9 雪害木
ある日の夕暮れ、山の小屋で暮らす老僧の前にもじゃもじゃ頭の学生が一人訪ねてきた。父親が書いた手紙を出し、彼は不安そうな表情だった。事情はこうだった。このばか者は学校でも家でもこれ以上手がつけられません。和尚様のお考えで、どうか全うな人間にしてくださいと言うことだった。もちろん老僧と彼の父親は親しい間柄であった。
手紙を見て老僧は何の言葉もなく自ら裏庭に出て遅い夕食を作った。夕食を食べさせた後足を洗うようにと、たらいにいっぱい熱いお湯を汲んでやったのだった。このときもじゃもじゃ頭の目からポロリと涙がこぼれた。
彼はさっきからお叱りの言葉があるだろうと、内々待っていたのだが、和尚様は一言もおっしゃらずに彼の面倒を見てくれたことに大きな感動を覚えたのだった。お叱りの言葉があったなら、彼は震えたことだろう。彼には百、千のありがたい言葉よりも暖かい手が恋しかったのだった。
今はもうなくなったある老師から聞いた話だ。私には老師の姿が生々しく残っている。山で暮らしてみると誰もが皆知るようになることであるが、冬になると山の植物がたくさんへし折られてしまう。過酷な雨風にもびくともしなかった一抱えもある木が、頑丈で辛抱強くしていた松の木が、雪が振って覆われると、へし折られることになる。枝の端に静かに、静かに降り積もったその白い雪にへし折られてしまうのだ。夜も深まったころ、この谷、あの谷から木がへし折られる音がこだまして、私が眠ることができない。
正々とした木が柔らかい物に倒れていくその意味のせいだろうか。山は真冬が過ぎると病から抜け出した顔のように衰弱している。サアバッティの全市民を恐怖に震えさせた殺人鬼アングルリマアルラを帰依させたのは仏様の不可思議な神通力ではなかった。威厳も権威でもなかった。
それはただ、慈悲だった。いくら凶悪無道な殺人鬼だとしても差別のない暖かい愛の前では改心するしかなかったのだ。海辺の小石をあのように丸くて美しくするのは鉄でできた鑢ではなく、やさしくなでる波なのだ。(仏教新聞1968,4,21)
※ 雪害が辞書では”설해”何だよね、、