天下茶屋跡から徒歩で
阿倍野区 聖天山 を目指す
約30分弱 目的地に到着
この境内が頂上らしい
奥之院がある
メチャ古く解体工事してる感じだった
奥に
この境内聖天山は神仏合体だ
アベノハルカスも見える
聖天山登頂!
天王寺の茶臼山を目指す。横着をしてタクシー 1000円
昼飯は、堀越町の蕎麦屋で🍺
茶臼山山頂を目指そう!
天王寺公園
旧黒田藩蔵屋敷長屋門 移築
を通り抜けて
慶沢園をチョット見て通り抜けよう 入園料150円
★慶沢園は、住友家 15代吉左衛門が茶臼山本邸として造営したもの
北門から出ると直ぐ目に入る茶臼山
頂上へ・・・茶臼山古墳
チョット前までなかった。昨年周辺工事の時設置したのかなぁ
登頂証明書➡︎一心寺で交付してくれる。チョット分かりにくい場所だ。
一心寺を通り抜け
南門から
この一画は一心寺村だなぁ。メチャ 広い境内というか敷地です
多くの参拝者ですね〜
今日は、帝塚山➡︎天下茶屋跡➡︎聖天山➡︎茶臼山 かなり歩きました
大阪5低山 4山は尋ねたので、御勝山(14m)は、又の機会にしよう!
因みに、宰相山(真田山)10m 昭和新山(33m)
整理すると
大阪市内の山
No 名 前 標高(M) 所 在 地
1 天保山 4.5 大阪市港区築港3丁目
2 真田山 10 大阪市天王寺区真田山町
3 御勝山 14 大阪市生野区勝山北3丁目
4 聖天山 14 大阪市阿倍野区松虫通3丁目
5 帝塚山 20 大阪市住吉区帝塚山西2丁目
6 茶臼山 26 大阪市天王寺区茶臼山町
7 昭和山 33 大阪市大正区千島2丁目
8 鶴見新山 39 大阪市鶴見区緑地公園
余談
★一心寺(いっしんじ)は、大阪府大阪市天王寺区にある浄土宗の寺であり、正式名称は坂松山高岳院一心寺(ばんしょうざん こうがくいん いっしんじ)。骨仏の寺としてよく知られている。天王寺公園に隣接した上町台地の崖線上に建ち、緑の多い広い境内を有している。法然上人二十五霊跡第七番札所。
★一心寺 沿革
1185年(文治元年)の春、四天王寺の別当であった慈円の要請によって、法然が四天王寺の西門の坂のほとりに、四間四面の草庵を結び、「荒陵の新別所」後に「源空庵」と称して住んだという。後白河法皇が四天王寺参詣の際に訪れて法然と共に日想観を修した。当時草庵の西は海を遠く見渡せ、極楽浄土の瑠璃の地のようであったという。1596年(慶長元年)、三河の僧侶であった本誉存牟上人が法然の旧跡であるこの地で一千日の念仏修法を行い、寺を再興した。彼の一心称名をもって寺ができたため、一心寺という名になったといわれる。
家康は、境内の坂の孤松のすがたを讃えて、「坂松山」の寺額を贈った。大坂冬の陣・大坂夏の陣では徳川家康の陣が茶臼山に隣接したこの寺に置かれている。この寺には大坂夏の陣の天王寺・岡山の戦いで最前線に立ち討ち死にした本多忠朝の墓所があるが、彼は酒を飲んでいたため冬の陣で敗退し家康に叱責され、見返そうと夏の陣で奮戦したが討ち死にし、死の間際に「酒のために身をあやまる者を救おう」と遺言したといわれることから「酒封じの神」とされるようになった[1]。今でも墓所には禁酒を誓う人がよく詣でている。
✳️骨仏
盆の間だけの施餓鬼法要が年中無休でできる寺として知られ、また宗旨に関係なく参詣や納骨を受け入れる寺でもあったため、全国から多くの納骨が集まった。1851年(嘉永4年)に遺骨数万体を集めて最初の大きな骨仏(阿弥陀仏)を作り、1887年(明治20年)以後10年ごとに集まった納骨で骨仏を作っている。
太平洋戦争期の大空襲で戦前の分は焼失したが、戦後1947年(昭和22年)から骨仏作りを再開(この際、空襲で焼失した戦前分の骨仏の残骸をかきあつめて第七期骨仏として完成)、現在も年中無休で年2万ほどの法要と納骨を受け入れ、10年分をあわせて骨仏が作られている。現在は第七期から第十三期(2007年(平成19年)開眼。1997年(平成9年)から2006年(平成18年)末まで)の骨仏が安置されている。
阿倍野区 聖天山 を目指す
約30分弱 目的地に到着
この境内が頂上らしい
奥之院がある
メチャ古く解体工事してる感じだった
奥に
この境内聖天山は神仏合体だ
アベノハルカスも見える
聖天山登頂!
天王寺の茶臼山を目指す。横着をしてタクシー 1000円
昼飯は、堀越町の蕎麦屋で🍺
茶臼山山頂を目指そう!
天王寺公園
旧黒田藩蔵屋敷長屋門 移築
を通り抜けて
慶沢園をチョット見て通り抜けよう 入園料150円
★慶沢園は、住友家 15代吉左衛門が茶臼山本邸として造営したもの
北門から出ると直ぐ目に入る茶臼山
頂上へ・・・茶臼山古墳
チョット前までなかった。昨年周辺工事の時設置したのかなぁ
登頂証明書➡︎一心寺で交付してくれる。チョット分かりにくい場所だ。
一心寺を通り抜け
南門から
この一画は一心寺村だなぁ。メチャ 広い境内というか敷地です
多くの参拝者ですね〜
今日は、帝塚山➡︎天下茶屋跡➡︎聖天山➡︎茶臼山 かなり歩きました
大阪5低山 4山は尋ねたので、御勝山(14m)は、又の機会にしよう!
因みに、宰相山(真田山)10m 昭和新山(33m)
整理すると
大阪市内の山
No 名 前 標高(M) 所 在 地
1 天保山 4.5 大阪市港区築港3丁目
2 真田山 10 大阪市天王寺区真田山町
3 御勝山 14 大阪市生野区勝山北3丁目
4 聖天山 14 大阪市阿倍野区松虫通3丁目
5 帝塚山 20 大阪市住吉区帝塚山西2丁目
6 茶臼山 26 大阪市天王寺区茶臼山町
7 昭和山 33 大阪市大正区千島2丁目
8 鶴見新山 39 大阪市鶴見区緑地公園
余談
★一心寺(いっしんじ)は、大阪府大阪市天王寺区にある浄土宗の寺であり、正式名称は坂松山高岳院一心寺(ばんしょうざん こうがくいん いっしんじ)。骨仏の寺としてよく知られている。天王寺公園に隣接した上町台地の崖線上に建ち、緑の多い広い境内を有している。法然上人二十五霊跡第七番札所。
★一心寺 沿革
1185年(文治元年)の春、四天王寺の別当であった慈円の要請によって、法然が四天王寺の西門の坂のほとりに、四間四面の草庵を結び、「荒陵の新別所」後に「源空庵」と称して住んだという。後白河法皇が四天王寺参詣の際に訪れて法然と共に日想観を修した。当時草庵の西は海を遠く見渡せ、極楽浄土の瑠璃の地のようであったという。1596年(慶長元年)、三河の僧侶であった本誉存牟上人が法然の旧跡であるこの地で一千日の念仏修法を行い、寺を再興した。彼の一心称名をもって寺ができたため、一心寺という名になったといわれる。
家康は、境内の坂の孤松のすがたを讃えて、「坂松山」の寺額を贈った。大坂冬の陣・大坂夏の陣では徳川家康の陣が茶臼山に隣接したこの寺に置かれている。この寺には大坂夏の陣の天王寺・岡山の戦いで最前線に立ち討ち死にした本多忠朝の墓所があるが、彼は酒を飲んでいたため冬の陣で敗退し家康に叱責され、見返そうと夏の陣で奮戦したが討ち死にし、死の間際に「酒のために身をあやまる者を救おう」と遺言したといわれることから「酒封じの神」とされるようになった[1]。今でも墓所には禁酒を誓う人がよく詣でている。
✳️骨仏
盆の間だけの施餓鬼法要が年中無休でできる寺として知られ、また宗旨に関係なく参詣や納骨を受け入れる寺でもあったため、全国から多くの納骨が集まった。1851年(嘉永4年)に遺骨数万体を集めて最初の大きな骨仏(阿弥陀仏)を作り、1887年(明治20年)以後10年ごとに集まった納骨で骨仏を作っている。
太平洋戦争期の大空襲で戦前の分は焼失したが、戦後1947年(昭和22年)から骨仏作りを再開(この際、空襲で焼失した戦前分の骨仏の残骸をかきあつめて第七期骨仏として完成)、現在も年中無休で年2万ほどの法要と納骨を受け入れ、10年分をあわせて骨仏が作られている。現在は第七期から第十三期(2007年(平成19年)開眼。1997年(平成9年)から2006年(平成18年)末まで)の骨仏が安置されている。