豊国神社の帰りに西の丸庭園に立ち寄ってみた
隠し曲輪の櫨の木が赤くなってるのがどうかなぁ〜
このシーズン見るものはないけど200円、ブラリと入ってみた。(高齢者は無料と今知ったけどね?)
桜の開花宣言 標準木辺り
奥に進んで濠を見下す
石垣の上辺りが隠し曲輪ゾーンの櫨の木。まだ残っていた
OBP方面
1番奥辺りから
数少ない観光客
↓
煙硝蔵へ 櫨の木もピークアウト
シーズンオフで中の見学は出来ない
茶室 豊松庵 入る事は出来ない
京橋口の櫨の木はどうかなぁ
煙硝蔵をグルリと周った
西の丸公園から天守閣 来春の桜シーズンには訪ねよう
シーズンオフは昼は閑散としている
夜は、現在イベント開催している。
2017.12.7. 大阪城周辺散策
●西の丸公園
昭和6年(1931)、市民による浄財・約150万円(現在の約750億円に相当)を費やして建て替えられた大阪城天守閣。その天守閣を中心に広がる大阪城公園には大手門、千貫櫓、火硝蔵など13棟の重要文化財や、梅林、西の丸庭園などがある。
★豊臣秀吉の正室・北政所の屋敷があった場所とされている西の丸庭園は、昭和40年(1965)、総面積約64,000平方メートルの芝生庭園として開園。周囲を樹木に囲まれ、天守閣や掘の石垣が美しく眺められる。春はソメイヨシノを中心に約300本のサクラが咲き競い、花見の名所としても有名。開花期間は観桜ナイターも開催され、大勢の花見客が訪れる。西の丸庭園の東北隅には昭和44年(1969)、松下幸之助氏から寄贈された茶室「豊松庵」もある。
●焔硝蔵(えんしょうぐら)とは火薬庫のこと。徳川時代の大坂城では当初、土蔵製のものが本丸隠し曲輪と青屋口の出角内の二カ所にあったが、その内の一つ、青屋口の火薬庫に万治元年(1660)六月、雷が直撃し大爆発を起こした。貯蔵中の82tの黒色火薬、鉛玉43万個、火縄36000筋が焼失したとの記録があるが、城内はもちろん城外でも多数の死傷者を出すとともに市街家屋が1481戸倒壊するなど大地震並みの大惨事を引き起こしている。その爆発の凄まじさは青屋口城門の扉の一部が14km離れた暗峠(くらがりとうげ)まで飛来したという話があるほどである。
これに懲りた幕府が工夫を凝らして作り上げたのが貞享二年(1685)竣工のこの焔硝倉。床、壁、天井すべてが分厚い花崗岩で覆われ頑丈なことこのうえない上、東西の出入り口とも三重の金属製の扉で密封されるなど防火、盗難に対する備えは万全。さらに空気穴を巧みに配するなど防湿対策も施されている。火薬庫としては比類のない出来で、明治以降も陸軍が引き続き使用していたという。
なお、大坂城内には同じ石造焔硝倉が伏見櫓内側(現在の極楽橋北側売店横の仕切門西側あたり)にもあり、明治時代以降も残っていた事が地図や写真で確認出来るが、昭和初期あたりに姿を消している。
隠し曲輪の櫨の木が赤くなってるのがどうかなぁ〜
このシーズン見るものはないけど200円、ブラリと入ってみた。(高齢者は無料と今知ったけどね?)
桜の開花宣言 標準木辺り
奥に進んで濠を見下す
石垣の上辺りが隠し曲輪ゾーンの櫨の木。まだ残っていた
OBP方面
1番奥辺りから
数少ない観光客
↓
煙硝蔵へ 櫨の木もピークアウト
シーズンオフで中の見学は出来ない
茶室 豊松庵 入る事は出来ない
京橋口の櫨の木はどうかなぁ
煙硝蔵をグルリと周った
西の丸公園から天守閣 来春の桜シーズンには訪ねよう
シーズンオフは昼は閑散としている
夜は、現在イベント開催している。
2017.12.7. 大阪城周辺散策
●西の丸公園
昭和6年(1931)、市民による浄財・約150万円(現在の約750億円に相当)を費やして建て替えられた大阪城天守閣。その天守閣を中心に広がる大阪城公園には大手門、千貫櫓、火硝蔵など13棟の重要文化財や、梅林、西の丸庭園などがある。
★豊臣秀吉の正室・北政所の屋敷があった場所とされている西の丸庭園は、昭和40年(1965)、総面積約64,000平方メートルの芝生庭園として開園。周囲を樹木に囲まれ、天守閣や掘の石垣が美しく眺められる。春はソメイヨシノを中心に約300本のサクラが咲き競い、花見の名所としても有名。開花期間は観桜ナイターも開催され、大勢の花見客が訪れる。西の丸庭園の東北隅には昭和44年(1969)、松下幸之助氏から寄贈された茶室「豊松庵」もある。
●焔硝蔵(えんしょうぐら)とは火薬庫のこと。徳川時代の大坂城では当初、土蔵製のものが本丸隠し曲輪と青屋口の出角内の二カ所にあったが、その内の一つ、青屋口の火薬庫に万治元年(1660)六月、雷が直撃し大爆発を起こした。貯蔵中の82tの黒色火薬、鉛玉43万個、火縄36000筋が焼失したとの記録があるが、城内はもちろん城外でも多数の死傷者を出すとともに市街家屋が1481戸倒壊するなど大地震並みの大惨事を引き起こしている。その爆発の凄まじさは青屋口城門の扉の一部が14km離れた暗峠(くらがりとうげ)まで飛来したという話があるほどである。
これに懲りた幕府が工夫を凝らして作り上げたのが貞享二年(1685)竣工のこの焔硝倉。床、壁、天井すべてが分厚い花崗岩で覆われ頑丈なことこのうえない上、東西の出入り口とも三重の金属製の扉で密封されるなど防火、盗難に対する備えは万全。さらに空気穴を巧みに配するなど防湿対策も施されている。火薬庫としては比類のない出来で、明治以降も陸軍が引き続き使用していたという。
なお、大坂城内には同じ石造焔硝倉が伏見櫓内側(現在の極楽橋北側売店横の仕切門西側あたり)にもあり、明治時代以降も残っていた事が地図や写真で確認出来るが、昭和初期あたりに姿を消している。