のようにツルにぶら下がっているせいだ。
ばらばらと栗が落ちる。この谷、あの谷から何かしゃべる声が聞こえてきて耳なれた音声のようだ。そのように親しげに聞こえてくる。こんなことをしているから山で暮らす人には青く新鮮な匂いがするのだ。
以前、修道僧は住んでいた山が単調になると道伴(共に修行をする友)の傍を離れもっと深い山を訪ねて、一人で出て行った。崖の下に小さな庵を建てて何も持たないで、自然を友にして道心を磨いた。
白い雲が重なった中に小さな庵がある
座って寝て散歩することで自然にのんびりと
冷たい小川の水、般若を歌って
澄んだ風、月と共に全身に満ちる
こんな景色に、高麗末、ナオン禅師だけでなく、山を知って道を知っている人ならば誰もが享受できる仏門の味なのだ。深い山だから一日中、人の影はなく、一人で庵に座って万事休んでしまうのだ。3,4尺の高さの庵に一人で座って、万事休んでしまうのだ。3,4尺の枝折り戸を半分くらい押して閉じておいて、疲れたら寝て、おなかがすいたら食べて、悩みなく過ごしていることは単純な隠遁を楽しむためではなかった。時期が来たら獅子吼を吐き出すための(説法をするための)沈黙の練習なのだ。
森と鳥がいて、おいしい水の泉や、池がある私たちの茶来軒であるが、蒸し暑い夏には、ふと山のことを考える。その時ごとに小川の水の音が恋しくて心が病む。さっと訪ねていく山がなく、翼がたたまれたしまった。最近の山では、その青くて新鮮な匂いをかぐことができない。観光韓国の旗の下、その奥深い雰囲気が消えてきている。だから志のある修道僧たちは名山大刹を離れて名前のない山野へ埋もれる。都市の公害による鳥がどこかへ消えてしまったように。痛ましいことだ。本当に痛ましいことだ。(東亜日報1973,7,26)
今日も難しかった
山で暮らす人が山の香水を持っているとしたら、よく知らない人達は笑うかも知れない。しかし、山に暮らす僧は誰よりも山から出る濃い香水を持っている。この山で暮らしながら、過ぎてきたあの山を恋しく思ったり、話を聞いただけでまだ行ったこともない山を思ったりするのだ。
辞書では山を「陸地の表面が周囲の土地よりかなり高くそびえている部分」と解いている。このような山の概念を見て私たちは微笑む。それは形式論理の答案用紙とかに書くかも知れない表情のない抽象的な山であるからだ。
山には高くそびえる峰だけではなく深い谷もある。木と岩と小川の水と、あらゆる鳥であり、獣、霧、雲、風、こだま、そして崩れていく古寺、このほかにも無数の物が私たちの想念と共にひとつの山をなしているのだ。
山が好きで山に暮らすという言葉があるけれども、それは嘘ではない。山が嫌いなら山に住むはずがない。しかし、一度、山に入って暮らすと、その山を気軽に離れることができない愛着が生じる。
山は四季を置いていつも新しい。その中でも夏が過ぎた秋の山は永遠な男である私たちをときめかせてくれる。色づく葉、山葡萄とサルナシとアケビが森から手招きしている。だから仕事が終わった秋の日の午後には、禅院であれ、講院であれ寺の中はガランとして誰もいなくなる。皆、森の中に入っていって獣のようにツルにぶら下がっているせいだ。
ばらばらと栗が落ちる。この谷、あの谷から何かしゃべる声が聞こえてきて耳なれた音声のようだ。そのように親しげに聞こえてくる。こんなことをしているから山で暮らす人には青く新鮮な匂いがするのだ。
以前、修道僧は住んでいた山が単調になると道伴(共に修行をする友)の傍を離れもっと深い山を訪ねて、一人で出て行った。崖の下に小さな庵を建てて何も持たないで、自然を友にして道心を磨いた。
白い雲が重なった中に小さな庵がある
座って寝て散歩することで自然にのんびりと
冷たい小川の水、般若を歌って
澄んだ風、月と共に全身に満ちる
こんな景色に、高麗末、ナオン禅師だけでなく、山を知って道を知っている人ならば誰もが享受できる仏門の味なのだ。深い山だから一日中、人の影はなく、一人で庵に座って万事休んでしまうのだ。3,4尺の高さの庵に一人で座って、万事休んでしまうのだ。3,4尺の枝折り戸を半分くらい押して閉じておいて、疲れたら寝て、おなかがすいたら食べて、悩みなく過ごしていることは単純な隠遁を楽しむためではなかった。時期が来たら獅子吼を吐き出すための(説法をするための)沈黙の練習なのだ。
森と鳥がいて、おいしい水の泉や、池がある私たちの茶来軒であるが、蒸し暑い夏には、ふと山のことを考える。その時ごとに小川の水の音が恋しくて心が病む。さっと訪ねていく山がなく、翼がたたまれたしまった。最近の山では、その青くて新鮮な匂いをかぐことができない。観光韓国の旗の下、その奥深い雰囲気が消えてきている。だから志のある修道僧たちは名山大刹を離れて名前のない山野へ埋もれる。都市の公害による鳥がどこかへ消えてしまったように。痛ましいことだ。本当に痛ましいことだ。(東亜日報1973,7,26)
今日も難しかった