7 あまりにも早く来たなぁ
ソウルが何年か前から前にもまぶしいほどに発展している。海外から来た親善使節の言われなくても、私たち自身で実感できる。地方とは違って政治、経済、文化などすべての力が集中投下されるので、特別市としても足りずソウル共和国と言う言葉が出てくるくらいだ。乞食をしてもソウルへ行けば暮らして行けるという執念でソウルは日ごとに肥大していっているのだ。しかし、ソウルだからと言って皆が生きていき易くて便利だとは言うことではないようだ。広がってつきあがる中心街の近代化とは関係なく旧態依然とした疎外地帯がいくらでもある。
川を間にして渡し船が行ったりきたりするといったならば、白馬江ぐらいを想像する人が多いけれども、それはプヨではなく大ソウルのツッソンの渡し、川の向こう側には数百の家庭の住民が納税をはじめとする市民の義務を果たして暮らしている。行政区域上ソウル特別市シンドン区なんとか洞には間違いないのだが、そこには電気もなく電話もなく水道施設もない太古の聖域だ。交通手段といえば、ひとえに渡し船があるだけ。
だが、その渡し船というのが、本当に面白い。その船は至極庶民的で、選り好みをせずになんでも乗せる。乗用車だけでなく、牛が引く荷車、糞尿を積んだトラック、その荷台の下には紳士と淑女も一緒に乗せてくれる。朝の6時から夜の11時までぐらいの間に積載量がいっぱいになったときに動き出す。いくら急いでいて地団駄を踏んでも時間不在の船は出発しない。それどころか、梅雨の時期と結氷期には何日か欠航する。
同じソウルでありながらも川の水ひとつをはさんでこのように文明の恩恵は均等ではない。初めてその渡し舟を利用し始めた人々は悔しくも惜しい思いをすることになる。時間を予測できないのであたふたと川辺にたどり着くと一足前に舟が出発していたり、対岸に接岸していて動かない様子だったりする。
だから、いくらか前から考え方を変えるようにした。少し遅れた時ごとにあまり早くに出てきたなぁと自らを慰めるのだ。次の船便に乗る予定なのにあらかじめ出てきたと思ったならば心に余裕が生じるからだ。時間を奪われたと心まで奪われたら損害があまりにも多いようだからだ。
同じ条件の下でも喜怒哀楽の感度がそれぞれ違うことを見ると、私たちが直面する、ある種類の苦と楽は客観的な対象によりも、もっと主観的である認識いかんによって左右されるようだ。美しいバラの花によりによってとげがあると思うといやになる。しかし、何物にも使えないとげにもあのように美しいバラの花が咲いていると思うとむしろ感謝したいと思う。(東亜日報1969,8,7)
原文はこちら
ソウルが何年か前から前にもまぶしいほどに発展している。海外から来た親善使節の言われなくても、私たち自身で実感できる。地方とは違って政治、経済、文化などすべての力が集中投下されるので、特別市としても足りずソウル共和国と言う言葉が出てくるくらいだ。乞食をしてもソウルへ行けば暮らして行けるという執念でソウルは日ごとに肥大していっているのだ。しかし、ソウルだからと言って皆が生きていき易くて便利だとは言うことではないようだ。広がってつきあがる中心街の近代化とは関係なく旧態依然とした疎外地帯がいくらでもある。
川を間にして渡し船が行ったりきたりするといったならば、白馬江ぐらいを想像する人が多いけれども、それはプヨではなく大ソウルのツッソンの渡し、川の向こう側には数百の家庭の住民が納税をはじめとする市民の義務を果たして暮らしている。行政区域上ソウル特別市シンドン区なんとか洞には間違いないのだが、そこには電気もなく電話もなく水道施設もない太古の聖域だ。交通手段といえば、ひとえに渡し船があるだけ。
だが、その渡し船というのが、本当に面白い。その船は至極庶民的で、選り好みをせずになんでも乗せる。乗用車だけでなく、牛が引く荷車、糞尿を積んだトラック、その荷台の下には紳士と淑女も一緒に乗せてくれる。朝の6時から夜の11時までぐらいの間に積載量がいっぱいになったときに動き出す。いくら急いでいて地団駄を踏んでも時間不在の船は出発しない。それどころか、梅雨の時期と結氷期には何日か欠航する。
同じソウルでありながらも川の水ひとつをはさんでこのように文明の恩恵は均等ではない。初めてその渡し舟を利用し始めた人々は悔しくも惜しい思いをすることになる。時間を予測できないのであたふたと川辺にたどり着くと一足前に舟が出発していたり、対岸に接岸していて動かない様子だったりする。
だから、いくらか前から考え方を変えるようにした。少し遅れた時ごとにあまり早くに出てきたなぁと自らを慰めるのだ。次の船便に乗る予定なのにあらかじめ出てきたと思ったならば心に余裕が生じるからだ。時間を奪われたと心まで奪われたら損害があまりにも多いようだからだ。
同じ条件の下でも喜怒哀楽の感度がそれぞれ違うことを見ると、私たちが直面する、ある種類の苦と楽は客観的な対象によりも、もっと主観的である認識いかんによって左右されるようだ。美しいバラの花によりによってとげがあると思うといやになる。しかし、何物にも使えないとげにもあのように美しいバラの花が咲いていると思うとむしろ感謝したいと思う。(東亜日報1969,8,7)
原文はこちら