そのアパートのその部屋の住人である女性・シモーヌは投身自殺を図り、今、瀕死の状態で、彼女がこのまま死んだら、その部屋を貸してあげよう・・・。
果たして、彼女は死んだ。そして、トレルコフスキー(ポランスキー)は約束通り、その部屋を借りた。死んだ彼女の持ち物がそのまんまの部屋に入居するトレルコフスキー。彼女が着ていた黒地に花柄のワンピースがクローゼットに掛かったままだ。
住んでみると、アパートの他の部屋の住人達は一風変わった人ばかり。しかも、異様に音を気にする連中だ。トレルコフスキーも大きい音を出さないよう神経を使うようになる。また、向かいのカフェに行ってみると、シモーヌは生前毎日その店に来て、今、トレルコフスキーが座っているその席に必ず座っていた、と店主に言われる。その上、そのカフェにはトレルコフスキー愛用の銘柄のタバコは置いておらず、シモーヌが愛用していたというマルボロを必ず出され、次第にトレルコフスキー自身マルボロを進んで吸うようになるのだった。
こんな些細なことが積み重なるうちに、トレルコフスキーは、次第に、シモーヌは住民たちによって精神的に追い詰められ自殺に追い込まれたのだと思い込むようになり、それが高じて、アパートの住民が自分をシモーヌに仕立て上げようとしていると妄想が暴走してしまうようになる。
ポランスキーが実に巧みに妄想に絡め取られる男を演じている、ブラックコメディとも思えるスリラー映画。
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本作は、1976年制作ということで、あの『チャイナタウン』と『テス』の間に作られたのですね。『戦場のピアニスト』のパンフによると、淫行容疑で逮捕・有罪とされたのは本作を撮った後の77年とのことなので、彼にとっては微妙な時期の作品ということでしょうか・・・。
ここでのポランスキーは、気弱で真面目そうな独身男を、素晴らしくナチュラルに演じています。ほとんど、トレルコフスキー=ポランスキーじゃないの、って感じです。トレルコフスキー自身も、ポーランド移民ですし。
『反撥』や『ローズマリーの赤ちゃん』に通じる作品ですが、前2作に比べて、本作はどこか滑稽さというか、可笑しさがつきまといます。アパートの住人らが自分をシモーヌに仕立て上げようとしていると妄想スイッチが入ってからの彼は、もう、ヤバいを通り越して、本当に滑稽なのです。10センチくらいありそうなパンプスを買ってくると、シモーヌの黒地に花柄のワンピースを身に着け、パンプスを履き、ドギツイ化粧をして、シモーヌに自らなり切ろうとするのです。ポランスキーの女装姿、なかなかハマっています。美しくはないけど、あまり違和感もない。
こういう、最初は、何かおかしい、何かヘンだ、という些細なことの描写がいくつかあり、次第に本当に狂っていく様を描くのが、ポランスキーは実に巧いです。どうしてこんなに巧いんだろう。こういう描写って、ものすごくチープかつ陳腐になりがちだと思うんですが、、、。ポランスキー自身が、やはり、こういう「不条理なもの」に対する感度がもの凄く高いのだと思います。理屈じゃないこと、あり得ないようなこと、違和感としか言いようのないこと、そういうことに対して、彼は非常に敏感で、なおかつ真面目に向き合う人なのだろうな、、、と。「考えすぎだよ、バカだな~」で済まさない人。、、、でなきゃ、映画なんて撮れませんよねぇ。
私はある意味、極めて常識人なので「考えすぎだよ、バカだな~」の部類です。でも、人間には、理屈では割り切れない、不条理そのものの感覚があることもまた、認識はしています。だから、こういう話を見聞きして、大真面目に怖いと思っちゃうのですね。人間、いつ狂ってしまってもおかしくない、そんな風に思います。
ただ、本作は、先にも書いたように、 『反撥』や『ローズマリーの赤ちゃん』にはなかった滑稽さがかなり強調されています。もちろん、その滑稽さはポランスキー自身が体当たりで演じているのですが、本人は真に妄想にとらわれて苦しんでいるのに、その妄想の暴走ぶりがぶっ飛び過ぎなので、ちょっと苦笑さえ浮かんでしまうという、、、。この辺も、もちろん、ポランスキーの計算のうちなんでしょうが、だからこそ、巧いなーと。
ラストに至っては、ほとんどブラックコメディと言っても良いのでは。女装したまま、シモーヌがしたように、窓から飛び降りるのですが、1度目は意識もはっきりしたままで、アパートの住人に囲まれ、妄想は極限まで暴走し、足を引きずったまま自室に戻ると、再度窓から飛び降りるのです。そう、つまり、トレルコフスキーは2度、ダイブするのです、、、。その姿はもう、怖いというより、ひたすら滑稽で、ここまで来ると、もう可哀想という感情さえなくなります。もう死ななきゃ、その妄想からは逃れられないよ、、、。
イザベル・アジャーニがシモーヌの親友ステラとして出演しています。出番は少なめですが、インパクトはさすがです。シモーヌを見舞ったトレルコフスキーと病院で出会い、その帰り道に2人で映画を見に行き、映画館でトレルコフスキーの股間に手をやるステラ、その挑発に乗り、ステラの胸を鷲掴みにしながらディープキスをするトレルコフスキー、、、。このシーンだけで、十分異様でしょ。この後は、何をかいわんやでございます。彼女も『アデルの恋の物語』で狂っていく美女を演じていたのでしたねぇ。最強タッグですな、、、。恐れ入ります。
あと、特筆事項としては、トレルコフスキーと同じアパートの住人で、他の住人から迫害されている女性の娘を演じていたのが、あのエヴァ・イオネスコということです。『ヴィオレッタ』で自伝的映画を撮ったけれど、彼女がまさに実母に商売道具とされていた頃の出演となりますね。なるほど、怪しげな美少女です。
本作のポランスキーは、どこか翳があるというか、それが役の上でそのように演じている、というより、彼自身にまとわりついている翳みたいに見えるのです。彼の経歴を知っていて見ているから、そう見えるだけかも知れませんが、でも、やはりそう見えてしまうものは仕方がない。どこか寂しげで、孤独で、不器用な感じ、、、。
劇場公開はされず、日本でもこのたび待望のDVD化とのこと。早速見てみて正解でした。ますますポランスキーの才能に惚れました。
少しずつ、少しずつ、、、狂っていく男。
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