退屈しないように シニアの暮らし

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さて何をしようか

法頂 無所有より

2012-12-02 20:39:01 | 韓で遊ぶ
3 私の趣味は

趣味は人の顔ほどに多様だ。それはどこまでも主観的な選択によるものであり誰もなんだかんだと責めたりはできない。他人の目にはあんなことを何のためにするのかと見えるかもしれないが、当事者にとってはその何とも代えることのできない絶対性を持っている。その絶対性が時には盲目的であることもあるが、だから、過度に浪費的であったり、退廃的なことまでも趣味と言う名前の下に堂々と行われる。大きく世相が変わる時ごとに紹介される面々の趣味を見ると皆同じように「ゴルフ」と言う。いつからこのお偉方がこのように「ゴルフ」だけを好きになったのだろうかと思うほどだ。
私たちのような現代の中の未開人たちはそのゴルフと言うものをまだ見物さえできなかったが、それでも面白いことには面白いようだ。アイゼンハワーのような人も、もしゲームがなかったら私はいったい何をして時間を過ごしていいかわからないといった程だから。
きれいに整えられた広い草原で新鮮な空気を吸いながら親しい人同士での楽しむ動作は想像しただけでも爽快なようだ。このようなことで積み重なったストレスを解消することもでき、次の仕事をする弾力を持って遂行することができるか。見ている人には、真昼のつまらない遊びのように見えるかもしれないが、そこに熱中するプレイヤーにはそれこそゴルフと言うことだ。
このように好きなだけのゴルフが、いまだに私たちには抵抗感を与えている訳はどこにあるのか。言うまでもなくそれは私たち皆が共に楽しむことができない特殊階層の趣味であり、娯楽だからだ。そこで使われる道具は皆価格の高い外国製、だから外貨を払って入ってきたものだ。そしてゴルフクラブに加入するには普通の月給取りには名刺も出せないほど高額が必要だ。また、ゴルフは草原だけで終わるのではないようだ。あるとき世間に流れる政治と事業は執務室でなく大概ゴルフを通して結実すると言う噂もまったくの根拠のない話ではないようだ。
すべてのことが、そのようであるように趣味らしい趣味ならばまず自分の身の程にあったことでなければならない。自分の身の程では到底無理なのに体面のために仕方なくやったり、久しぶりの週末を家族と共に過ごしたいのに上司の目を意識して引きずられていくようなことがあったならば広い草原も澄んだ空気も、そういう人にはむしろ公害であるのは明らかだ。「ゴルフは人間の罪を罰するためにスコットランドのカルビニスト達が作った伝染病だ」と言う言葉を想起してみたいものだ

原文
“골프는 인간의 죄를 벌하기 위해 스코틀랜드의 칼비니스트 들이 창조해 낸 전염병”이라고 한 말을 상기해 봄직하다
봄직하다 これがわからない、、

今日、私たちの現実は個人の基本権といっても国力の総和のためにならば容赦なく留保されている実情だ。特殊階層だけが楽しむ趣味は社会的階層意識を激化させ仕舞いには国力の弱化を招くと言うところに問題があるのだ。このような現実はいわゆる維新理念に合致させることができないだろう。望ましい趣味と言うのは自分だけが楽しむよりは高潔な人柄を育成する生の意味を深くし、共に生きている隣人にも肯定的な影響を与えることのできるものでなければならない。今日の私の趣味は終わりのない終わりのない忍耐だ。(ソウル新聞1973,9,8)


봄직하다 はなんだろう?
原文はこちらから
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法頂 無所有より

2012-12-02 11:00:06 | 韓で遊ぶ
法頂論  仏教的知性と現代的思想
いわゆる「職業的な随筆家」のとして分類することのできない法頂は、しかし今日の私たちの随筆文学において次の2つの点に注目することができる。まず、彼が僧でありながらも多くの作品を発表していると言うことがその一つ目である。これは詩においては今や還俗した高銀やタクジヨン等何人かの僧侶がいて、批評にもキムウナクがいるけれども随筆文学には彼が唯一の存在であるということだ。これは単純な物好きの関心ではない。仏僧が持っている体験、彼らが探求する世界は仏教文学が支配的な伝統として作用している私たちに最も深く長い精神の偏差を成し遂げた。ひとつの思想、それの人生観と世界観を最も簡単にわかりやすいながらも論理的に表すことのできる随筆文学において、実際にその仏教人としての参与がなかったならば、その思想と文学のために大きな損失だった。法頂はその空白を埋めてくれたのだ。
そして仏僧というもの以上に重要な2つ目の点は、彼の作品における難しくなく理解することのできる彼の随筆精神だ。おそらくここには細心の注意が必要だ。私たちにあっては「随筆」文学は私文字のごとくはっきりと言えば「筆のままに」と言うことであった。はっきりした真偽がどこにあったとしてもこの言葉が「エッセイ文学」を相当に無責任に作り上げたことは事実だ。言い換えると随筆は筆のままに、考えが浮かんでくるままに、言葉が書かれるままに、従うことが本意だと考えられてきたのだ。それは私たちの随筆文学を少女的な感傷、幼いころの告白、どういうわけか偶然に出会った事件の体験談、あるいは専門的な職種を持った人の散文的な報告として墜落させるのだ。
もちろんこのような文章が随筆ではないことではないがデカルトの方法論からカミュの「シラポスの説話」がエッセイだと言う点で상도する時このような注意文がその思想とか言語からどれだけ随筆精神を裏切っているのかを推測することができる。随筆はこの世界と暮らしに対する高度に洗練された知的洞察であるひとつの表現であることだ。この二つの観点は結果的に法頂の仏教的知性を尊重することでもある。事実、人間法頂を知っている人は彼がたとえ剃髪していて袈裟を着てはいるが彼の顔が禅僧の姿と言うよりは鋭利な知識人の顔だと言うところに意見の一致を見る。これはまた彼の印象ばかりではない。彼が何回も参加している仏教人として仏教会を代表する唯一の抵抗的知識人として活躍し、そのために受難も少なくなかったということはよく知られている。
彼は韓国の仏教自体の堕落を攻撃し、改善しようと韓国社会の理に合わないものを批判した。仏教の中と外からディセンダとしての声を下げなかった。これは私たちの仏教が1600年の間の護国信仰を除いて現実参与の例が極めて少なかったと言う事実を考えたとき仏教的現実感の改造のためにとても鼓舞的な兆候だ。入山し俗世を離れ壁に向かって座禅をしたということが得度の真髄だろうか?おそらくそうかもしれない。しかし、万年の存在が新たに記憶され圧迫してきた今、仏教人の現実的完成と実践的行動は決して同意することのできない命題となっているのだ。法頂自ら「共に生きるこの世界が今どこにどのように動いているのか、気にしないで静かに見守っている宗教人がいたら、この者が所属した宗教は現象の外で枯れることになる。」と警告しながら「この時代の仏教徒たちが南無阿弥陀仏を口でだけ唱え自ら行動しない時、路地裏の子供たちだけでなく多くの大衆たちから飛んでくる石ころをどうやって甘受するのだ。」(南無阿弥陀仏)と叫んだ。
ここで彼はドルパルメというキリスト教の聖書の用語を使ったが、彼の短く長い文章はその感受性と思想の根拠が仏教にだけとどまっていないことを見せてくれる。例えばカミュが引用されてベートーベンが鑑賞され、ガンジーから教訓を受けてワンズワースが愛唱されマックス ミラーの言葉が回想されついにはっ聖書を通してキリスト教徒仏教の真理は互いに違っていないと言うことを立証した。この指摘は彼が博学だとか西欧文明に傾倒していると言うことをいうものでもなく、仏教自体が反知性だと言うことをいうのでもない。それは彼がひとつの事物あるいは事件を眺めてその意味を追求するところにあり、仏教だとかキリスト教だとかというどちらの側にも組み入れられていないでいると言う意味だ。健康な知性とはおそらくこの思考類型を言うのだ。法頂は僧服姿で映画を見ることを少しも恥ずかしいとは思わず人間が月に着陸しても少しも脅威を感じなかった。彼は自由に考えて冥界に解剖した。彼の随筆集「霊魂の姿」(73年)全編をくまなく見た時現れてくる次の2つの精神的な特徴は彼が西欧的な意味での知性人であることを傍証した。すなわちひとつは彼は僧侶であることを意識しながらも「色即是空」とか「虚無」のような仏教言語がほとんど見当たらず代わりに「永遠」とか「根源」と言うような語彙が強い説得力を持っているという点だ。また、他の一つは如来の慈悲が彼に西欧的な愛の語感として潤色されていてそれはサンテグジュペリの「星の王子さま」に対するも猛烈な傾斜をもたらしたと言うことだ。彼がこの本を自身に紹介してくれた人を「生涯忘れることができないありがたい友」と感謝し、30余冊を隣人にプレゼントし、この本に感応しない人とは共に相対することができないとまで熱愛したと言うことは「星の王子さま」の愛がキリスト教的、伝統の産物だと言う点とつながる時決して平凡な僧侶ではないことを示唆する。
彼の知性源がどこだとしても、法頂の最も卓越したことは、仮にソウルのいびつな近代化を皮肉った「とても早く出てきたものだ」とか都市の騒音から脱出しようと仏国寺行き高速バスに乗ったら、絶え間なく流れてくるカセットの流行歌のせいでむしろ騒音紀行になったとため息から、花の咲く姿から一大事件が発見する「純粋な矛盾」に至るまで事件と事物の対象を反対側から再検したアイロニー精神だ。彼は盾を見ながらそれを突き抜ける窓を考えて窓を見ながらそれをふさぐ盾を予想した。
「沈黙は背景としない言語は事実騒音と変わりない。、、(中略)、、私たちの霊魂を揺さぶる言葉は壮言な音楽のように沈黙から出て消えていくものだ。(雨が降る)
「過酷な雨風にも動じない一抱えもある木が屈することなく固執するように見えるが、その松が雪が降って積もると折れてしまう。枝の端にふんわり降り積もったその白い雪が折られてしまうのだ。夜が深まったころ、この谷、あの谷から聞こえてくるとき私たちは眠ることができない。正々とした木が柔らかいものに倒れていくその意味のせいだろうか。山を真冬が過ぎていくと病んだ私の顔のようにやつれている。(雲海木)
 世界に対する矛盾的認識は弁償的思考の出発であることだ、最も鋭利な思想の能力である。彼の多くの現実的、宗教的言語的批判はこの矛盾の把握で作用を受ける。そして彼が「無所有」で
「私たちが必要に迫られて物を持つことになったならば、時には物のために気を使うようになることも少なくなくない。だから、何かを持つと言うことは他の一方で何かに縛られると言うことだ。
と言うとき、それは現実的な教訓のように見えたりする。しかし、蘭の花に束縛されてそれに執着した時、ついには非常に大切に育てたその蘭の花を友人に上げてしまって満足した解放感を感じたとき「一日にひとつずつ捨てなければならない」と決心しながら
「大きく捨てる人は大きくいただくことができると言うことだ、、(中略)、、何も持たない時やっと全世界を持つと言うことになると言うことは無所有の逆理だから
の結論を得た。これに至って矛盾が宗教的覚醒の次元で上昇していることを私たちは悟ることになる。
事実、彼の作品は仏教の姿勢を主体としたものが多いが、そうでないとしたとしても仏教的語彙が頻繁に使われていることを発見する。しかし、より注目すべきことは彼にとって主要なひとつのモチーフとして使われている「矛盾」または「逆理」の思想の根底には仏教の世界観が深くしかれていると言う点だ。彼の思想が西欧精神にかなり浸潤されていて、「慈悲」よりも「愛」をより美しく愛しているのにも拘わらず「許しと言う他人に施す慈悲心よりも、乱れようとする自分を自分自身が取り入れることではないかと思う。」(卓上時計の話)と自身の反省ないし確認を絶えず促したり、「読むと言うことは、、、他の人の声を通して自分自身の根源的な音声を聞くことではないだろうか。」(その夏に読んだ本)といって、内的対話を強調していることは仏教の得度観を現代にの言語に表現したことであるのに違いない。さらに、蒸し暑い夏の日に華厳経を読みながら便所からむかつくにおいが漂ってきたとき「自分の体の中にも自家用の便所があるではないか。人の良心が腐った匂いよりはいいではないか」と我慢して「極度の唯心主義の一つの世俗的な片鱗に過ぎない。
こうしてみる時法頂のエッセイ精神は深山幽谷の仏心、古色蒼然の仏教信仰を私たちのこの現実、耐えることのない愛と憎悪の思想として葛藤を起こすこの世界に引きずり出すことだ。彼は伝統の信仰からほとんど絶縁された現代の思想市場で新たに服を着た仏教の精神を出した布教師とも言える。彼の随筆の大部分が短めで日常に浮かぶ考えまたは、世俗雑事に対する収監であるが、私たちに大切なをことはこの片鱗を通して新しく発見する仏教の現代的姿だ。文章を通して現れる仏教は諦念と逃避、超俗と虚無のそれではなく、驚きを持って眺める自分の暮らしの拡大として体得しようとする積極的な姿勢である。寺の庭に咲いたけしの花を見たとき感じたつぎのような情緒はこの世界の最も内密な部分と情を交わす愛を見せてくれる。
「それは驚異だった。それはひとつの発見であった。、、(中略)、、美しいということは震えることであり、うれしいと言う事実を実感した。
キムビョンイク(文学評論家)

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