5 秋は
秋は少しおかしな季節だ。少し落ち着いた心で今まで来た道を振り返って見るとき、青い空の下でだんだん弱って行く木を眺めるとき、生きるとは何かと、ふと、思って一人でぶつぶつ言いう時、私は今さらながら正しくなろうと思う。木の葉のように私たちの心も薄い憂愁に入っていく。秋はそんな季節のようだ。そして家に帰るバスの中の大衆歌謡にも、中がはっきりと覗けるような歌詞にもしばしば耳が傾く。
今日の昼、些細なことで職場の同僚を悲しい気持ちにしたことが心にひっかかった。今はどこかの空の下で何をしているだろうか。遠くに離れていった人の安否が気になってくる。深い夜、灯火をともして住所録を広げて友達の目元や声を思い出して見た。秋はそんな季節のようだ。真昼は、どんなに大様で強張っている人かもしれないが、太陽が傾いた後には葉の転がる音ひとつに、キリギリスのなく声ひとつにも心を開く軟弱な存在であることを今さらながら思い知らされる。この時代、この空気の中で見えない縁で結ばれ、互いに信じ、もたれあって生きていく存在あることを思い知らされる。昼の間、海の上の島のようにそれぞれ別々に離れていた私たちが、巣に帰る時間には同じ大地に根を張った身であることを初めて思い知らされる。
上空から地上を見下ろしたとき私たちの現実は過ぎて行った過去のように見えた。穂が実った田畑は恍惚したモザイク、乳腺のような川の流れが悠然とした調べのようにくねくねと流れる雲がみすぼらしくなった山すそを気の毒だと言うようになでていく。田舎ごとに都会ごとに大きく、小さくその道につながっている。はるか大昔、われわれの祖先が最初の一歩を踏み出したまさにその道を子孫たちが堂々と歩いていく。その道を過ぎて見慣れない地方のニュースを聞いて来て、その街角で隣村の娘と男が目をあわせる。花を一抱え持って、情け深い友が訪ねてくるのもその道だ。道はこのように人と人とを結んでくれるへその緒だ。その道が噛み付くような争いの道だとは考えられない。人同士が横目でにらみつけて憎みあう憎悪の道だとは考えられない。志しが自分と異なるからと獣のように痛めつけるそんな道だとはどうしても考えることができない。私たちは憎んで争うために出会う敵ではなく、互いに支えあって愛し合おうと、はるか昔から出会った隣人なのだ。人が生きるということは何か。わかるようでありながらも漠然とした悲しみだ。私たちが知ることができることは生まれてきたものは、いつか一度は死ぬという事実。生物必滅、会者定離、そんなことであることははっきりとわかっていながらも、いつも切なく悲しげに聞こえる言葉だ。自分の番はいつどこだろうかと思いながら瞬間、瞬間を何気なくいい加減に生きたくはない。出会った人ごとに暖かいまなざしを送りたい。一人ひとりその顔を覚えておきたい。この次の世のどこかの街角で偶然に出くわした時、おお、誰それでないかと愛情を持って手を握ることができるように、今この場で覚えておきたい。この秋に私はすべての隣人を愛したい。ただの一人も悲しい思いをさせてはだめだと思う。秋は本当におかしな季節だ。(ソウル新聞1973,9,29)
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秋は少しおかしな季節だ。少し落ち着いた心で今まで来た道を振り返って見るとき、青い空の下でだんだん弱って行く木を眺めるとき、生きるとは何かと、ふと、思って一人でぶつぶつ言いう時、私は今さらながら正しくなろうと思う。木の葉のように私たちの心も薄い憂愁に入っていく。秋はそんな季節のようだ。そして家に帰るバスの中の大衆歌謡にも、中がはっきりと覗けるような歌詞にもしばしば耳が傾く。
今日の昼、些細なことで職場の同僚を悲しい気持ちにしたことが心にひっかかった。今はどこかの空の下で何をしているだろうか。遠くに離れていった人の安否が気になってくる。深い夜、灯火をともして住所録を広げて友達の目元や声を思い出して見た。秋はそんな季節のようだ。真昼は、どんなに大様で強張っている人かもしれないが、太陽が傾いた後には葉の転がる音ひとつに、キリギリスのなく声ひとつにも心を開く軟弱な存在であることを今さらながら思い知らされる。この時代、この空気の中で見えない縁で結ばれ、互いに信じ、もたれあって生きていく存在あることを思い知らされる。昼の間、海の上の島のようにそれぞれ別々に離れていた私たちが、巣に帰る時間には同じ大地に根を張った身であることを初めて思い知らされる。
上空から地上を見下ろしたとき私たちの現実は過ぎて行った過去のように見えた。穂が実った田畑は恍惚したモザイク、乳腺のような川の流れが悠然とした調べのようにくねくねと流れる雲がみすぼらしくなった山すそを気の毒だと言うようになでていく。田舎ごとに都会ごとに大きく、小さくその道につながっている。はるか大昔、われわれの祖先が最初の一歩を踏み出したまさにその道を子孫たちが堂々と歩いていく。その道を過ぎて見慣れない地方のニュースを聞いて来て、その街角で隣村の娘と男が目をあわせる。花を一抱え持って、情け深い友が訪ねてくるのもその道だ。道はこのように人と人とを結んでくれるへその緒だ。その道が噛み付くような争いの道だとは考えられない。人同士が横目でにらみつけて憎みあう憎悪の道だとは考えられない。志しが自分と異なるからと獣のように痛めつけるそんな道だとはどうしても考えることができない。私たちは憎んで争うために出会う敵ではなく、互いに支えあって愛し合おうと、はるか昔から出会った隣人なのだ。人が生きるということは何か。わかるようでありながらも漠然とした悲しみだ。私たちが知ることができることは生まれてきたものは、いつか一度は死ぬという事実。生物必滅、会者定離、そんなことであることははっきりとわかっていながらも、いつも切なく悲しげに聞こえる言葉だ。自分の番はいつどこだろうかと思いながら瞬間、瞬間を何気なくいい加減に生きたくはない。出会った人ごとに暖かいまなざしを送りたい。一人ひとりその顔を覚えておきたい。この次の世のどこかの街角で偶然に出くわした時、おお、誰それでないかと愛情を持って手を握ることができるように、今この場で覚えておきたい。この秋に私はすべての隣人を愛したい。ただの一人も悲しい思いをさせてはだめだと思う。秋は本当におかしな季節だ。(ソウル新聞1973,9,29)
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